FOLLOW ME

夢を見た。起きたとき、俺は少しだけ泣いていた。
どのように具体的な夢だったのかをいま思い出すことはできない。
夢は、起きた瞬間、タバコに火をつけて換気扇に向かってその煙を吐いている瞬間から、どんどん忘れていってしまう。

とても悲しい夢だった。何か、大切な出来事が終わってしまって、それを俺だけが追いかけているような夢だった。周りの友人達は俺のことを追いかけてはくれず、俺だけがその「何か」に執着しているという夢だった。

———

俺は小さいとき、神輿があるとそちらの方へ駆けていくような子供だったと親から聞かされたことがある。高校一年生の運動会と後夜祭のあと、その楽しさ故にしばらく何もできず、家に帰らずに近所の芝生のある公園で一人寝転がっていた。
高校二年生の文化祭では、一回限りのそれが終わってしまう悲しみから、文化祭の最中に涙が溢れて仕方がなかった。
高校三年生の運動会では、一番目立ちたくて、一番目立つポジションに居座った、つまり神輿に登ってみたのだけど、それでも幼少期の、「神輿がある”方へ駆けていく”」先にある欲望は満たされなかった。

16歳のとき、派遣でお金をためて、初めて自分で行ったサマーソニックのあと一週間は寝込んでしまった。その夏休みは生まれて初めてのバンド結成とライブが有り、サマーソニックの前日は、その初めて(とかりそめの最後)のライブの日でもあった。とにかく何も手につかず、喪失感と憂鬱のみに感情を支配され、一歩も部屋を出なかった。

今日見た夢の「悲しさ」はそれに近かった。夢の中で、何かが終わっていた。俺は、まだそれを続けよう、と言っているのだけど、誰もこちらを振り向いてくれない。俺一人が取り残されている。

夢と現実はつながっている。それは、粘着/接触しているという意味での「つながっている」ではない。円環のように、螺旋が、その半径の上の一点において出会うように、あるいは一枚の紙の裏と表のように、互いを行き来しながらつながっている。

向精神薬をオーバードーズしたとき、大麻を吸ったとき、ドラッグを摂取したとき、酒を飲んだとき、それはシラフではない。ただ、シラフではないというだけで、それもまた現実だ。夢を見ているとき、夢を見たあと、それもまたシラフではない。しかし、その状態と現実はつながっている。意識の端と端を結びつけるような形で、自分は確かに、そこに存在している。そして、シラフもまた現実ではない。

俺は何を追いかけているのだろうか。
芝生で寝転んでいた15歳の俺が考えていたことを、俺は確かに覚えている。「ああ、楽しかった、このやりきれない楽しさは何なのだろう、この気持が成就されるかもしれない日を待つまで、あと一年もあるのか」だった。16歳の俺は、「こういう楽しさはもう二度と訪れないのだろう。しかしこのやりきれない楽しさは何なのだろうか」。17歳の俺は、「終わってしまった、しかしまだ楽しい、これからがもっと楽しくなるはずなのに、その楽しくなるめどがつかない、やりきれない」だった。
27歳の俺は、「ああ楽しい、しかし、まだ楽しくない、いつ楽しさがやってくるのだろう」と思っている。

そういう感覚を、さっき、夢の中で味わった。
俺はきっと最近、毎日楽しい。しかし、まだ楽しめると思うたび、俺が何かの手を引こうとするたび、指先は空虚をかすめる。俺の手を握って、お互いに楽しい方向へ引っ張り合うような関係性を望むのには、27歳という年齢は遅くはないと思うのに。

もういいよ、すべておしまい、やりきった、と思う瞬間は、自分から遠いどころか、存在すらしてないのではないかと最近はよく考えている。
かといって革命を望んでいるわけではない。革命は「来るべき日常」を手に入れるためのものだから。日常の先にありそうな、向かうべき神輿らしき姿も、いまは見当たらない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?