私が貴方であるということ
(相変わらず)孤独から始める。
孤独とはつまりクオリアの私秘性であり、共感の不可能性。
共感の正体は、対象への自己の投影であり、「貴方=私」という『1984』顔負けの二重思考である。
それにも関わらず我々の意識は、共感を前提としている。他人が、私と同じように感じ、知覚していると思ってしまう。
原因ー文化或いは構造としての表現
私たちは感情を、表現する。他者の表現を、表象として解釈する。
表現方法は大抵、文化として学習してきたものである。
あるいは身体反応としてそれを示す。悲しい時に泣く。
涙が出るのは、副交感神経が作用しているからである。
これらの他者による表現は、私のそれと酷似している。私はこう感じる時、こう表現する。だからあなたがこう表現するとき、当然こう感じているのだろうと思う。これを「自己の投影」と呼ぶことにする。私は貴方に、或いは共感を覚えるあらゆる表現に「自己の投影」を行う。
大方の場合、他者の反応は自己の投影に基づくそれと一致する。「そうか、貴方も同じなんだ」と一瞬安堵する。錯覚する。だがそれは完全な一致ではない。常に、一定の違和が生じている。決定的な違和である。
私たちは、既に漸近してしまっている。既にそのことに安心し、喜びを覚えてしまっている。
違和があると気づく。貴方は私ではない。私は、本当は「それ」を何も分かっていない。例えばいつか訪れる死の瞬間、私は本当の意味で孤独なのだろうと思う。
(キーワード:メイヤスー、ネーゲル、クオリア、新実在論)
いつからそれは行われている
生まれたての時、よく泣いている。
母親は食べ物を与えたりなどする。
涙に、母親の欲望によって意味が与えられる。
私は他者が意味を与える虚構に投げ出され、それを受け入れる。
また私は、「鏡に映る自分」という対象を「私」であると錯覚する。
(キーワード:ラカン、鏡像段階)
ふたしかなもの/知りたいこと
貴方の感情
私
世界の実存、構成、切り分け
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