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海岸線を飛ばす、死に向かって。

おばあちゃん家は、海岸線をずっと行ったところにある。梅の木があって、鼻の潰れた猫がいて、いつも美味しいご飯が出てくるところ。
おばあちゃんは、ここのところ具合が悪い。少し前まで、悪戯に笑いながら、水だと言い張って飲んでいた焼酎や、チャッカマンでつけて吸う煙草も、いつの間にかしなくなった。
おばあちゃん家に着いた。おばあちゃんがいつも寝転がっているベットは空っぽだった。おばあちゃんは、数日前から入院している。面会時間になったので、病院へ向かった。空は、規則正しい青色に、規則正しい入道雲がぐんぐん伸びていた。夏が、もうすぐそこまで迫っている。
迫ってきた夏を、追い返すかのような薄暗い病院内。看護師のにこやかな挨拶は居心地が悪そうに消えていく。病室に入ると、おばあちゃんは眠っていた。枯れかかった木のような足に、容赦なく刺された点滴。眠ったおばあちゃんの顔をじっと見つめた。ほとんどが皺で、小粒な目は眠っているせいかどこにあるのか分からなくなる。ほとんどない睫毛や眉毛。こけた頬。耳だけはつるりとしている。おばあちゃんの髪を撫でてみる。細くて、柔らかい茶色い毛は、やさしくて、暖かい。おばあちゃんの小粒な目が開くとき、だらりとした安心感があった。わたしの目を見て、笑ってくれる。話してくれる。まだ、当然のように、目覚めてくれる。

去年の年末、おじいちゃんが亡くなった。お気に入りの、マグカップが欠けた日に知らされた。おじいちゃんのことは、よく知らなかった。寡黙な人だったし、5人目の孫の私にはさほど興味はなかったと思う。おじいちゃんが死ぬ数日前、今日と同じように病院に行った。管を繋がれて喋れなくなったおじいちゃんを見た。ほとんど開いていない目や、どこにあるのか分からない意識。嗚呼、死に向かっていると思った。それから数日して、おじいちゃんは本当に目を開かなくなった。病室を出る時の「またね」は叶わなかった。

懲りずに、今日もまたあの時のように、おばあちゃんに「またね」と言った。

おかあさんが運転する車は、海岸線をビュンビュン飛ばす。ヘッドライトと月の追いかけっこ。トンネルのライトはすぐに影になって、車の中でくるくる踊る。トンネルを抜ける。さっきまで踊り狂ってたのが嘘みたいに、真っ暗になる。左を見ると、黒色の海と空。海には、細くて長い電灯の頼りない光が反射している。大きな黒い海に、遠慮がちに光を落としてる。真っ黒な海の束の間の白。わたしはそれを見逃さないように、息を止めて、見る。つやつやの水面にうっとりする。この景色を、あと何回でも見たいなと思う。「またね」と呟く。
わたしも、あいつも、あの人も、いつか死ぬ。誰にも分からない。「死」が一体何なのか、誰も知らない。毎日、毎秒、みんなは死に向かっている。毎日だれかが死んでいる。わたしが当然のように目覚める時も、誰かの人生は当然のように、止まる。
わたしがご飯を食べる時、風呂に入る時、当然のように明日が来ると思ってする生活の全ての中で、誰かが、もがき苦しんで死んでいく。それが、たまらなく怖くなるときがある。食卓で流れる悲惨なニュースに母が「やだね〜」と言う。こういっている間にも、人は、死んでいるのに。とてつもなく、こわい。こわくて悲しくて悔しい。わたしには、何も出来ない。
わたしはすぐに「またね」という。これは、いつ死ぬかも分からない私たちに対する、おまじない。ただの気休め。
「また、死なないで、笑って会えたらいいね」と思いながら言う。でも、わたしは、このおまじないが叶わないことも知っている。諦めながら、祈っている。誰でもない誰かに、祈る。

いつ死ぬか分からない私たち。あのトンネルの影、トンネルの最初と最後までの数秒間、踊り狂っていた、あの影は、まるで私だ、君だ、貴方だ。死に向かいながら、踊り狂っている。そして、気休めに呪う。
車は、真っ暗な海岸線をビュンビュ飛ばす。今日も死に向かって。

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