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だだっ広い東京から愛をこめて

 「いつの日かみんな私を忘れるんですよ、私と電話したことも、目を合わせて話したことも、手を繋いだことも、キスやセックスすらもぜーんぶ。そして彼等はあたらしい人とあたらしい恋をはじめるんです。全部はじめてみたいな顔しちゃって、時には“うまく出来なくてごめんね”って、ウブを演じるんですよ。その女は背が低くって、美容院で染めたきれいな茶髪に、毛先をクルクル巻いて、さぞかし可愛い子なんですね。そんな妄想まで出来ちゃうくらいに。そんな思考を張り巡らせていたら、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきちゃって。
何が言いたいって、あなたは私のことを絶対忘れないって言うけれど、人間でいる限り忘却することは不可避なんです。ふふ、そうは言っても、私は発生したあのときから何にも忘れられてないのかもしれません。けれど、ただひとつ忘れられたのが────」
 「ラストオーダー大丈夫そうですか、お会計こちらになりますー。」
彼女の言葉は伝票を持ってきた店員の声によって遮られた。
 そろそろ、出ますか。僕、払っちゃいますね。
そう呟き、店員にカードを渡した。僕達がいた大衆居酒屋は、僕にとっては少し騒がしかった、けれど彼女には居心地が良かったようだった。


 僕と彼女は、所謂セックスフレンド、というものだった。月に1回、第2金曜日、お決まりの居酒屋で飲む。その後お決まりのラブホテルに行って、お決まりのセックスをする。

僕も彼女も、つまらない人間だった。

 彼女の名前は、知らない。インターネットで知り合った人間の本名を聞くなんて不躾だと、初めて会った時彼女がそう言っていた。「私はインターネットの皆のこと、自分で付けた自分が自分を愛せる名前で呼んであげたい」とも言っていた。僕は妙にそれに納得してしまって。自分で話した以上のことは詮索しないというのがいつの間にか僕たちのルールになっていた。

 「私ね、小さい頃のこと、覚えてないの。だから未だに、忘れるってことが怖い。昨日までそこにあった感情や視界が別人のもののようになるのが怖い、だって私はここにしかいないのに。」
冷たい風が吹き始めた10月、彼女はそう言っていた。
へぇ、なんで?
それ以上は、話してくれなかった。

 2月も終盤のいちばん寒い時期、ある日突然彼女からの連絡が途絶えた。そういうのはインターネットの世界ではよくある事で、僕自身そんな経験が何度もあった。から、別段気にすることもなく、日常は当たり前に進んで行った。まるで、初めから僕らは関わりなんかなかったみたいに。


 6月、梅雨を通り越しすっかり街は夏の雰囲気で、意味不明な太陽が熱波を放っていた。それは最寄りのコンビニに冷やし中華を買いに行って帰る道中のことだった。歩きながら盗み見したテレビには臨時ニュースの文字を見た。画面が切り替わる。突然、画面には誰かの顔が大きく映し出された。彼女だった。
 心臓が、大きくドクンと波打った。呼吸が浅くなる。
僕はテレビに釘付けになってしまい、無意識に、店の中にズカズカと入っていった。スナックのママは、急に入ってきた僕に対して怒るでもなく、慌てるでもなく、ただ、冷たい麦茶を出してくれた。無言で席に着く。スマホを取り出し、そこで初めて知った彼女の名前を検索にかけた。
涙よりも早く、猛烈な吐き気が僕を襲った。

彼女は、2月の半ば、僕と会った日の帰り道、通り魔に襲われて死んでいた。遺体が、関東の山奥から今朝発見された。

 ふらついた足元で帰路をたどる。なんとかアパートについた頃には、頭の中は焦燥感でいっぱいだった。あの日、僕がもう少し長く彼女を引き留めていたら。そもそもあの日、僕たちが会わなければ。考えたって仕方ないことばかりが素早く頭の中を横切る。
それから何時間が経っただろう。夜が深い。ふと、彼女の言葉を思い出した。
 「何が言いたいって、あなたは私のことを絶対忘れないって言うけれど、人間でいる限り忘却することは不可避なんです。ふふ、そうは言っても、私は発生したあのときから何にも忘れられてないのかもしれません。けれど、ただひとつ忘れられたのが────」
 忘れられたのが、何?

 彼女のことを、もっと早く知りたかった。
あれから僕は、彼女の身辺を無我夢中で調べた。真夜中、十何年も前の記事に、彼女の名前を見つけた。それは、高校生だった彼女は誤って田舎の橋から転落、一命は取り留めたものの、後天的な記憶障害を患ったというものだった。

 翌日深夜、僕は彼女の地元行きのバスに乗っていた。彼女のことを少しでも多く知りたかった。
記事に書いてあった彼女の地元はとても寒い地域だった。東京から丸一日と少し、目的地についた頃にはとっくに外は明るくなっていた。

 彼女の地元は想像の何倍も小さく、枯れた集落だった。だから、彼女の実家を見つけ出すのはあまりに容易だった。彼女の苗字と同じ表札のある家。3回ノックした。反応がない。もう3回ノックした。横開きの扉に手をかける。扉は、カラカラと音を立てて、ゆっくりと開いた。
人の気配が、しない。家の中はまるで、人だけいなくなってしまったかのようだった、生活の息がまだそこにあった。小さなちゃぶ台の上には水の入ったグラスがひとつ。それだけだった。
 2階に続く階段を昇る。小部屋の扉を開くと、そこは子供部屋のようだった。きちっと整えられたベッドの上に、小さな冊子を見つけた。

Diary

2月6日

空を仰いで、風になって、風船みたいに飛んだ秘め事は墓場まで持っていく。頭の中を同じように見えるようにならないと安心できるようにはならない。

最後のページ

4月21日

愛に甘えていた私のせいでした。ねえ。わたしはここだよ。きみにあいたくて、これは純度でも糖度でも測らせてやるよ。世界で1番愛しているよと何度も言われてきた人生で、その言葉の価値が掠れてしまったこの頃で、私、全てをなくしたい。


 日記はそこで途絶えていた。これはきっと、高校生だった彼女の書いたものだ。
肩から力が抜けてしまった。

彼女は、"誤って"橋から転落したのだ。

しばらく、ぼう然としていた。


 東京行きのバスに乗る。考えていることが言葉にならずに、流れていく。
人格の土台は大体3歳くらいに形成され、10歳くらいまでに確立する、と、どこかで聞いたことがある。彼女が忘れたかった、忘れられたものが何だったかわかったような気がした。雨が降っていた。


 2人には、ルールがあった。自分で話した以上のことは詮索しない。というものだった。


 その晩、久々に花火をした。ちりちりと音を立てて光るそれは、どこか儚さをまとっていた。花火を持って、くるくるとその場で回ってみせた。火花がカーテンのようにゆっくり落ちてゆく。少しだけ、泣いた。



Dear


 君が何を考えていたとか、君の人格がどうとか、正直僕はどうだっていい。そんなの抜きにしたって、君の話は面白かったし二人でいる時間は楽しかった。と思う。嫌なもの臭いものには蓋をして、自分の周りには好きだけを集めて生きていたら、吐く言葉も多少は綺麗に、浄化されたものになるでしょ。君の言葉の続きを聞けなかったことを、残念に思う。少し、寂しいです。
 夏。夏だよ。僕、今まで夏嫌いだったんだけど。本気の夏をやってみたくなっちゃったな、川でクリスマスカラーのおかしな花火を散らして。運命っぽいものなんて言葉の裏に山ほどある、おかしいのは暑さのせい。君なんて、知らないことのほうが山ほどある、思い出したくなかったのは甘さだけ。はは。すきだわ。今日まで続いてたなんも変わらん世界ぶち壊すだけの衝動。いつかね。それでも、寂しかったり、哀しかったりする気持ちの底には、昔そこに幸せだった時間があったという、儚い事実がある。
だだっ広い東京から愛をこめて。


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