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左右田喜一郎① 杉村廣蔵の言葉

経済哲学の創始者として知られる左右田喜一郎(左右田銀行頭取の傍ら、京都大学および一橋大学で講師として哲学を講じる。後任は、山内得立)について、関係者の言葉を集めてみたい。

第一弾は、高弟である杉村廣蔵の言葉を引用する。一橋大学での講義を抄録したものが一橋論叢(一橋大学)に収められている。

#左右田喜一郎

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左右田博士の学者的風格
(昭和21年5月9日東京商科大学における「経済哲学」開講のことば)

                       杉村 廣蔵


諸君の先輩であり又私の先生であり、且つ「経済哲学」の創唱者である左右田喜一郎(1881~1927)博士についてお話したい。


今から三十年の昔、私が諸君と同じやうにこの学校に入学した当時、恰も此の大学の前身であつた東京高商の創立40周年記念式が挙行されて、その記念講演の際に私は始めて左右田喜一郎先生の「カント認識論と純理経済学」と題する講演を聴いたのであつたが、もちろん理解することが出来なかつた。然し音楽を解する力がなく、絵画を鑑賞する能力がない者でも名曲とか名画とかに接した場合に何らかの感銘をあたへられると同様に、われわれ初心素朴の学生ではあつても学問研究のもつ迫力といふものに深い感動を覚えざるを得なかつたのである。先生は2年ほど前、10年の欧州留学を了へて帰朝されたので(そのとき35才)、当時の日本の学界の水準などには顧慮することなく、いはば世界の学問をすすめるために論議を展開したものであつたことが、多少ともその後われわれが勉強して見てわかつたことである。

その頃のカント哲学の研究などいふものは、日本においては極めて幼稚なものであつた。学問の研究が「方法」の問題を中心とすべきものだといふ肝要の点がまだ反省されてゐなかつたといつてよい。すなはち学問といふものが知識の内容を豊富にする物識りの域を出なかつたので、たとへばカントは何をいつてゐたか、どんな事柄について語つたかを知ることがカント哲学の研究の主たる目的となつてゐる段階であつたといつてよい。

この点は経済学についても同様であつた。経済学の方法、いひかへれば経済学はいかにして科学として可能であるかといふやうな問題は、殆んど当時の経済学者たちの興味でも疑問でもなかつたのである。それにも拘らず…あるひはそれ故にといつてもよいが…経済学の研究における認識論的方法は、殆んどカントの批評主義の生れ出る前の独断論の程度を彷徨してゐるものだといふ見解をのべて、カント認識論の教ゆる所によつて経済学の方法の上にコペルニクス的転回がなされなくてはならぬと説いたのであつた。

これは単に日本の経済学に対していつたのではない。当時世界の経済学はこの問題を切実に感じてゐなかつた。それを極めて素朴にうけいれてゐた日本の学界に卒然として提議したのである。考へやうによつてはそれは長い欧州留学の間に日本の学界の進歩の程度がどの位かをわきまへ得なかつた為めともいへるであらうが、またそこにわれわれは学問の世界は日本とか欧州とかアメリカとかいふことに係りのない広大無凝なものであることを悟らねばならぬ。

今日わが国の状態からいふならば、世界から隔離されてゐるやうなもので、学問研究なども狭い範囲に押込められてしまつて何の張り合もないかの如くであるが、学問をする気構へとしてはそれにとらはるべきではない。かつてナポレオンに蹂躪されたドイツにあつて地上はわれわれのものではなくなつても、天上はのこされてゐるといつた哲人の言葉は負惜しみのあらはれではない。与へられてある現状や周囲の事情に拘泥し、屈託することなくあくまで広大な世界に生きることこそ学問の途である。…左右田先生のむづかしい文字通り誰れにもわからなかつたその講演が、われわれを刺戟し、感奮せしめたことはまことに意想外のものであつた。われわれは広い世界を見出し、大いなる建設への祝福を語り合ふことになつたのである。

その頃の日本は、たとへば社会主義といふ言葉が遠慮されなくてはならぬほど窮屈なものであつた。そして世間一般には成功第一といふやうな功利主義、実利主義がつよかつた。われわれ学生がヒューマニズムに心をひかれ出したのはそれに対するつよい反発の結果であつた。かかる状況のもとに漸く社会人心の変化があり、その機運に拍車をかけたものが「黎明会」の運動であつた。福田徳三、吉野作造博士たちの啓蒙運動がそれであつて、その機会に左右田博士は「文化主義」の提唱を試みた。国家主義あるひは低俗な功利主義の外に人格の尊厳と絶対的主張をおもふ境地のあることを説き、人類文化の理想のために生死をかける生活態度の意義をあきらかにする文化価値中心思想が左右田博士によつて主張されて、「文化」(Kultur)は爾来日本の思想界ならびに社会生活に芽生えをもつことになつた。


以上二つの批評、すなはち学問的批評と社会文化の批評とは、ともにカント批評主義哲学から導かれたもので、左右田先生の生涯を通じて一歩々々深化されて行つた問題であつた。

私が直接先生の門をたたいてその教をうけることになつたのは、先生が不惑に近く、既に相次ぐ労作によつて「経済哲学」の輪郭を描き出すに至つて居られたのであるが、私はこの新しい哲学問題の領域を学びたいと思つて先生のゼミナールに入つたのではなかつた。私はただ「学問」といふものがわからなくなつた為めに、「学問とは何か」を究めたかつたのである。

高等商業学校のことではあり、さほど学問が純粋にやれるといふ条件のもとにゐたわけではなかつたが、ひそかに心をひかれてゐた経済学が私に深い疑問となつた。その当時われわれの経済学に対する目をひらいてくれたのは、左右田博士の旧師でもあつた福田徳三先生であつたが、その講義の進む間に限界利用学説なるものが先生の明快な説述にも拘らず、納得できないものに思はれ出したのが始りで、つひに経済学の概念構成に疑念を禁じ得なくなり、もしそのやうなことでよいとしたら学問などいふものの確実性とか客観性とかはいふに足りないものだといふ感じをいだいたのである。

左右田先生のゼミナールでは、経済学は放り出して方法論の研究をはじめることになつたが、先づ哲学史の初歩から厄介をかけることになつた。3~4人の仲間と夢中で勉強をつづけたが、2ヶ年のゼミナールの終る頃になつてやうやく先生のいはれる言葉や、カント哲学の気持がのみこめるやうになつた。あとで左右田先生が君たちはよく勉強したね、諸君の進歩を見てゐて不思議におもつたといはれたが、先生の研究指導はわれわれをさうさせずに置かないほど気迫にみちたものであつた。


先生はわれわれを初心者あるひは未熟なる者として取扱はなかつた。ある意味でわれわれを相手にしてゐなかつた、といふのはつねにそこにあらはれた問題と取組んでゐたからである。

たとへば私共が深い用意もなく経験論的な考へをのべた場合には、批評主義になれない初心者の発言として聞捨てにすることをしないで、完膚なきまでそれを論難してやまない。こちらも一応は出来るだけ防戦につとめて見るが、もちろん太刀打できないで先生の論難の仕方を考への上で反芻するといふことにもなる。仲間のうちには容易に経験論の立場といふほどではないが素朴な経験主義をぬけ切れない者がゐて、終始われわれに先生の論法を実証する材料になつてくれたといふやうなこともあつた。さういふ間に問題を中心に論ずるといふ客観的態度が養はれ、自ら一個の学問研究者であるといふ自覚がつよくなつて、いはば先生だから遠慮して置くとか、納得できないが我慢するとかいふ気分はまるでなくなるのである。

それでわれわれは、何かの差支へのために先生がゼミナールに出られない時などは、われわれだけで研究をする、そしてその結果を次のゼミナールの時間に持ち出して学生の共同戦線で先生と論戦するといふやうなこともあつたので、ゼミナールはしばしば夜更けに及んで終電が幕をひいてくれた。後年あの頃のゼミナールは愉快であつたと先生も述懐されたほど力のこもつたものであつた。

私共がゼミナールを終つた頃、東京商科大学も漸く体制を整ふることになり、哲学の講義なども豊富になつたが、先生はかねがねわれわれに単科大学ではあり、また日本の知性文化の程度から考へて、出来るだけひろく書物を読むこと、むしろ乱読する必要のあることをすすめて居られたのである。

左右田博士の経済学批評の出発の前階としては、東京高等商業学校専攻部卒業論文として提出された『信用券貨幣論』がある。この論文は後にフライブルグ大学におけるドクトル論文『貨幣と価値』の前半批評編に関連を見せてゐるが、大体においてプラトーンのイデア論的な影響のもとに立つて、貨幣概念をとらへようとつとめたもので、『貨幣と価値』の後半主張編におけるほどに貨幣を経済社会的な価値として認識せむとする努力はまだあらはれて居らない。

この後の論文に至つて貨幣をもつて「媒介価値」として定義し、「評価社会」の概念と結びつけて、それを経済学的認識の限界概念とするところまで思考を発展せしめて居り、そこにいはゆる貨幣概念中心思想があらはれたのである。

次いで『経済法則の論理的性質』(1911年)といふ独逸文の著作において経済学上の法則と呼ばれるものが、自然法則とはその性格を異にするもので、その学問が歴史的文化科学に属すべきものと考へられるから「法則」は成立ち得ず、高々文化科学的普遍化のあらはれにすぎない。

経済学はあくまで個別化の方法による概念構成をとるべきものだといふ帰結をみちびいて居る。この問題はその後のドイツの方法理論上の重要課題となつたものであつたが、経済学に夙にこの理論をあてはめた点に意義があると共に、左右田博士の哲学思想の展開の上に看過すべからざる里程標をなしてゐる。

すなはち前者は「先見心理学的方法」によるものであり、この著は「自然科学的概念構成の限界」に学ぶところが多かつたといへる。共にハインリヒ・リッケルトの思想に負ふものといへる。わが帝国学士院はこの両著に学士院賞をあたへて居る。

しかしながら帰朝後十余年の労作は以上の著作とは別人の感あるほど雄勁な構想を示して居るもので、博士の天分は経済学的認識の内在的批評のうちに跼蹐することを許さなかつた消息を率直に語つて居るといはねばならぬ。

論文集第一として世に問ふた『経済哲学の諸問題』は、さきにのべた「カント認識論と純理経済学」をはじめとして経済哲学の可能性をあきらかならしむべき諸論文を収めたものであるが、この書の影響はわが国経済学者のみならず、社会文化の認識に関心を有する人々に対して極めて大なるものがあつた。


論文集第二は『文化価値と極限概念』と題するもので、晩年の諸論文と共にいはゆる左右田哲学の方法的確立をもたらした。それはむしろ経済哲学の領域を超越して文化哲学乃至哲学一般の問題に寄与するところが多い。

私が親しく教をうけてゐた七年ほどがこの第二論文集の生れ出た時代で、博士のもつともプロダクティーヴな時代であつたといへる。47才で夭折されたのであるが、至つて強壮な体躯の持主でもあつただけにその訃報は何人も信じ難いものであつた。

私はたまたま倫敦にあつてその逝去を知つた。昭和二年の初頃より病臥されたのであつたが、私のドイツへ旅立つときの先生の元気な姿を思ひ浮べて容易にその死を信じ得ないものがあつた。

私は予定を早めて帰朝して先生の書斎の整理などにあたつたが、思想をもつた人、方法をもつた人といふものは、その生死を超えてわれわれの身近にあるといふことを、もはや再び逢ふことの出来ぬといふ哀惜にも拘らず、博士について深く感ずるものである…(Er ist nicht mehr!)。

彼は哲学者であつた、そしてわれらにとつてのカントであるといへる。

【出典】 一橋論叢(一橋大学)第20巻第3・4号 p.1-7 (通巻 p.65-71)




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