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そんな中でもやさしさは生きるんだって

 或る夜、終電を逃した。北新地を目的もなく歩いていた。普段のLarkが、酷く不味く感じた。
仕事は上手くいかないし上司たちの嵐に揉まれてもう滅茶苦茶、ペットの猫が死んだし恋人には振られた。絶望的な11月のことだった。

 もう1時間近く経っただろうか、ここはどこだろう。近くの電柱に書いてあった住所は、天六、知らない土地だった。コンビニの安いコークハイ、目に悪いバカの光、チープな酔い方をした。
あー淀川だって。飛び込んだら死ねるかななんて、つまらないことを考えた。死は避難梯子のようなものだと言っていたあの同級生のことを思い出す。いざと言う時選択肢のひとつにいれておけば、大抵の事は乗り切れるって。そんなわけないじゃんね、と今では思うけれど。

 彼女は確か、高三の冬に校舎から飛び降りて死んだ。窓から飛んだ瞬間を目にした女の子が泣いていたのを見た、慌てる教師たちと物珍しそうに下を見下ろす男子生徒の姿。何なんだこの世の中は、と思っていた記憶。
話下手で表情の少ないわたしは友達なんか殆ど居なかった。けれど、彼女とだけは比較的仲が良かった。と思う。
万年死にたがりの彼女は、最後静かに消えていった。その日その朝彼女がわたしに送ってきたメール。大森靖子に掻き消される程度のその叫びで満足するなよ。と。ただ一言だけ。
今でもまだ、彼女がどこかで生きているような気がする。街中でフラっとすれ違うんじゃないかって。

 地面に座り込んだ。もう歩けなかった。雑居ビルの階段にぐったりと寄りかかる。このままどうにかなってしまえばいいって、本気でそう思った。そしてそのまま、眠気と暗闇に、わたしのからだは溶けていった。

 肩を揺さぶる振動と大声により、意識を取り戻した。
ねーお姉さん大丈夫?と。黒くて艶のある髪を鎖骨あたりで切りそろえ、白いセーラー服を着た少女だった。
お姉さんさ、帰んないの?とわたしに向かって訊いてくる。言葉に詰まった。同棲していた恋人に振られて家を追い出されたわたしだった。
もしかして、帰る場所がないの? そう訊いてくる少女の表情は変わらない。静かな声だった。
わたしは咄嗟に頷いた、すると少女はわたしの腕を引っ張り、わたしを立たせ、
うちにおいでよ、さあ、帰ろう。と。
少女に手を引っ張られながら、彼女の1歩後ろを歩いた。足取りは、昨日より軽かった。
寒い寒い朝だった。

 少女の家は鶴見にある小さなアパートだった。2つある部屋の片方が和室でもう片方がフローリングのその空間は、なんだか暗く、淋しげにみえた。ソファの隅に腰掛ける。少女は、
気にしないで〜。うち一人暮らしだから〜。と言いながら、てきぱきとお茶を淹れている。少女はくすんだ色をした湯呑みを2つこちらに運んできた。そしてそのままソファに座り、テレビをつけた。しょうもないバラエティ番組を鼻で笑っていた。
少しの沈黙。
あの、どうしてわたしにこんなに良くしてくれるの。
見ず知らずの人間を家に入れるなんて。
すると少女は優しく微笑んで、
だってお姉さん、困ってたから。と。ただ一言だけ。
わたしはそれが嬉しくて。目に溜まった涙を湯呑みで隠すように、お茶をゴクゴクと飲んだ。


 その晩、ふと目が覚めた。
隣の部屋から、少女がすすり泣いている声が聞こえた。引き戸を開けると、それはカラカラと音を立てて開いた、少女は壁の方を向いて、ただ静かに涙を零していた。少女はこちらに寝返りを打って、
どうしたの。眠れない?と訊いた。
あなたが泣く声が聞こえたから…と言うと、少女はケラケラと笑って、
ちょっとね。寒い夜はナーバスになっちゃうんだ。と少し悲しい目で呟いた。
そうだった。少女もまだ幼いただの女の子なのだ。少女はわたしを助けてくれた、次はわたしの番だ、等と、在り来りなつまらない思考が頭を巡った。
少女の布団に潜り込もうとすると、少女は笑って掛布団を捲り、
おいで。
と優しい声で言ってくれた。

 わたしに背を向ける少女を、わたしは後ろから抱き締めていた。
静かな声で、少女に語りかける。
わたしね、高校のとき仲の良かった友達がいてね。その子が教えてくれたの。どうしようもなく悲しくて涙が溢れて仕方ないときは、今見えてるものを3つ、今感じてる感覚を3つ、今聞こえてる音を3つ…そういう風に、身近にあるものをいくついくつも思い浮かべて数えていると、いつの間にか落ち着いて眠れるようになるって。
今わたしに見えてるのは、壁と、お布団と、あなたの髪。わたしが感じてるのは、ひんやりした部屋の寒さと、お布団のあたたかさと、あなたの体温。わたしに聞こえるのは、遠くの加湿器が煙を吐く音と、布が擦れる音と、あなたの心臓の音。わたし、こわい夜はいつも決まってこうするの。これしてるといつの間にか眠っちゃってるのよ。

少女は、微かな声で静かに呟き始めた。何を言っているのかは聞こえなかった、けれど、少女の声が段々柔らかくなっていくのを感じた。
気付くと少女は寝息を立てていた。ほっと安心した途端、わたしも睡魔に襲われて、そのまま眠りについた。

その夜久しぶりに夢を見た。高校生の頃の夢だった。彼女が出てきたんだ。わたしたちは放課後ひかりが差し込む教室でただ座っていた。扉に鍵をかけてまで。彼女はこちらになにか話しかけている、のに声が聞こえない。放課後の雑踏だけが音になって。次第にそれはノイズに変わって、音量も増して。パニックになりかけたその時、地面が回転した。
 目を覚ますとわたしはベッドから落下していた。隣の部屋から心配そうにこちらを見ている少女と目が合い、少し笑った。

 机の上に、目玉焼きを乗せたトーストと珈琲。ふたり分。
顔を洗っておいで、早く座って。と微笑みながら言う少女は、昨晩とはうって変わってなんだかいくつも歳上のように思えた。
人の手料理を食べるのは久々のことだった。ただただ嬉しかった。自分から無邪気な子供のような笑顔が自然と飛び出たことに少し驚いたが、そんなのはすぐ風に流れていった。冬の朝にしかない彩度のひかりが、マグカップを照らしていた。

 新卒で就職してから早4年、皆勤賞だった会社を今日は休んだ。残っている仕事なんて誰に迷惑をかけることなんてどうでもよかった。少女のことだけが気になっていた。この部屋にいると、不思議とこの世界にわたしと少女とふたりだけのような気がしてくる。小さな文庫本を読む少女の横顔を眺めていた。
徐に少女が立ち上がった。うまくバランスが取れなかったのか、少女はよろけて壁際にあった棚にぶつかった。棚の上にあった真っ白な洗面器が落ちて割れた。それはあまりに長い落下だった、なんだか夢を見ているようだった。
少女はどこか寂しそうな表情で床に転がった欠片を拾った。
わたしが、
大丈夫?怪我してない?と少女に駆け寄ると、
少女は、
これね、昔骨董品の市場で母親に買ってもらったんだ。大事にしてたんだけどな。と、小さな声で言った。
洗面器の欠片は雪のような色をしていて、とても綺麗に水を反射させるのが容易に想像できた。だけれどわたしには、焦茶に染まった床と破片とのコントラストの方が綺麗に思えた。
少女は欠片をすべて拾い終えると、それを仕舞っていた袋を捨て、静かに床に座った。
ねえ、骨董品屋さん、行こうよ。
咄嗟に口から出た言葉だった。悲しげな少女を見るのが辛かった。

 電車を乗り継ぎ、降りた先は北堀江。東京でいう下北沢のような街。ここは時間の流れが遅くて良い。目的もなく、街を彷徨いた。骨董品店に行こうなんてでかい口を叩いたはいいものの、わたしは北堀江に降りたことなんて一度も無かった。
 駅から北にしばらく歩くと、とある喫茶店を見つけた。屈まないとくぐれない程度の高さの、木製の扉にちいさく「東雲珈琲店」と書いてあった。表からでは中が見えないその構造は、わたしの興味を唆った。
少女に目配せをすると、少女は微笑んで頷いた。






ここから先がいつまで経っても書けない。本当は「それから彼女たちはずっと幸せに暮らしましたとさ」とか「夕日に向かって彼女たちは走っていった。」だとか書けばいいんだろうけど。無理でした。ので、このお話はこれでおしまい。
彼女たちがどうなったかは皆の頭のなかに、ハッピーエンドでもバッドエンドでもなんでもいい、皆がこのお話を終わらせてね。
まあ、わたし的にはこのふたりは幸せになって欲しいけど。

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