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紙ストローにキレながらスタバに居座る

 相変わらず努力とか本気とか根性とかが嫌いな僕は、大衆的に推奨されている汗臭い行動を一歩引いて見てしまうし、SGDsとかsustainableとか興味がなく今日も紙ストローにキレながらスタバに居座る。

 世の中を軽く見て、人生は死ぬまでの暇つぶしだって本気で思ってるし、いつまでも遊んでいたいしだらだらへらへらふらふらなぁなぁで生きていたい僕が、その思想に似合わず鬱病になった。惰性的思想を核に秘めながらも、やるからにはできることをしっかりこなして、できないことはできるようになりたい一心で仕事してたし、貰った期待以上のことを成し遂げたいって本気で思ってた。鬱病発症したバックグラウンドの話は前にnote『生活と生きることは辞めない』で書いたことが全てなんだけど、やっぱり、自分の考えてることと行動してることが合ってないと、心も体も仕事も噛み合わないですね。それに気付けたことは大きな収穫だね〜〜。

 生々しいリアルな数字で貯金が220万くらいと休職手当やらなんやらを加味して、贅沢を我慢して生活するだけならあと1年半くらいは生きていけそうなんだけど、その余裕が生を実感しますね。まぁ、世の中で我慢が1番体に悪いので我慢なんかしないんですけど。貯めたところでただの数字だし、お金は使ってなんぼなんで。

 シャボン玉がしたい。23歳なのに。多分、何歳になってもシャボン玉はしたいと思う。あれって何があんなにおもろいんやろ。創造と破壊か?

 僕が幼い時に離婚したおかんとは、年に数回しか会えないこともあって学生時代は物理的にも人間的にも距離を感じてたんだけど、休職してることを伝えたら「なんとかなる」って言ってくれたし「1年後のことは1年後の自分がなんとかするし、5年後のことは5年後の自分がなんとかする」ってまんま僕が考えてることを言ってくれて、一緒に住んでた時間とか関係なしにやっぱ血には抗えないんだなって思った。

 「毎日なにしてんの」って聞かれる。「何もしてないよ。本読んだり映画見たり」って答える。わざと「何もしてないよ」って枕詞を添えるキモさが僕に存在する。「何もしてないよ」の行間には、①本を読む映画を見るは何もしてないと同意義なほど生活の一部であること。②日常的に創作を摂取する教養の高さと話題の引き出し、知的探究心の開示。の、ふたつが潜んでる。実際、多い年には100冊の本を読み、120本の映画を見た。でも僕は、本を沢山読んだところで映画を沢山見たところで、何かが身に付くとは思ってない。語彙力が上がるわけでもなければ、知識が得られるとも思ってない。ただ、面白いから読んでる見てるし、創作を摂取してる事実に相手が勝手に僕を持ち上げてくれるのが楽。そのキモいセルフブランディングを怠らずに生きたい。

 ここ1ヶ月、人に会わなすぎてそこそこ詰んでる。

 また小説書きたいですね。天動説の話、AIの話、次は何?誰か書き出しリクエストください。

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