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転職の折にふれて

私はもうすぐ転職をする。
正確に言えば、一年半ほどお世話になっている派遣先に入社をする。
私はいわゆる派遣労働者ではないので、ある会社の社員から別のある会社の社員になる(見込み)であるわけだが、なにぶん転職ということを初めてするので、考えたことを少し書き留めておこうと思った。



転職前の会社、つまり今所属している会社はそこそこの規模がある。
事業部がいくつもあって、ネットワーク、インフラ、セキュリティ、業務ソフト、スマホアプリ、組み込み……と、対応できる分野もそれなりに多い。
上場もしているし、全国に支社があって、自社開発の製品もいくつかある。
主な業務内容としてはメーカー系企業の一次請、くらいのレベルだろうか。

請負であれば自社で作業ができるが、お客様先に派遣となれば、ワンフロアに数百人分のデスクが並んでいるような大企業に行くことも珍しくない。
実際にそういうところで私は作業していたこともある。

その時の私は、自分が何を作っているのか正確には分かっていなかった。
ある巨大なプロジェクトがあって、その細部の、何を担当しているのかよくわからない機能の、デバッグとテストをちまちまと繰り返していた。
コード自体は読めるし、仕様書に従って開発業務はできる。
テストの項目を作ることもできるし、結果の是非を判断することもできる。
でも、果たしてこの成果がなんの製品のどこに組み込まれるか、まるで知らなかった。
ぼんやりと車載であることは理解していたが、いつ世の中に出る、どの車種に載るものなのか、聞いてみようとも思わなかったし、上司もきっと知らなかっただろう。
上司の上司の上司くらいまでいけば知っていたかもしれない。

今になって、なぜそれを聞こうと思わなかったのかを考えることがある。
私は一体何を作っているのですか、というのは、疑問としてはおかしくない。
しかしそれをしなかったということは、私はそのことに興味がなかったのだろう。
アサインされたメンバーでチームを作り、仕様書の機能を満たすものを作ることを、当時の私は仕事だと思っていた。
周りにいる人たちもそれが正しいと思っていた(ように振舞っていた)から、私も仕事に納得していた。
実際、コードを弄って仕様書というゴールに向かってものを作る作業は嫌いではなかった。
コーディングという作業自体は私に合っていたし、楽しいと思うことも多かった。
だが、それとは違うベクトルで「無」があったと思う。
思考停止と言い換えてもいい。

プロジェクトから外れたいと思ったきっかけは少しのセクハラだった。
弊社とお客様のために断っておくが、それは世の中でセクハラだと言われて取り上げられているような事件性のあるレベルものではなく、私が単に嫌だと感じた違和感程度のものだ。(もちろん当時はめちゃくちゃ嫌だったのだけど)
それまでの私はチームメンバーが誰であっても、業務の内容が何であっても、それが自分のできる範囲であれば唯々諾々と取り組んでいたように思う。
愚痴を言いはしたけど、途中で作業を放り出してしまうことはなかったと思っている。

だが、セクハラの一件で私はたくさん我慢していたのだと気づいた。
その時の私は今よりもずっと体調が不安定で、無理ができなくて、気分もずっと落ち込んでいた。
それは私が未熟だからだと勝手に思っていたのだけれど、実はそうではなくて、私は慢性的なストレスで参ってしまっていたのだ。
なぜそのことに気づけなかったかと言われれば、思考が停止していたからだ。
自分の毎日について疑問を持たず、本当に、琴線に触れるような出来事があるまで、私は私を透明にしていた。


自我を取り戻した私は上司や、上司の上司や、社長にまで文句をぶつけた。
今考えると、その時の私はまともな精神状態じゃなかっただろうと思うし、社会人というか、一人の大人として今更何を言っているんだというくらいのことも言ったと思う。
倒れて病院に担ぎ込まれもした。
たくさんの人に迷惑をかけたし、たくさんの人に助けてもらった。
冷たいと思っていた会社の人は、本当はとても優しくて暖かかった。
どの人も親身になって私の人生のことを考えてくれた。
会社が嫌になってからそうと気づいたことに、今もかなり後悔している。



紆余曲折あり、私は今の派遣先、つまり、近々入社する予定の会社と出会った。
これまでの派遣先とは全く毛色の異なるベンチャーだった。
運とタイミングが偶然重なった巡り合わせで、本当に、なぜ出会えたのか不思議なくらいだ。

その会社は、今までの私の人生にはなかった空気があった。
社風にももちろん驚いたのだけど、私が一番驚いたのは、そこで働く人には全員意思があったことだ。
誰もが透明ではなかったし、誰もがそこでは一人の人だった。
会社の規模が小さいから、という理由ではないだろう。
よく言われる、意識が高いとも違う。
好きなことを仕事にしている、という陳腐な表現とも違う。
いや、そう人もいたかもしれないが、とにかくそこでは一人の人が当然に人だった。
仕事とは、人とするものなのだと思い出した。



大企業の体質を私は悪いとは思わない。
メーカーの大規模なプロジェクトとなれば、大人数で手分けして開発するのが道理だ。
その末端の方で、毎日テストを流し続けることになる人もいるだろう。
変わり映えのない作業も、人によっては手慣れた、安定した作業となるかもしれない。
単にそれが合っている人と、私のように合わなかった人がいるだけだ。

悪いのは私だ。
考えるのをやめてしまって、大企業の開発だからきっと善いのだと漠然と思ってしまっていた私だ。
弊社も悪くなければ、アサインされたプロジェクトも悪くない。
私が勝手に考えるのをやめて、勝手に私という人間をダメにしていた。

今回のことで、考えるのをやめてはいけないという学びを得られたのは大きい。
私は果たしてこれが好きなのか、嫌いなのか、やりたいのか、そうでないのか、私は私に問い続けたい。
同じ作業をするにしても、私はできるだけ攻めの姿勢でいたいと思う。
受け身でいることは停滞を招き、私の中に私以外のものがたくさん入ってきて、嫌なのかどうかもわからなくなって、やがて透明な人間になってしまう。
それは何も成せないことよりも恐ろしい。


セクハラの一件がなければ、私は今日も透明だったのだろうか。
今もまだ考えている。


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