180516_3:20

寝る前に挽いておいた豆をハリオのV60に入れ、パンを焼いてマーガリンと砂糖とシナモンを載せて、コーヒーで胃に流し込む。
朝の10時。もうみんなは出勤しているのだろう。長過ぎる夏休みのような生活を、もう二ヶ月も送っている。
昨日は煮物を作った。
煮物は、実は放っておけばいいものではなくて、定期的に見ておいてあげないと黒焦げになってしまうおそれがある。近所の八百屋で買った100円の新じゃが。新玉ねぎは冷蔵庫に眠っているのでマリネにしよう、などと考えなら鍋を見ていると、煮物から湯気が出始めた。
キッチンに煮物の匂いが広がる。
俺がまだ小学生だったとき、学校から帰って、こっそり友達の漫画を読んだり、自分の漫画を書いたりしているとき、階下から母の作る煮物の匂いがしてきた。オートレース場からバイクのエンジン音が聞こえる。北の窓からは、西日に照らされた赤城山が見える。溜まっているZ会のテキストたち、ガンダムのプラモデル、床に積まれているナルニア国物語。
無限の選択肢がある、と子供を観ると思うけど、家族、という有限性がある。家族は、たぶん、俺に「普通」になってほしいのだと思う。
「普通」。そこから逸脱したいとも思っていないのに、生きていると、そこからどんどん遠ざかっているようなきがする。
やれること、やりたいことがたくさんあって、しかもそれがたくさんの人を巻き込んで動き出しているのがわかる。
そのなかで、その動きを楽しめるだけの金銭的な余裕がないのが苦しい。しかし、金銭的な余裕が生まれるということは、それを生み出す時間を「やりたいこと」を削ることにもなる。これは分かちがたく結びついていて、どちらを選択するのかわからない。

といったようなことを母にLINEでおくったら、「自我と自信のバランスを持て」といったようなことを言われた。自我と自信。内側からの自分と、外側からの自分、その緩衝地帯に、俺は立っていて、だからこそぐらついているし、倒れそうになるときもあるのだと思う。

受かりたい、と思っていたバイトの面接に、懸念していた理由で、ぐうの音も出ない理由で、落ちた。ショックだったわけではないが、自分が「作家」として見られること、に疑問を抱く。俺は何者なのだろう。俺自信は、俺は俺でしか無いと思っているのだけど、それだけではきっと言葉が足りない、それを埋めるために色々好きなものに手を出すも、その収斂がうまくいかない。金にもなりづらいから、生活はいつもよくてギリギリ、通常はギリギリ以下だ。

だから、名刺を作り直した。肩書を何にしよう、と考え、「Photographer/Urbanist」と名乗ることにした。写真はずっと取り続けている。8年くらい。日の目を見たことはないけど、きっとこれからもとりつづけるのだと思う。都市について考えながら、あるいは、都市以外の場所について都市から考えながら、8年前の上京のときからずっと、すべての思考にそれがフィードバックしている。それを行動に移しつつあるので、アーバニストと名乗ることにした。
自分が「何者」かであるのかが未だにわからない。自己紹介が下手だな、といつも思う。なんでもやっているわけではない。俺は俺だし、俺が世に出している(つもりになっている)ものもすべて俺から出てきているもののはずなのに、だからこそ、何か「職業」に埋没することができない自分に煮え切らない思いを持つ。「職業」がある、それを自分で名乗れる人のところには、仕事が来るのだろう。俺は仕事はできるのに、その「何者かわからない」せいで仕事が来ないのかもなあ、と考えていた。

今日は暖かったのに、外に出たのは風呂上がり、自販機にコーラを買いにいった3分間だけだった。今日もまた、読みたい本が読めなかった。読みたい、読むべき本ばかりが増えていく。何かを切り捨てないといけないだろうか。本当に、何も切り捨てたくはない、ぜんぶやりたいんだけど。

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