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ニイさんが、「オムライスを食べに行こう」と言った。
どうしたんですか、オムライス。急に。と聞き返した、が、ニイさんはそんなわたしの疑問などお構い無しにオムライスの食べられるお店を探していた。

ニイさんに連れられて入った純喫茶は、この時代には珍しく煙草が吸える、昭和レトロをそのまま現代に持ってきたようなつくりをしていた。若いウェイトレスの言われるがままに席についた。

ニイさんは本当は「二井」という名前で、読みは「フタイ」なのだが、笑顔がチェシャ猫に似ていて「ニィ」という鳴き声が聞こえてきそうという理由から、わたしが勝手に、気付いた時にはニイさんと呼ぶようになった。ニイさんもそれを嫌がっている様子はなかった。

オムライスは、絵の具のような、純色の黄色をしていてとても綺麗だった。卵を崩すと、ふわふわの中身がとろりと垂れた。チキンライスとのバランスが絶妙で、オムライスはこうあるべきだよなあ、と思った。

一通り食べ終わった後、ニイさんは紅茶を、わたしはクリームソーダを注文した。入った時案内してくれたウェイトレスは、赤い髪をひとつに束ね、ほっそりした手足で気だるげそうに店内を歩いていた。
店内をキョロキョロ見渡していると、ニイさんが煙草に火をつけた音がした。向き直すと、ニイさんは顎に手を当て、無意識的に、けれど故意に、わたしと目を合わせないようにしていた。ニイさんは、煙草を吸って、吐いて、ため息をひとつつくと「君はさあ」と言った。
はい。
続けて、「生きるのが辛いとか、はやくいなくなりたいとか、これっぽっちも思わないのかい」
そんなふうに思っていた時期もありましたけれど、今は特に。
ニイさんは名前のついている精神疾患のほとんどを持つ人だった。から、死んでしまいたいとか、そんなようなことをまた思っているんだろうなという程度にしか、彼女の発言をみていなかった。
ニイさんは、
「ふうん、そう。」
と言うと、もう一度煙草を吸った。

ニイさんの年齢は知らない。
何歳も歳上らしく思われる。同じくらいの年齢にも思われる。ニイさんが喋ることは、某町で見た大道芸人の顔が自分のひいひいじいさんに似ているだの、以前からの知り合いが原因不明の病にふせったと思ったらある日前ぶれもなく顔相が変わってそれを境に病も癒え精神疾患も改善しまるで別人のようになっただの、埒もないことである。埒もないことを、ゆっくりと楽しげに喋る。
ニイさんとは、たまたま立ち寄った町の骨董品市で出会った。店主と話していたところにわたしが割り込んだ。わざわざ予定を立ててどこかに行くなんてことはほとんどせず、お互い、なんとなく暇な時呼んだら来る人、程度の感覚でいた。

ある夜、ニイさんに誘われて海に行った。
夏の夜は昼間よりもいくらか気温が低く、汗もかかない涼しさだった。時折吹く風が気持ちいい。
砂浜に打ち上げられた大きな流木に2人並んで腰掛けた。
ニイさんは煙草に火をつけながら、「君は、私のことをずっと」と言いかけたところで、ニイさんは頭を抱え、少し泣いた。いや、泣いたように見えた。なんて言おうとしたのですか、と問おうとしたが、そんなわたしの言葉をさえぎるようにニイさんは履いていたオレンジの石がついたビーチサンダルを脱ぎ、海へと駆け出していった。わたしもついていくと、ニイさんはこちらに向かって水をかけてきた。から、わたしもやり返した。
海から出て、2人して砂まみれの足を拭いているとき、横でしゃがんでいたニイさんがわたしにもたれ掛かってきた。そしてそのままわたしの上体を砂浜に倒し、力いっぱい、わたしの首を絞めた。ニイさん、苦しい。と、言おうとしたがうまく声が出せなかったから、代わりに力の入らない拳でニイさんの肩をポカポカ殴った。殴る力もだんだん弱くなってきた頃、ニイさんがハッと目を見開いて、わたしの首にこめていた力を、ゆっくり緩めた。そしてそのままわたしに背を向け、白くひかるわたしの手を握った。
裸足のまま、砂浜を歩く。サンダルを片方の手に持ち、片方の手でニイさんの力の抜けた手のひらを握っていた。
わたしはニイさんに何も聞かなかった。詮索はしなかったし、気になりすらしなかった。ただひとつ、ニイさんとはもう会えないのではないかと思っただけだった。



秋になって、冬が来た。つらい冬を乗り越えてようやくやってきた春のある朝、ニイさんから手紙が届いた。
茶色の便箋に入ったそれは、「海の日」のことについての謝罪と、もう一度会いたい、良ければ何日の何時にあの純喫茶に来てください。というものだった。

わたしは、決められた日、決められた時間に、その純喫茶に向かった。
予約したはずの名前をウェイトレスに伝え案内された席に、ニイさんが座っていた。その日わたしを案内してくれたウェイトレスは、以前来た時にいた、髪の赤い女ではなかった。向かいの席に座る。ニイさんは、相変わらず同じ煙草を吸っていた。ニイさんは、わたしの顔を見て、「やあ」とひとことだけ言うと、でかい声で前回と同じオムライスをふた皿注文した。
それを食べ終わるまで、わたしから話をすることはなく、また、彼女から話を振られることもなかった。無言のまま、オムライスを食べ進めていく。こんな不思議な状況でも、変わらずオムライスはふわふわとろとろで、しっかり美味しかった。
2人ともオムライスを完食しスプーンを置いたところで、ニイさんがようやく口を開いた。
「何も、知りたくないのかい。」と。
はあ、何も。
「どうして私があんな事をしたのかも、なぜ今更連絡を寄越したのかも、知りたくないのかい?」
わたしは別段その事を気にしている訳では無いし、今まで連絡をくれなかったのはもうわたしに会う気が無いからなんだと思ってた。
と伝えると、ニイさんはテーブルにウェイトレスを呼び付け、紅茶を2杯注文した。前に飲んだクリームソーダは、少し甘すぎたので、やめた。
そして、「君は何も変わっていないな」と、2本目の煙草に火をつけた。
あら、そうかしら。
「ああ、何ヶ月も会っていなかったのに、しっくりくるくらいだ」と。
わたしはニイさんのその言葉を褒め言葉と受け取って良いのかわからず、慣れない苦笑いをした。
紅茶を飲み、喫茶店を出た。手紙に書いてあった住所は、わたしの家とは反対方面に位置していた。
「じゃあな」と言って歩き出した彼女の背に、今までよりも少し大きな声で、
ニイさん、と呼びかけた。
振り返る。
ニイさん、あたし、寂しかったよ。と。
「寂しかったかあ」
寂しかったよ。今も。
「私も、寂しかったんかなあ」
ニイさんは、わたしの目をしっかり見つめながら、チェシャ猫のように、「ニィ」と笑った。
そして前を向き直し、「またな」と言った。

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