京都いってきました!vol.3
京都に詳しい人から天津神社がオススメというのを教えてもらったので、天津神社に行ってきました。
住宅街の中にひっそりとある神社なのですが、夕方に行ったせいかあらゆる扉がしまっていて
(あ、来る時間遅かったのか…)
と思ったのですが、扉を開けてみたら受付の方が現れてなんとか入れました。ヨネスケが急に晩ご飯を聞くときって多分これくらいの緊張感なんだと思います。嘘です。ごめんなさい。
数ある京都の名所の中でなんでこの小さな神社にも行くことにしたかというと
「神様と対話が出来るから」
なんですよね。
どういうこっちゃ?って皆さん疑問に思うことかと思うので説明すると、ここのおみくじは大吉、中吉、凶とかではなく、箴言のような言葉が出てくるわけでして、お願いや質問に対する答えを神様がしてくれるというわけです。
そんなこと言われたら僕は行かなきゃいけないわけでして、移動中に何にするか色々考えたのですが、僕の質問は
「神にも動物にも完全になれない人間はどうすればいいのか」
という一言に決まりました。
ざっくり言うと神に比べりゃ、人間には有限性があるなんてことを良く言いますが、同時に動物と同じように本能だけでは生きられない二重の有限性もあるなぁと最近は思っていて、じゃあこのある意味中途半端な人間にしか出来ないこと、やらねばならんことって何よ?ってことを悶々と考えてたので、ちょっと神に聞いてみようと思ったわけです。
そして神社にいるおじちゃんに導かれ、くじの前に座り、緊張しながらおみくじを出した瞬間。僕は衝撃を受けることになります。
も、文字が滲んで見えねぇ!!!!
いやいや、神よ。わかりますよ?今までだって色んな神がリスクがあるのに禁断の果実作ったり、不完全な人間に名前をつけるタスク引き継いだり、イケメンを独占禁止法の対象外にしたりしてきたことは知ってるけど、困ることがある条件の文字を滲ませるって!!!
と頭の中で神に文句言ってたら、おそらく態度に出ていたのでしょう。おじちゃんが僕のおみくじを見て
「あー、これ多分『油断すると』ちゃいます…?」
…おじちゃんも疑問系なの?
「まぁ、もしそうならいつでも油断することなく〜」
とここから神から完全におじちゃんと僕との対話になりました。
でも良く考えたら、これが一種の神の啓示で、人間に残されている余地は「対話」なのかもしれないなとも思い始めました。
哲学でもソクラテスとプラトン、釈迦とその弟子、親鸞と唯円といった様々な名著においては弟子たちが書を記し、対話編の形式も実は多かったりします。
対話編にすることで、自分の考えやイメージを他者と共有して検証→更新するというわけですね。あらゆるもの意味付けたり、時には誤解することがある意味で人間が天地人の関係において大きな強みになるのかもしれません。
判断は出来なくても「意志」によって決断し、天国も地獄も関係なく、全部天国にしていくために人と対話していくことが、人間に与えられた、可能性としての一つの選択肢なのかもしれません。
神よ、こちとら一旦そう思わんとやってられないわ!!!!
※普通におじちゃんは優しくいい人で天津神社や京都について教えてくれたので、満足度は普通に高いですし、なんならオススメです。
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