ある”omoide in my head”というブログについて

「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れないもの」の輝きがあって、俺はかつてそういうものの魅力に惹きつけられていたはずなのに、いつの間にか俺の周りからそういうものは損なわれてしまっていた。俺が損なったのかもしれない。そういう、存在の不確かな、しかしたしかにそこにあるものに出会い続けるための何かを、いつどこで失ったのかは、今はわからない。

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これは何回も思い出して、何回も言及していることなんだけど、たしか2011年、ナンバーガールが好きな援助交際をしている女子高生のブログを発見して、毎日それを読んでいた。こうやって文字にしてみるとけっこうドラマチックな印象を与えてしまうかもしれないし、じっさいいま思い出して文章にしている行為自体、ある種のノスタルジーとかドラマととかが付随させようとしている行為であることには変わりないし、というかそれを平坦な言葉で書こうとしている自分を観察して辟易しはじめているのだけど、とにかくそういうブログがあった。

(嫌気がさしたついでにメモ代わりに書いておく、そのブログを見ていた自分の特定の時期をドラマチックなものであったとして、いまそれを思い出しているこの時間も、あとから思いだしたときに「いつか、なにか」の輝きを持つであろうと俺は確信してしまっているので、本当に、これから数行はきっといやらしい文章になる)

出会ったのは、確か自分のブログのエントリーがgoogle検索でどれくらいの位置に出てくるのか、ということを確認しているときで、そのとき俺は「omoide in my head」というタイトルのブログ記事を書いて、それがまあまあウケていることを知っていたので、調べてみたのだった。あっけなく上から3番目くらいに出てきてしまったので、そのままスクロールを続けていくと、5ページくらいのところに、彼女のブログが出てきた。
援助交際をしている、おじさんのことを好きになってしまった、学校行くのだるい、といったことが毎日10行くらいの文章で書かれていて、たまにiPodClassicでナンバーガールを聴いている様子の写真などが添付されていて、僕は本当に食い入るように毎日見ていた。何故かそのブログのことを誰かに言うことはなかった。

じきに、彼女のブログからは援助交際の話題は消え、大学受験のことなどがポツポツと書かれるようになり、そして更新が止まった。
僕はその頃、大学でサークルに入り、友だちの数が急増し、何者かになりたいがために毎日ツイッターを更新していたらフォロワーが1500人位になって、本当にダサい時期だったんだけど、それでも毎日が楽しくて、彼女のブログを見ることはなくなっていた。

留年して実家に帰って、毎日やることがなくて教習所に通いだした春、教習所から帰ってきて犬の散歩をしているときにそのブログのことを思い出して、ブックマークから飛んでみると、そのブログは消えていた。
消さなくてもいいのに、と思ったけど、彼女の中で、何かがあったのだろう。僕はそのことを知らない。

俺は彼女の名前も、顔も、出身地も、何も知らなかったし、そして彼女は俺がそのブログを読んでいることを絶対に知らなかった。
もしかしたら、彼女が援助交際をしているということも嘘かもしれない。女子高生だということも嘘かもしれない。それが嘘でもよかった、と言いたいわけではない。嘘だという可能性も加味して、ただ一方的に読む/読まれる、という、見えない関係がそこに存在しているということが心地よかった。その、「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れないもの」という、その不確かさ、不確かさに開かれる偶然性を追い求めて、2011年、大学に友達がいなかった俺はインターネットを見ていた。

そんなことを、23歳の俺は、犬の散歩をしながら思いだしたのだった。
特に落ち込まなかった気がするが、その記憶は、27歳の俺がこうして再び引き受ける程度には、強く心に残っている。

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匿名の誰かになりたい、匿名の誰かを見たい、お互いに、一方的に。
そういう欲望が何かを成り立たせる時代ではないのは、なんとなくわかってる。

俺達は関係しすぎているし、しかし関係からは離れられないのだということも知っている。
関係する、とは、すべてにおいてだ。他者と自分の関係のみを言っているのではない。自分と、「自分」も、関係しすぎている。

関係しすぎると、匿名の、ないしはハンドルネームと呼ばれたものの持つ意味は薄れる。
ハンドルネームに、自分を細かく記号化して鍋のように放り込んでいるつもりだったのに、いつの間にか、そのハンドルネームと自分の名前が指すものの間に、大きな違いなんかなくなってしまっている。

みんなが誰かになりたかった時期が過ぎ去って、そして、自分ではいたくなかった時期も同時に過ぎ去って、みんな、自分が自分であることを大事にしている。自分と自分を強く関係させ、あらゆる点で関係させ、その表面にインターネットがある。

偶然性はなくなり、誰かのつながりが、誰かとつながると既に存在している。あるいは、そのつながりを頼りに誰かとつながる。

俺は2017年の4月にブログとツイッターのアカウントを消して、全てのSNSを本名で再開した。「誰か」になるのはその方が手っ取り早いと思ったからだ。俺にとってなりたい「誰か」は俺だった。何かが変わった気がした。とにかく、自分がそういうモードになったということはとてもニュートラルなことで、その「本名にした」というところのに、意思とかがあったわけではない。

ただ、何かから自由になりたかった。その正体は今もわからない。

自由になる、自由になって、しかし名前に縛られながら、世界の偶然性に出会い続けたかったのだと思う。どうせ強く関係してしまう、他者としての自分において、世界と自由になりたかった。

俺は最近、自分とも関係したくないと思っている。自分と関係するということは、自分の存在に疑問を持つことに近い。だから、他人とも強く関係したくはない。かつての偶然性に浸された海としてのインターネットが恋しくなる。
他者である自分に何かを語らせる、語らせていたインターネットは終わってしまったのだ、ということに、悲しさはない。冒頭に書いたように、ノスタルジーは感じるけど、それは幼少期のぬいぐるみと同じで、いまの自分と切り離して考えることは絶対にできない、しかし今とはまったく関係のないものだ。

ただ、インターネットの玩具性のようなものについて考えるとき、そして、あらゆる関係性が嫌になって、偶然性に開かれたいと思うとき、俺はいつも、omoide in my headというブログのことを思い出す。

このエントリーが少しだけ有名になって、googleの検索結果一覧の上の方に出てきて、そして、彼女がかつての自分のブログタイトル、あるいはナンバーガールの歌詞で検索をかけて、このエントリーが彼女の目に止まる、「かもしれない」。
そのことは俺は今後ずっと知らない。しかし、そういう偶然は、存在している。もしくは、存在させようとし続けることがいまの俺にはできる。

だから、このエントリーを書いた。世界から、インターネットから、あらゆる関係から、自分が自由であるために。


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