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〔だまし絵〕Tunnel Vision by Kaia Nao
皮肉なだまし絵。
なにも動いていないが、進んでいるように見えてしまう。
組織戦略にも、そういうところがある。
上手く書かれたビッグピクチャー(青写真)はどうとでも解釈できる場合も多く、世の中やマーケットに照らした検証をし続けないかぎり、職員が言い抜けをするための根拠にしかならない。
にも関わらず、組織戦略との比較・達成度合いに一喜一憂する。こんな愚かなことはない。
福田徳三② その生涯と学問的特徴について (4)学問的特長(その3)
前項までに記した「基礎」をもつ福田博士の研究は、以下のような3つの特長を有していました。
① 古典・原典の重視
福田博士の論文や教科書(経済講話、経済学原理)などを読むと、単に理論の説明をするだけでなく個々の理論の生まれた経緯・背景などについて詳細に解説がなされています。他人の経済学の成果を漫然と受け売りするのではなく、それを解体・再構築した上で自己の理論としようとした気概を感じられます。「節を
福田徳三② その生涯と学問的特徴について (4)学問的特長(その2)
② ロッシャーからブレンターノへ
福田博士が学生時代に精読したというロッシャーは、経済学は、そのスタート、ゴールともに「人間」にあるとし、歴史的進化の周期的な段階論を唱えていました。そして、アダム・スミス、マルサス、ラウ等のイギリス経験論をドイツの学問に移植しようとした人物でした。
福田博士の師であるL・ブレンターノ(Lujo Brentano, 1844-1931)は、ロッシャーに高く評価され
福田徳三② その生涯と学問的特徴について (4)学問的特長
ここからは、学問的特長を考えたいと思います。
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福田博士の研究分野は、やはり労働問題を中核として、現実の社会的課題と向き合う中で多岐に亘り発展しました。
(1)学問的基礎
福田博士の学問的基礎は、一般に思われているところとは異なり、A・マーシャル(Alfred Marshall。Cambridge学派の祖。1842-1924)の理論経済学にありました。福田博士の情報源を鑑みると、当初か
福田徳三② その生涯と学問的特徴について (3)各種エピソード
前回に続き、「日本の近代経済学の中興の祖」福田徳三について、振り返ってみたい。各種エピソードを2回に分けて紹介する。
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福田博士の気風については、多々、風説が流布されてきました。親しい人物たちの証言を基に、実像をここで確認しておきましょう。
(1) 江戸っ子
極く初期の弟子である菅礼之助(元・石炭庁長官、東京電力会長、経団連評議会議長)によれば、「先生は毒舌が達者で意気組みは素晴らしい
福田徳三② その生涯と学問的特徴について (2)思春期
前回に続き、「日本の近代経済学の中興の祖」福田徳三について、振り返ってみたい。前回の幼年期に続き、今回は、思春期を振り返る。
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■ 思春期に影響を受けた人々(3名) 母親を通じた縁なのか、福田博士は1891年(明治24年)18歳の時から日本基督教青年会(YMCA)の夜学校で講師をし、学費を稼ぐようになりました。(それまでは学費もままならない状態だったということです。)授業内容は、クレー・
福田徳三② その生涯と学問的特徴について (1)幼少期
《序》
福田徳三(1874年(明治7年)12月2日~1930年(昭和5年)5月8日)は、日本の近代経済学の祖。高等商業学校・東京商科大学(ともに現・一橋大学)及び慶応義塾大学で教鞭をとった。内務省社会局参与。帝国学士院会員、フランス学士院客員会員。
東京神田元柳原町(現・須田町)生まれ。高等商業学校専攻部卒業により日本初の商学士(1896年(明治29年))となった後、留学先のミュンヘン大学でブレ
福田徳三① 「宗教と商業」
福田徳三は、高等商業(現在の一橋大学)と慶應義塾で教鞭をとった日本の経済学の中興の祖である。教え子にも、上田貞次郎、小泉信三、高橋誠一郎、中山伊知郎、山田雄三などの経済学界で活躍した学者の他、菅禮之助など実業界で活躍したものも多い。
熱心なクリスチャンでもある福田が、OBの客死に動揺する一橋キリスト教青年会(一橋YMCA)メンバーのために講演した内容が、明治39年(1906年)3月に、一橋会雑誌
左右田喜一郎④ 山内得立の追憶(2)
経済哲学の創始者として知られる左右田喜一郎(左右田銀行頭取の傍ら、京都大学および一橋大学で講師として哲学を講じる。後任は、山内得立)について、関係者の言葉を集めてみたい。
第4弾は、山内得立による追憶文を紹介する。これは、1975年(昭和50年)に、周年忌があった際に編纂された『左右田哲学への回想』に山内が「京都大学名誉教授」の肩書で寄せた文章である。
当日朝は交通が止まっており、左右田喜一郎
左右田喜一郎③ 山内得立の追憶(1)
経済哲学の創始者として知られる左右田喜一郎(左右田銀行頭取の傍ら、京都大学および一橋大学で講師として哲学を講じる。後任は、山内得立)について、関係者の言葉を集めてみたい。
第3弾は、山内得立による追悼文を紹介する。これは、1927年(昭和2年)に岩波書店が発刊した雑誌「思想」の10月号で「左右田博士追悼録」が特集された際に、弟子や西田幾多郎等の追悼文と並んで発表されたもの。「左右田哲学」を命名し
左右田喜一郎② 馬場啓之助のまとめ
経済哲学の創始者として知られる左右田喜一郎(左右田銀行頭取の傍ら、京都大学および一橋大学で講師として哲学を講じる。後任は、山内得立)について、関係者の言葉を集めてみたい。
第2弾は、山内得立の弟子で、経済哲学の講義を受け継いだ馬場啓之助のまとめについて、リンクを紹介する。
#左右田喜一郎
【文献1】 左右田喜一郎論
(出典)一橋論叢 第53巻4号(1965年4月)p.40以下
【文献
左右田喜一郎① 杉村廣蔵の言葉
経済哲学の創始者として知られる左右田喜一郎(左右田銀行頭取の傍ら、京都大学および一橋大学で講師として哲学を講じる。後任は、山内得立)について、関係者の言葉を集めてみたい。
第一弾は、高弟である杉村廣蔵の言葉を引用する。一橋大学での講義を抄録したものが一橋論叢(一橋大学)に収められている。
#左右田喜一郎
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左右田博士の学者的風格
(昭和21年5月9日東京商科大学における「経済哲学」開