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福田徳三① 「宗教と商業」

福田徳三は、高等商業(現在の一橋大学)と慶應義塾で教鞭をとった日本の経済学の中興の祖である。教え子にも、上田貞次郎、小泉信三、高橋誠一郎、中山伊知郎、山田雄三などの経済学界で活躍した学者の他、菅禮之助など実業界で活躍したものも多い。

熱心なクリスチャンでもある福田が、OBの客死に動揺する一橋キリスト教青年会(一橋YMCA)メンバーのために講演した内容が、明治39年(1906年)3月に、一橋会雑誌第20号に掲載されている。

丸善が新しい洋書を入荷すると早速その内容を取入れた講義をすると言われた福田だけに、「私の同門の最長学兄」(『社会政策と階級闘争』(大正11年。1922年)p.25)と言うマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の《精神》』に触発されたものだろう。

(プロ倫は、第1章がアルヒーフの第20号第1分冊(明治37年。1904年)に、第2章がアルヒーフの第20号合本(明治38年。1905年)に掲載されている。)

とはいえ、残念ながら本格的な研究には至っておらず、弱肉強食を説いただけに終わっている。福田自身、この後「余剰価値の宗教論」を組み立てようとしたようだが、この分野については結局未完のまま遺されることになった。

福田の福祉国家論の一つの源流としては、面白いかも知れない。

【出典】一橋会雑誌第20号 p.1-9


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宗教と商業
                 法学博士 福田徳三

「また天国は或人の旅行せんとして其僕(しもべ)を呼び所有を彼等に預るが如し。各人の智慧に従ひて或者には銀五千、或者には二千、或者には一千を予へおき直に旅行せり。五千の銀を受し者は往きて之を貿易(はたらか)し他に五千を得たり。二千を受けし者も亦他に二千を得たり。然るに一千を受けし者は往て地を掘り其の主の金を蔵せり。歴久(ほどへ)て後その僕等の主かへりて彼等と会計せしに、五千の銀を受し者その他に五千の銀を携来りて主よ我に五千の銀を預けしが他に五千の銀を儲たりと曰ければ、主かれに曰けるは、ああ善かつ忠なるもの僕ぞ。爾寡(わづか)なる事に忠なり。我なんぢに多きものを督らせん、爾の主人の歓楽に入れよ。二千の銀を受けし者きたりて主よ我に二千の銀を預しが他に二千の銀を儲たりと曰ければ、主かれに曰けるは、ああ善かつ忠なるもの僕ぞ。なんぢ寡なる事に忠なり。我なんぢに多きものを督らせん、爾の主人の歓楽に入よ。また一千の銀を受けし者きたりて曰けるは主よ爾は厳き人にて播かざる所より穫り、ちらさざる所より敦(あつむ)ることを我は知る故に我懼てゆき主の一千の銀を地に蔵し置り今なんぢ爾の物を得たり。その主答て曰けるは悪くかつ惰れる僕ぞ爾わが播かざる所よりかり、散さざる所より敦るをを知か、然ば我帰たる時本と利とを受くべし。是故に彼の一千の銀を取て十千の銀ある者に予よ、それ有(もて)る者は予へられて尚あまりあり。無有(もたぬ)者はその有てる物をも奪るるや。無益なる僕を外の幽暗に逐やれ。其処にて哀哭切歯すること有ん」(馬太伝二十五章十四章以下) 

「イエス譬を以て多端(さまざま)の言を人々に語りぬ、種まく者播に出しが播るとき路の旁に遺し種あり。空の鳥きたりて啄み尽せり。また土うすき磽地に遺し種あり。直に萌出たれど日の出しとき灼れしかば根なきか故に枯たり。また棘の中に遺し種あり。棘そだちて之を蔽けり。また沃壌に遺ちし種あり。実を結べること或は百倍、或は六十倍、或は三十倍せり。耳ありて聴ふる者は聴べし。弟子等来たりて彼に曰けるは何故に譬を以て彼等に語り給ふや。答て曰けるは爾曹には天国の奥義を知ことを予たまへど彼等には予へ給ざればなり。それ有る者は予へられて尚余あり。無有者はその有てる物をも奪るるなり。」(馬太伝十三章三節以下)

「イエス其の弟子を呼て曰けるは我この衆人を憫む。彼等われと憫に居ること三日にして食ふものなし。飢させて去しむることを欲ず。恐くは途間にて悩ん。其弟子かれに曰けるは野にて此多くの人に飽する程のパンを何所より得んや。イエス彼等に曰けるはパン幾何あるや。答けるは七と些少の魚あり。イエス人々に命じて地に坐らしめ七のパンと魚を取て謝し之を肇(わり)て其弟子に予しかば、弟子これを人々に予ふ、食てみな飽たり。余の屑を拾しに七の籃に盈り。之を食るもの婦と孩子の外に四千人ありき」(馬太伝十五章三十二節以下) 


単に題して「宗教と商業」と云ふ意義漠然たるに過ぐ。第一に決すべきは抽象的に云ふ宗教と商業との関係なるや将又具体的なる基督教と商業との関係の意なるや。第二若し基督教と商業との関係なかりとすれば其の基督教とは Christianity as it was を指すものなるや、或は Christianity as it ought to beを指すものなるや是なり。
 所謂宗教は在来の基督教に限らず他にも其数多し。然れとも抽象的に云ふ時は総ての不要部分を去りて吾人の理想を満足する、斯くあるべしてふ宗教にして即ち基督教に就てはChristianity as it ought to beにして決してChristianity as it wasに非ず。
 前弁士は何れも口を極めて基督教の理想が決して商業の目的と背馳するものに非ず、寧ろ之が発達を資くるものなることを論せられたるも、其所謂基督教とは決してChristianity as it was-isに非ずしてChristianity as it ought to beの基督教を云ふなり、事実の教ふる所基督教は過去に於て商業の進歩を資けたりと云よりも寧ろ商業を妨害し虐待したるものなり。欧州中世紀以後の教会史商業史は実に基督教の商業迫害の記録に外ならざる感あり。而して此両者の各が毫も他に負ふ所なかりしやと問はば余は断言す。基督教が商業に尽す所少かりしに反し、商業こそ基督教を保育し庇護し以て今日あるを致せしものなれと、他に類例を求めんか印度の婆羅門教が既に久しく存在を失ひしは其の商業の幇助を籍る事なかりしが為なり。而して仏教が等しく印度に産声を挙げて尚今日迄人類の進行を繋ぎ居るは畢竟仏教が印度の天地にのみに跼蹐することなく東漸して比較的商業の発達せる支那日本に流布せられ、此処に其の根拠を置きたればなり。是等の諸国に於ては皆宗教を包容し是を維持する程に社会の経済状態が余裕を存し居たればなり。
 翻て基督教の歴史を見るに、開祖キリストが身命を賭して一度建設せる教義は、其後継者によつて著しく曲解せられ変形せられて当時の精神は其一部を失へり。現に我国に於て過ぎし日露戦争の際海老名弾正君が其の教義より大声戦争を弁護し戦争美の発揮に努められし如き其一例なり。戦争は基督教の教義より見れば決して謳歌し得べきものに非ず。同君の弁護或は政府の内債募集に裨益ありしや測り難きも其教義を曲解せしてふ誹謗を免れじ。
 基督教変形の第一はPauline Christianityなり。之れ使徒ポーロによりて解釈せらりし教義にして現今プロテスタンチズムの全体は此解釈を祖述するものなり。変形の第二はTomistic Christianity即ちトマス、アクヰナス一派のスコラ哲学を生める修道院聖徒の解釈せる基督教なり。ルーテルの宗教改革は大に其教権を減殺せしも尚欧州の天地に牢乎として抜くべからざる勢力を占め居る羅馬教は即ち此教義に基くもの也。基督教は代々の使徒によりて著しく曲解付会せられたれ共其永久に存続す可きものは所謂適者なる最も健全なる分子たる可きなり。人類のあらゆる活動と相容るべく殊に経済上の進歩に少くとも障害を与へざる部分が生存して其他の部分は文化の進歩と共に何時しか脱ぎ去らる可きなり。之れ宗教を維持するものが人類にして宗教が人類を作るものに非る以上、当然の事理なりとす。商業の発達せる所宗教亦旺盛を極めたる辺の消息は実に茲にありて存するなり。
 然れども余は海老名(弾正)君 が推奨してReligious Peopleにして同時にCommercial Peopleなりと云はれし猶太民族を忌まざらんとするも得べからず。如何に商業の発達を希へばとて吾が日本民族が自らを猶太民族として迄も商業国民たるを好まず。思へ、猶太民族が地球上に国を成すなく、諸国に寄生して狭隘固陋に安んじ、自らの天地を狭ふしつつある状態を。是等は皆此民族の思想を支配せる宗教の業に非ずや。猶太教は実に世界主義を標榜せる基督教の母教たる栄誉を荷ふに係らず其の神観や国家観や極めて頑陋度し難き性質を帯びたりき。エホバの神は此民族に取りては嫉妬の神と観ぜられ、異邦人に対しては忿患の神、亡の神なりき。エホバは一言以て之を蔽へば猶太民の護国の神-鬼にして七生敵を呪詛はんと云ひし我楠公の如き神たりしなり。斯る神に礼拝奉仕したる猶太民族が我執強く猜疑心に富める人民たらざらんとするも豈に得べけんや。余は断じて彼等を商業国民たらしめてふ神を採らず。
 前述の如く印度の仏教は国運の頽勢を如何とする能はざりしに反し、日本の仏教は永く日本の経済進歩の支障たらざりき。是れ宗教を活殺するの権は人にありて同一の宗教は必ずしも同一型の国民性を涵養せざる証左ならずや。
 基督教は商業の発達を妨害したること甚しかりしと雖も、基督の説きたる根本の教義は然らず是等の妨害を以てして尚ほ欧州の基督教国をして今日の如き経済上の進歩を遂げしめたる所以のもの経典中に埋没して存し、教会や僧侶が之を看過し、曲解せる間にも尚着々として其感化を与へたるものあり。げにや基督教の神髄は茲に存す。
 此れあればこそ基督教は独り経済上のみかは人類のあらゆる活動を讃美し、之を翼賛して進化の先鋒たるを得せしむるなれ其神髄とは何ぞや。答へて曰く、余が茲に朗読せる種播の譬及び旅する主人の譬の結論の一句に曰く「凡そ有てる者は与へられて尚余あり、有たぬものは有てるものをも奪はる可し」と再度も繰返し玉へる基督の此警語は実に万古不可動の真理にして決して基督教の独占すべき宇宙観、人生観に非ず。千百の信条と戒律を以てするも此の真理は遂に曲ぐべからず。而して商業の神髄とする処亦此外に出づる能はざるなり。
  商業は営利の衝動に基く人類の活動なり。巳に営利心あり、是に基く財の獲得行為は飽く迄ヂャスティファイせられざるべからず。現実に存在せる営利心を否認するは人生を否認するに均し。一千の銀を地下に死蔵し主人をして「悪しく且つ惰れる僕」と評せしめ、終には「外の幽暗に逐やられ其処にて哀哭することあらん」と云はしめたる僕は亦商業の賊ならずや。見るべし個人をして各々其有する所に従ひて努力せしむる進取活動適者生存主義の進化論は己に茲に道破せられあるを。
 基督教の此本義を理解せず、猶制欲的消極的株守的教訓に腐心するの徒は身現に営利の渦中にありながら心中に一種の撞着と矛盾を感じ其苛責に堪へずして一週一日の安息日を聖別して僅かに自ら慰め、未来の天国を約する教会は彼等に取りては長毒を保証する一種の生命保険業たるの観を有す。是れ断じて基督の徒にあらず。
 基督教の旧き衣が漸々脱ぎ去られて赤裸に此の純義の主張せらるるとき、商業の営利主義と些の背馳する所なからんのみ。翻って世間の仏教を見るに亦我執と煩悩の一切を以て成仏の障礙となし是れを絶滅するの暁は即ち廓然大悟、絶対の実在と抱合して久遠悠久の境に彷徨すべしとなす、自我の否定を要求し「有たぬ者こそ与へられん」と説くこと在来の基督教と同じ。其の極めて不自然の解釈なることは是れ等の思想を輸入せし諸国々勢により、之を知り得べし。印度の仏教に於けるは論を俟たず西班牙伊太利はカソリシズムの蠧毒を受けて病膏肓に入れり然るに北米合衆国に於ては旧教すら自ら変化せるを以て見る可きのみ。
 此の真理は現存宗教生存の要件なり。基督教若し之を失はば遂に其の生存の意義を失ふべく、仏教若し是を取て自己薬籠中の物となし得ば其前途亦見るべきものあらん。問題は英傑の士起て克く之れを為すや否やにありて存せんのみ。
 最後に朗読したる基督の奇蹟は、大なる奇蹟たるを失はず、然れども是より一層確実にして偉大なる奇蹟は猶太の僻村に孤々の声を挙げ半生を木匠業に送り僅かに数年の伝道の後三十三歳を一期として一国事犯人の名の下に酷刑せられし基督が爾二千年世界十数億人類の理想として渇仰せらるる一事是れなり。彼とて尋常人たりしに相違なし若し無垢無欠点なりしとの証跡挙らざる以上吾人は彼を吾等と同様に欠点と罪とを荷へる人の子なりしとするの安きに従はんとす。彼の道を伝へて今日あるを得せしめし使徒の行跡も亦奇蹟の大なるものにあらずや。然れども裸一貫にして巨万の富を積める商人も大奇蹟家たるに於て変りなし。只前二者の如く名を竹帛に垂れて人の渇仰を得ざるの差あるのみ。無より有を生じたるにあらずして一斤のパン十切の魚を変じて数十人を養ふ可き食となしたるに至ては共に一なり。
 「生めよ殖へよ地に満てよ」是れ宇宙の始より今日迄一貫せる大なる真理なり。慾求あるものは之を求めて与へらるべし。其の得る所の富たると智識たると人格たるとは問ふ所に非るなり。人の之等を取り之を積むは永遠に天より与へられたる権利なり。只記憶すべきは此等を獲得し増殖するにも経済上の原則たる最小の労費最大の効果主義は間隙なく行はるる事なり。一つの有てるものを殖さんが為めに他の有てるものを失ふこと多からば其結果や知るべきのみ。一の天賦は他の天賦と均しく貴重なるを記すべし。「富める者の天国に入るは駱駝の針の穴を通るより難し」なる字句は此意義に解せざる可からず。宇宙の真理を忘れ修養の本義を捨ててテムペランスムーヴメントの如き末葉に入るものは一千の銀を地に死蔵せる下根の輩審判の日遂に「主よ主よと呼ぶもの悉く天国に入るに非ず」との痛棒を食はされば止まざるべし。曾てキプリング の米国旅行記を読む。其の一節に市加古市民が極端なる拝金に陥り齷齪日も足らざるを嘲りて God does not do business that way と云へり。諷刺の妙骨を抉るの慨あるも、真理は即ち茲に在り。天地の主は永遠より永遠に「生めよ殖へよ」主義の実行者を以て任し四季昼夜其のビジネスを怠り玉はざればなり。
 最後に一言せん、若し余の聞く所にして誤なくんば迷信も有るは無きに勝れりと主張せられし弁士ありし如し。余を以て見れば是れ非常なる僻論なり。或る宗教は救と亡の追分に立ちて誤れる信仰が衆生を永久の亡に導くと同時に社会が是等迷信の徒より受る影響に至りては実に戦慄すべきものあり。歴史は吾人に幾多酸鼻に堪へざる例証を供するに非ずや。無宗教が社会に利なしとするも、余は無信の無害を以て迷信の害毒に勝れりとなすものなり。加之冷静無邪気にして赤子の如き心は固陋にして先入に満てる心よりは遥かに健全なる信仰を得易し。基督が心の貧しき者と云ひしは即ち是なり。路傍や磽地や荊棘中に落ちたる種は或は空中の鳥の啄み去る所となり、或は枯れて跡を止めざりしも、沃壌に遺ちたる種は生育して百倍の種子を結ぶに至れり。吾人須く一千の銀を死蔵したるものの如くならず、五千の銀を利殖して十千、二十千とし、有てるもの益与へらるる、宇宙の至理に順行すべし。是れ奇跡を以て数十人を養へる基督の事を行ふもの、而して商業の秘訣亦此外に出でず。商人たるに基督教は必要なり等の御追従の如きは断固として之を排斥し、更に深く根底に於て基督教の奥理と商業の至理との相契会する辺に就て悟るに非れば祈祷や聖餐や洗礼や畢竟基督の賊たらんのみ。猶異日「余剰価値の宗教」論を以て再び諸君に見へて考究を乞ふ事ある可し。以上は依頼のまま「商業と宗教」なる題目に応じて余が所信の一端を云ふに過ぎざる也。(了)


【備考】

(1) 誤植と思われるものについては、英文のスペルミスのみ訂正した。
(2) 本稿の末尾に、「本論は法学博士福田徳三先生が去る二月二十六日一橋基督青年会第一回講演会の席上に於て講述せられたるものにして本三堀義貫氏の筆記に係る。」と注が付されている(p.9)。


 















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