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クソリプ相対性理論

一年以上前になると思うが、どこかの誰かがTwitter上で「内容によるクソリプの定義付け」を試みていて、なるほど面白いがなんとなく釈然とはしないなと思ったことがある。

その時は特に何も考えなかったが、最近、クソリプとは「内容で定義付けできるものではなく観測する人によってクソかどうかが変わる相対的なもの」なのではないかということを思いついた次第である。

■クソリプとは

web辞書で引いてみたら載っていたので引用する。

クソリプとは、主に Twitter やインスタグラムなどのSNSにおいて、リプライ(特定のツイートに対する返信・応答)のうち、内容がまったく見当外れであったり気分を害するような言葉が含まれたりするなど、罵倒したくなるリプライを指して用いられる語の総称である。

内容で定義付けされてますやん!と思うかもしれないがちょっと待ってほしい。例えば内容が見当はずれであるかどうかはリプライ単体では判断できないし、一見、内容が馬鹿げていたり品位や礼儀に欠けるものであったりしても、関係性によっては相手を困らせるものではないかもしれない。ガキ大将がブタゴリラというアダ名で親しまれている世界も稀にだがあるのだ。

■相対的にクソとは

つまり「クソのようなリプライ」は、「相手との関係・距離」や「元の文章との関連性」の見誤りが誰かに認められた時にはじめてクソになるのである。

クソになるとはつまり、似つかわしくない言葉になるという事だ。ゆえに相対的なのである。トンチンカンなタイミングで武勇伝や知識をひけらかしたり、配慮に欠ける悪ふざけや下品な言葉を面白いと勘違いして披露したり、親しくもない人に馴れ馴れしくしたり。そんな時に読み手の主観により、クソと化す。

なお、元々悪意のある攻撃的なリプライはあまりクソリプとは呼ばれないように思う。あくまで天然由来だ。一方で、故意の有無は読み手が迷惑だと認識するかどうかに関係しないことはトラブルの原因になりやすい。

■人はなぜクソリプを送るのか

わざわざクソリプを送る意思もまた、主観である。なぜ人はそんな事をしてしまうかについて考えたい。

①相手との関係を錯覚するケース

親しくもない人にじゃれてしまう、赤の他人に自分のエピソードを懇々と聞かせてしまう。ついついやりがちだが、これらに我々は気を付けるべきだ。SNS上では誰と誰が友達同士かなど分からないので、人間同士がワチャワチャやっていると自分も輪に入っていけるような錯覚を起こすものである。そして共感できる話を聞けば自分のエピソードをありありと思い出し、同士のような気がしてしまう。が、自分とその人が冗談を言い合ったり身の上話を聞いてもらったりする間柄かどうかは、よく考えた方がいい。対人関係はネット上でも対人関係なのだ。確かに知らない人や芸能人にも気軽に言葉を送ることができるのはSNSの魅力のひとつであるが、他人に迷惑をかけるのは良くないことは変わらないし、馴れ馴れしい人物と評価されるリスクもセットであることを理解しなくてはならない。

②言いたい事が独り歩きするケース

リンゴの話題が出たのでリンゴについて自分の知ってることを言いたくなっちゃいましたやつ。ウンチク披露型である。どんなに興味深い知識でも関連性には敵わないものなのだ。これにより、関係ない事を突然言い出す人という評価しか得られず相手にも迷惑をかける、いわゆるlose-loseの関係が生まれる。己自身に発信したいことがある人は他人に返信するのではなく、普通にツイートするのが吉である。先述の自分のエピソードをリプライで語ってしまう人も、この言いたいことが独り歩きしているケースとも言えよう。

自明なことを言ってしまうというのもよく見られるがこれも独り歩きの一種だ。「AはBだからCである」という投稿に「AはBだからCなんですよね!」と嬉々として多くのものを無駄遣いをするのは既知や共感の喜びを伝えたい気持ちの表れなのだろうが、それを聞かされる人の気持ちも考えてほしい。赤の他人の場合は特にだ。

ちなみに他人の評価など気にしない、というのはもっともなことだが、Twitterでは迷惑なリプを送る人のツイートはブロックやミュートを使って今後は読まないという選択がなされて当然なため、それは本意ではないと考える。読んでもらいたくて書くというのが前提だ。

③悪気がなければ大丈夫だと自分で勝手に決めているケースと、距離

「悪気がない」と主張しなければ通らないことは、残念ながらだいたい通らないのである。よそ様に失礼なことを言うのは相手も第三者も不快なので、実はやめた方がいい。悪気の有無が結果に影響を与えるというのは甘えからくる幻想である。また、失礼なことや下品なこと、これらのテーマを「インスタントな笑い」だと思う人もいるが実際は技術を問われる非常に扱いにくいものである。それゆえの魅力もあるので、挑戦したい気持ちも分かる。

しかしながら通常は、少なくとも私は苦手である。理由は失礼で下品だからではなく「質を問わず、笑ってもらえないと逆ギレされる傾向にあるから」である。テーマに頼って笑いを強要するのには、気軽に持て囃されたいし悪意のなさを認めてもらえないと立場がないといった身勝手さが見え隠れしているように私は思っている。面白くない人の闇である。仮に失礼で下品でも面白いと思えば私は笑うのだ。だが、このテーマには闇型人間が蔓延りすぎて辟易としている。

そして、本来は他人の褌がなくても面白いことは言えるものなのだが、他人をからかわないと笑いが取れないと思い込んでいる人も、稀にいる。そして案外笑いを取れているとも思っている。が、実際は「いじられた人を守るより貴方を失礼だと追及する方が気が引けるから苦渋の愛想笑い」をしている人も結構いるものなのだ。これを冗談のぬるま湯状態と言う。

当然だが、ぬるま湯に浸かった者に愛想笑いをしてくれる人は距離とともに減少していく。周囲の限られた人だけが気を使ってくれているのだ。ゆえにSNS上で突然通らなくて戸惑う羽目になる。

④クソリプと評価されて逆ギレするケース

以上のようなリプがクソだと評価された時に、希望した反応が得られなかった不満とショックで、脳みそを使う前に反発してしまうケースがある。先程の、冗談を笑ってもらえないと逆ギレする辟易な人達もそうである。頭を冷やして己を見つめ直すのである。

「冗談が通じない」「愛想が悪い」「煽り耐性がない」「優しくない」、こんなことを言って自分に起きた不満な出来事の理由を相手の気質に求めようと試みる人を見たことがないだろうか。試みても無駄である。評価をするのは相手の主観だからだ。

少し話がそれるが、フォローを解除された残念さを相手への怒りに変換してしまう人も、心理は似ているように思う。彼らも自分のツイートが永久に定期購読されるべきものであると確信しているというよりは、人が離れて寂しいという感情を脳みそを使う前に爆発させているに過ぎないと思っている。だが莫大な中から読みたいものをピックアップする場であるゆえ、相手の行動が希望どおりにならない事もあるのだ。

話はクソリプに戻る。クソリプだと評価された場合、相手も別に神視点で貴方のリプライを品定めしている訳ではなく、あくまで相手にとっては不快なものだった、ということなのである。別の人には楽しいと思われることもあるかもしれないが、ちょっと距離感を間違えたということもあるかもしれない。そして許容してくれる人が優しくてクソだと評価した人は心が狭い、というような好都合なことでもないのである。怒り狂って正当化しようとするといよいよやべぇやつなので、素直に非礼を省みて次から気を付けたいものである。

■クソをクソと言って何が悪いのか

このようにして人はクソリプを送るべくして送ってしまうのだが、クソリプと評価したからといって「クソ」と罵倒するのは必ずしも好ましくない。相手が無礼だからといってこちらも無礼なことをしていい理由にはならないからだ(この記事では便宜上クソを連呼しているが気持ちのよい言葉では元々ない)。かといって迷惑を放置するのも都合が悪い。長くなったのでまた機会があれば、クソリプの対処法などについても考えてみたい。

ほなまた。



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