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文字と本心

おはようございます。週末です。
最近いい刺激をもらったので、文章の在り方について今日は一考していきたい。

センテンスとしての文章の前に、意味のない言葉について言及する。

あなたの身の回りに「疲れた」「最高」「イライラする」「たのしー」「好き」みたいな、単調な感情だけをツイートする人、居ませんか?

私はああいう人たちを”刺激を受けて感情を抱かされた猿“だと思っている。
アウトプットまでに間がないのだ。
誰でも考えられることをそのまま表現した文章を読むことに、何の価値があるんだろう。
そんなこと考えないか。そういう人は。

私は単調な感情の吐露には魅力を感じない。
混ざり合う感情を巧く伝える文章にだけ、
思わず心を躍らされる。

好きと寂しいを混ぜて、
可愛らしさと残酷さを混ぜて、
愛しさと憎しみを混ぜて、
反抗と感謝を混ぜて、
希望と遣る瀬なさを混ぜて。

愛してるように見せかけて、
実は溜息を吐くような。
言葉だけは嫌悪しているように響かせて、
それでも一緒にいるような。

喜怒哀楽は「赤青黄緑」の4原色のようなもので、それらが混ざればグラデーションが生まれ、名前すらないような沢山の色が取り出される。
言葉の色彩を楽しむことができるのは、表現の小さな差異に寄り添える、言葉を大事にしている者だけの贅沢だろう。

ここからは、本心の話。
単調な感情の吐露には魅力がないと前述したけれど、限られた人だけに見せる人間らしい感情は一種の美しさを孕むと思う。

簡単な喩えとしてエロを用いると、谷間や脚を見せつけて歩く女よりも、清純そうな女の官能的な一面の方が魅力的だろう。
セックス大好きです!みたいな顔をして歩いている男より、エロになんかまるで興味がなさそうな、クールぶった男の恥じらう姿が見たくなるものだ。

「普段ひた隠しにしている本性」は需要供給曲線のグラフにしっかり当てはまる。
親しみやすい顔をして、人の目に留まった上で、いかに自分の存在を秘密裏にするか。
普段何を言うかより、何を言わないか。
そういうことが、人の魅力になると思う。


世の中には2種類の人間がいて、という規模感で話をすると、前述した「単調な感情をぶつけられる人」と「感情のグラデーションを楽しむ人」は基本的に相容れない。

けれども、私たちは隠すことに美徳を持つ人間だから、彼らに対しても興味を持っているかのように、上手く擬態してあげよう。

同じく擬態している人間を見つけた時にだけ、
そっと目線を合わせて口角を上げればいい。

秘密の共有は、大っぴらにやらないからこそ、
ニヤけが止まらなくなるほどに魅力的なのだ。

読んでくれてありがとう。

ここまで読んでくれたあなたは、
きっとこちら側なんでしょうね。

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