「ゆきよと、とらじゃと、ひいらぎと」 ひいらぎ

それでも生き残った私

ひいらぎ

恐怖を感じたのは三歳くらいの時だった。兄がガムを盗んだらしく両親が折檻していた。
裸にして殴る蹴るの暴力をふるっていた。私は恐ろしくてただ震えていた。
最後はどうなったのか覚えていない。

私が育った家庭では親は絶対の力をもっていた。夕食の間はテレビがついていたが
テレビに気をとられて食事が遅いと箸の裏側で殴られた。

三歳の頃は母親は働きに出かけていて私は一人で留守番をしていた。テーブルにはおむすびと
二十円が置いてありお腹がすくとおむすびを食べ駄菓子屋に行っていた。家には賢い犬がいて、
私の友人は犬だけだった。

両親から頻繁に暴力的な折檻を受けていたが自分が何をして叱られているのかは解らなかった。
時に、近所の人が可哀そうだと助けに来てくれた。それほど両親の暴力は酷かった。

母は病気になったりすると

「三人も子供要らなかった」

と言うので私は自分は必要のない人間なんだと思って育った。

五歳くらいの時に両親の不仲から離婚話が持ち上がったようで母親は兄を父親が姉を引き取ると
いう話になり私は父親の姉、つまり叔母の元に置き去りにされた。叔母は優しく、ダックスフンドを
飼っていたのだが私はやはり両親にとっては必要のない子供なのだと思い知った。

優しい叔母と叔父の間で、私はすぐに馴染んだ。暴力的でもなくただひたすら可愛がってもらった。
そのうちに叔母の事をママと呼ぶようになった。

そんな生活が終わったのは離婚を取りやめてやり直そうとなった両親が迎えに来たのだった。

私は母よりも叔母が良かったが母親が怖い顔をして

「ゆきよ、こっちに来なさい」

と怒鳴ったので、また怖い目に合わせられると感じて母の膝に座った。

大人になって何故、私を叔母の家に捨てたのかと母にきいた事があったが母は悪びれもせず

「叔母さんの家は貧乏でしょ?うちで育ってよかったじゃない。」

と母が言った。その言葉に私は口をつぐんだ。

私が幼稚園の頃から兄の異常行為が出てきた。当時、駄菓子を瓶に詰めてもっていた兄に
分けてくれと頼むと必ず

「その代わりに首絞めていいか?」
「パンツ脱いでくれるか?」

と言っていた。その言葉に幼い私は危機感を感じてもうお菓子をねだるのをやめた。

兄の楽しみは小動物を殺す事だった。カエルや亀を捕まえてきては色んな方法で殺した。
時には手足をもいだり首に紐をかけて絞め殺したり肛門に爆竹を入れて爆死させたりしていた。
私が大人だったら、兄の行為を異常だと思えたがその時は可哀そうだと思っていた。

私の人生が大きく変わったのは、十歳くらいの時に寝ている時に兄に呼ばれて兄の部屋に行った。
兄は私を裸にした。頭が真っ白になって何が起こったのか判らなかった。

やがて兄は私の部屋に来ては私を裸にするようになった。目が覚めると兄が私の上に乗り
自慰行為をしていた。

私は学校は苦手だったが勉強は好きだったのだが、兄の行為に恐怖を感じ集中できなくなってきた。
いつのまにか私は父のタバコを盗んでは吸うようになっていった。たばこを吸うとくらくらして、
それが快感だった。

私が生きようと思ったのは漫画家になる事とロックだった。年の離れた従弟がディープパープルの
アルバムを貸してくれた。中学生になったころにはロックのレコードを集めるようになったいった。

漫画を描いていると両親が、特に母親が勉強の邪魔だとノートを破られたりしていた。
当時は通説だったが学業に漫画は毒だという話からだった。

成績が下がるようになって、母親に折檻されたときに私は兄の事をようやく母親に打ち明けられた。

助けてはくれないと直感したが母親は何の躊躇もなく台所に行き包丁を持ってきた。

「お兄ちゃんの事を他人に言ったら、殺すからね。」

と、母親は包丁を私に突き付けた。そのうえで

「どこの家でもあること」
「据え膳食わぬは男の恥というでしょ?」

私は絶望した。

その頃は家事を私がすべてしていた。緑青が毒だと本で読み母の鏡台に生えていた緑青をそぎとって
炊飯器に入れた。家族全員が死ねばいいと思った。だがその程度のことでは誰も死ななかった。

少ない友人に手紙を書いた。

「私が死んだら、母親が殺したと思って。」

と、したためた。

中学の頃、学校から帰って兄の部屋から焦げ臭いにおいがしてきて行ってみたらごみ箱が燃えていた。
このまま火事になれば良いと思い、部屋に戻ってベッドで眠った。火事は起きなかった。

同じ頃、ホームルームの時間に痴漢が出るとの注意を受けた。ベージュのジャージを着た男が
下半身を出すという話だった。私はそれは兄だと直感した。ベージュのジャージは兄のお気に入り
だった。その後兄は着る事をしなくなった。

中学の頃は両親からの虐待で姉が荒れていた。制服を改造してタバコを吸い、髪を染め、友人と
たむろしていた。バイクを盗んでは乗り回していた。そんな姉の反発に両親の虐待は酷くなっていった。
殴るのには手が痛いと言っては、母は傘やゴルフクラブで姉を殴った。本に書いてあったが殴るときは
素手でないと自分にも痛みが通じない。私の目からは母は鬼に見えた。

その頃は父は家族に興味を失い母の叱責が始まると客間にあるテレビを点けて釣り道具の手入れを
するようになっていった。

家庭は地獄だった。

ただ姉への興味のおかげで私への暴力は激減した。それが救いだったが、兄は執拗に私を甚振った。

高校受験の頃に私は自由になりたかったので一番偏差値が低い高校を選んだ。
これには両親が大反対した。
毎日、両親の枕元で一晩中正座させられていたがそれでも挫けずに私は高校に入学した。

高校生活は楽しかった。

ロックの好きな人たちでバンドを組んだ。小学生からピアノとギターを習っていたので、
ギターの担当をしたかったが、全員ギターをやりたくて、じゃんけんで決めた。私はドラムになった。

部屋にドラムセットを置いてもらい学祭に向けて練習した。学祭ではドラムソロを叩いて、
二百人くらいの観客の歓声に包まれた。悪い気分ではなかったがバンドをしている人はこれが
癖になっているんだと思った。

それとは別に雑誌のメンバー募集の告知で大人の人のバンドにキーボードで加入した。
その時にギターを弾いていた大学生と付き合うようになった。

彼は田舎から大阪に出て来て本気で音楽家になろうとしていた。お酒が好きなのと、酒乱で学祭の時に
屋台を壊したり警察から私の家に電話がきて酔っぱらって問題を起こして保護されたりしていた。
実家に電話するのを恐れた彼は我が家の電話番号を警察に教えたのだ。

自分の境遇に心が壊れていたのに気が付いたのは、高校を卒業した頃だった。

丁度兄が結婚をして私が本当に自由になった時だった。

学校の帰りに大阪をうろついていたが、とあるビルの非常階段のカギが開いているのに気が付いて
階段を上った。屋上から飛び降りようと思ったのだ。

飛び降りようとして私はまだ自分が漫画家になっていないのに後悔を感じてやめた。

次の日に精神科の病院を訪ねた。

医師は精神疾患をもっている人は自分からは受診しないと言ったが、私は涙ながらに
母と兄の事を告げた。

私につけられた病名は

「分裂症」

今で言う統合失調症のことだ。

何もかもが遅すぎた。私が未成年という事から母親を連れてくるようにと医師に言われた。

私は同席していなかったのでどういう話だったかわからないが医師は私と母親を引き離す判断をした。

彼氏のお酒の問題でその頃は別れていた。

私は家を出てアパートで独り暮らしをはじめた。

アルバイトを掛け持ちしながら漫画を描いた。部屋には高校の頃に親しくなった友人たちが毎日
やってきて孤独ではなかった。本当に自由になったのだろうかと夢でも見ているではないだろうか?
と思う程、幸福だった。

病院には通っていなかった。それが大きな間違いだった。精神病は少しずつ私を蝕んでいる事に
私は気が付かなかった。

ある日夢をみた。

テニスコートで泣いている男性がいて顔はよくわからないが別れた彼氏だと思った。
まだ彼を愛していたので慌てて彼のアパートに行ったら彼が翌日に引っ越す予定だった。
やり直す約束と将来、結婚をする約束で私は彼氏の実家に挨拶に行った。

若かったので歓迎はされなかったが彼が生まれて初めて他人を実家に連れてきたのをきいた。

彼もまた心に闇を抱えている人なのだと思った。

そして私は成人を迎えた。

その頃、私は妊娠をした。

歓迎される理由はなかった。知っている人全員に、彼氏にも産むのを反対された。堕胎するなら
一人になって子供を育てる決心をしていたので親はメンツを保つ為に、私達に結婚式をするお金を
くれた。

結婚式は楽しくなかったが私は自分の中に宿った命に期待した。これで孤独ではなくなる。
自分の血がつながった本当の家族ができると心から喜んだ。

丁度彼氏も就職が決まったので、私たちは関東に引っ越す事になった。

結婚式を終えたので母は優しくなった。先に結婚していた兄のところに子供が出来なかったので
母は私の子供を楽しみにしていた。優しくなった母を頼って実家で子供を産む事になった。

これですべてがリセットされると思った。

生まれた子供は女の子でその頃は大人しくスイミングコーチをしていた姉に名前をつけてもらった。

新しい命のおかげで家族に戻れた気がした。

生活は父からもらったお金と夫の少ない給料と慣れない関東での暮らしだったので決して楽では
なかったが私は希望に燃えていた。子供は可愛く、私たちの宝物になった。

子供を産んで気が付いた事は子供は決して殴ったりしなくてはいけない事はしないという事だった。
私は両親の事を思い出した。普通は子供を産んで親の気持ちや苦労がわかるというが逆だった。

結婚をした事から夫はお酒をひかえるようになり週末に500円玉を持って、ポテトチップとビールと
ジンジャーエールを買い、金曜ロードショーを観るのが娯楽だった。今思えばあの頃が一番幸せ
だったように思える。

夫はもともと偏差値の高い大学を卒業していたので転職を繰り返し収入は増えていった。
まさかそれが不幸の始まりだとは思いもよらなかった。

娘が二歳になった頃待望の兄の妻の妊娠がわかった。

おめでとうの言葉をかけたら、兄と母の会話に言葉を失った。

「ゆきよが恨んでいたから子供が出来なかったのかもね。」

と真剣に話していた。

涙が出たが兄の子供が産まれる時に手伝いに行った。

娘はわんぱく盛りで言うことをきかずに病院を走り回っていた。母が娘の面倒をみていたが
産声が聞こえた時に母がまた信じられない事を言った。

「もう、本当の孫が生まれたから、あんたはいらないわ。」

これには看護師も驚いてお母さん、何を言うんですか?と、母を叱責した。

過去が私に戻ってきた。

その日私は眠ってしまった娘を抱っこしながら泣きながら家に帰った。

母の言葉を夫に告げ夫は激怒した。私の境遇を知っているただ一人の人だったので両親と
決別するように言った。私は両親に思っていた事を全て手紙にしたためて送った。

娘が三歳になった時に子猫を拾った。この出会いが後に私の人生を変える事になるとは
思わなかったが子猫は可愛かった。

娘が四歳になった時に夫に辞令が出てアメリカで暮らす事になった。最初は嫌だったが海外で
住む事で親や兄たちが簡単には家に来れないと思い夫と同行する事になった。

アメリカでの暮らしは気楽ではなかったけどニューハンプシャーの自然が私を癒した。猫も連れて
行ったので娘の良い友達になった。私は運転免許を取得して朝は夫を会社まで送り娘は移民局が
開催している学校の保育園に預けて自分は学校に通った。

家族で赴任してきた日本人のママ友と仲良くなったしアメリカでの給与の他に日本でも給与が
出ていたので生活は楽になった。二年近くアメリカで暮らしていたが湾岸戦争が始まり、
仕方なく私たちは帰国をした。

帰国すると、私は娘が小学校に入学したのを機会に再び漫画家を目指した。運よく妊婦あるあるの
ネタを四コマにして出産を迎える人、出産した人向けの漫画雑誌で賞を貰いプロの漫画家になった。

ついでのように猫と娘の生活を面白おかしく描いた漫画を投稿したところ再び賞を貰い、そのまま
連載につながった。猫を拾わなかったらこんな幸運はなかっただろう。

私は自分のペンネームを「ひいらぎ」とした。

高校の頃に大手の漫画雑誌に投稿したところ、賞は取れなかったが色よい返事を編集部から貰って
いたので当時付き合っていた夫つまり彼氏に話したところ

「君には才能がある。そこが魅力だ。」

と、私を好きになった理由のひとつに挙げていた夫は喜ぶと思っていたが反応は冷たかった。

夫は音楽家の夢をまだ目指していたし、小説家も目指していた。医者にもなりたがっていた。

彼の心の闇は

「自分の作曲した曲を患者に聴かせそれを精神分析をして小説を書く」

という夢だった。

つまるところ、彼も何等かの精神疾患を抱えていたと思われる。小学生の高学年から飲酒を
始めた夫は酒量が増え大学生の頃はすでにアルコール依存症になっていた。それが結婚を機会に
抑えていただけで有名な会社に転職し毎日強いお酒を飲むようになっていった。

年俸は2300万円になり私は生活費として毎月50万もらっていて漫画の収入もあったので生活は
とても裕福になっていった。

しかし、酒乱の夫は私を殴るようになりお酒が抜けると優しくなった。

私は両親からの虐待を思い出した。

更に追い打ちをかけたように夫の挙措がおかしくなっていった。

仕事は忙しくいつも深夜に帰っていて食事をとってから入浴していたのだが真夜中の
2時、3時に帰るようになり入浴してから明け方に食事をとる日もありとらない日もあった。

うすぼんやりと女の影が見えた。

お酒を飲まない時は夫は優しく休みの日には家事も手伝ってくれて子育てにも積極的だった。
そのうちに私は反対したがマンションを買った。傍目には夫はエリート社員、妻は漫画家で
マンション暮らしで何の不自由もない暮らしに見えただろうがお酒が夫婦の仲を少しずつ
壊していった。

ある日の日曜日に夫が掃除機をかけながら泣き出した。何があったのだろうと理由を尋ねたら

「実はつきあってる女がいる。」

と告白した。

結婚生活を描いてこつこつと作り上げたステンドグラスが一瞬にして壊れる思いがした。
その場で私は泣きながら叫んでしまった。娘がかけつけてきたが構わず夫を罵った。

私は食事がとれなくなってしまった。拒食症になってしまったのだ。家族の食事は作って
いたが自分は食べてもすぐにトイレで吐いていた。

私は興信所を雇い夫の不倫相手の事を調べたり夫の追跡を頼んだ。

漫画の仕事は忙しかったが私は元気を出すためにお酒を飲みながら描いた。ネタ帳には何年も
連載が続けられる程のネタがあったので下書きとネームを作ってファックスを送り原稿を仕上げた。

当時インターネットは珍しかったが夫がエンジニアのシステム監査をしていたのでノートパソコンが
ありインターネットに繋がっていたので私はパソコンを触るようになった。

毎日のように夫を詰ったが夫は夫で

「自分だけ夢を叶えて。俺はお前たちを食べさせるためにどれだけ我慢してきたか?」

と私を詰った。才能のない自分を責めずに私を責める夫を許せなかった。

それでも根は優しい夫だったので私が遺書を書いて薬の過剰摂取をして病院に運ばれた時に
私を精神科に連れて行ってくれた。診断はやはり統合失調症だった。

しかし医師は夫の心配をした。アルコール依存症だったために大学生の頃から指が少し震えて
いる夫に慣れていた私は気が付かなかったが夫の目を見て、夫もやはり統合失調症だと診断した。
私よりも重症だと言う。

夫の飲酒は酷くなっていった。時に、会社から逃げ出したりしてマネージャーから家に帰って
いないか?と電話があった。残業の時はデスクの中にウィスキーを入れて独りになると飲酒しながら
仕事をしていたみたいだった。

私への暴力も増えていった。

ある日娘が

「ママを殴るな!このやろうっ」

と夫を詰り激怒した夫が娘を殴った。

もう終わりだと思った。

やせ衰えた私は夫に家を出るように頼んだ。

普通なら相談すべき家族が私にはなかった。味方は娘だけだった。友人に手紙を書くとお金持ちの
夫なんだから我慢して奥様でいたほうが将来的には良いと返事がきたが私はとにかく夫と
別れたかった。

夫は不倫相手とすぐに別れてくれたみたいだったが私は夫のすべてを許せなかった。

テレビでのラブシーンでも胸に突き刺さった。テレビを壊した。

夫は家を出て、アパートを渋谷に借りた。

インターネットを始めた私はチャットというパソコン同士で会話がリアルタイムで出来るシステムが
あると知った。内容が閲覧出来たので数週間眺めていたがその部屋は離婚したい人や離婚した人が
会話していた。

本名の「ゆき」で、チャットに参加するようになった。

今では反省しているが娘の世話をお金で他人に任せてしまった。娘は孤独だっただろう。考える事も
出来ない程私の心は壊れていた。

娘はゲームにのめりこんで行った。

家庭が崩壊したのだ。

いつもトラジャコーヒーを飲みながらチャットをしていたので本名はまずいだろうとチャット仲間が私を

「とらじゃ」

と呼ぶようになった。

仕事以外はチャットをしていた。離婚した人や離婚を考えてる人たちが大勢いた。ようやくその頃私は
自分は独りではないと思えるようになった。

娘を預けて頻繁にオフ会に出るようになりそのうちの一人と肉体関係を持った。その日高熱を出した。
あまり男性を知らなかった私にはショックが大きかったのだった。

夫と別れた直接の理由は彼が自殺をすると言って家に電話をした時だった。死んでくれたらと
思うと心が軽くなった。夫のアパートに行ったがビニールの薄い紐が換気扇にかかっていただけで
本気で死ぬ気はないようだった。

当時私は可愛さ余って憎さ百倍になっていたとは気が付かなかった。夫を心から愛していたのだ。

精神病を患い愛情を知らずに育った私には夫の事を思うまでの力はなかった。

普通なら実家に帰ったりインターバルをおきながら離婚か結婚生活を続けるか。何等かの道はあった
はずだがリアルでは私の味方はいなかった。

帰省しないので夫の両親から電話があった。私は理由を言い夫が渋谷に住んでいる事を話した。
夫の両親はすぐにやってきた。やせ衰えた私を見て絶句したが、何とか子供もいる事だし復縁を
勧められたが私はもうとにかく夫と離れたいと考えていたので伝えた。夫の父親が激怒して
私たちは離婚をした。

オフ会で肉体関係を結んだ彼氏がわざわざ横浜までやってきて

「結婚を前提に付き合って欲しい。」

と、言ってきた。すでに判断力のなくなっていた私は、その甘言に乗ってしまった。

彼は製薬会社の係長で、夫ほどの年収はないけど君にお金の不自由はさせないと言っていた。
一つ一つの言葉が貴重なものに思えた。彼は元妻が駆け落ちしたと言っていた。関西に住んで
いたので私は娘を連れて大阪に住む事にした。

体脂肪率が6パーセントしかなかった。人間は飢餓状態になると行動力が出てくるときいた事が
あったがまさにその通りで、私は離婚の手続きや引っ越しの手続きをしながら仕事をこなしていた。
それはまさに統合失調症がさせていたのだが気が付かなかった。

離婚した元夫は優しくなり、慰謝料も養育費も破格の金額を約束してくれた。

再婚を約束した彼は仕事の関係で1年に半年以上中国にいた。仕事でほとんど会えなかったが
私は真剣に彼を頼った。

仕事以外ではチャットで知り合った人たちと遊びまわっていた。

「とらちゃん、とらちゃん」

と可愛がって貰っていた。

皆心に傷を持っていたので現実逃避から仕事にようやく行けるくらいまで遊んで日々を送っていた。

スキー、キャンプ、ボーリング、バーベキューとまるで第二の青春だった。娘と一緒にゲームに
のめり込んだ。仕事以外はまさに遊びまくる生活をしていた。

しかし恋人との仲はうまくいかなくなっていった。彼は体の関係が終わると会話もほとんどなしに
仕事に戻るようになっていった。

そして駆け落ちした元妻が彼の元に娘さんを連れて帰ってきてしまった。

よく考えると駆け落ちまでされて裁判に負け、高額な慰謝料と養育費を払っていたのは変だった。
彼から元奥さんの話を聞くたびに彼に大きな過失があった事に気が付いた。

彼はセックス依存症だったのだ。

仕事の接待も色町でしていたし本人も

「優しくしてくれなかったら女買いに行くよ。」

と、言っていた。

私は途方に暮れた。

その頃元夫が再婚をした。

もう帰る場所はなくなってしまった。贅沢に慣れてしまった私はそれなりの生活しかできなく
なってしまっていた。責任感という言葉は私には荷物が重すぎた。娘も引っ越しさせてまで大阪で
暮らしている意味がなくなってきたのだ。

遊び仲間の一人の男性が私に好意を持っている事に気が付いたので今度は彼を頼った。だが、再婚を
する気はなかった。もう結婚生活は嫌だった。

しかし統合失調症がどんどん酷くなっていった。娘が不登校になり精神科に連れて行った所、娘も
私も自閉症の二次障害の統合失調症だという事が判った。元夫に相談のメールを送ったら彼もまた
同じ病だと告げられた。

ようやく投薬治療が始まり病気に向き合う覚悟が出来た頃だった。しかし、焼石に水でもっと若い頃に
治療を始めるべきだったのにまさに遅すぎたのだ。私は38歳になっていた。

せめて高校だけでもと思い、大金を払って娘を勉強させた。知能指数が若干低かったので可哀そう
だったが娘はなんとか偏差値の低い高校に入学した。

病気が私を何度も自殺未遂させた。オーバードーズを繰り返し私の人生はだんだんと壊れていった。
娘の入学した高校は三者面談の時に行ったのだがまるでキャバクラだった。トイレは化粧品の空箱が
捨ててあり化粧をした学生たちが窃盗を繰り返していた。娘もその仲間だった。娘の盗癖に気が付いた時は娘はすでに私の財布や学校で窃盗を繰り返していた。学生証などは机に入れて、ブランド物の財布などを売っていた。

カラオケ店でバイトしてると言っていたが実は年齢を隠してキャバクラでアルバイトしていたのだった。

今度は娘との闘いになってきた。なんとか更生させようと警察に相談したり病院で相談したりした。

医師は盗癖は依存症のひとつであると言っていた。

仕事はぎりぎりでしていた。私に好意を持つ彼が会社を立ち上げたので働くようになり遊びを控える
ようになっていった。ある日、仕事が出来なくなり、漫画家をやめてしまった。
彼は優しかった、私は彼を頼った。結婚する気持ちはなかったが、やがて肉体関係を結ぶように
なっていった。仕事以外はベッドにもたれながらゲームをするようになった。

ある日娘がエヴァンゲリオンとウルトラセブンがパチンコになったよ。と、教えてくれた。

貯金がかなりあったので今度は娘とパチンコをするようになっていった。娘を更生させるどころか
私は親としては失格だった。娘は私が知らないところで盗みを働くようになっていったのだった。

やがて娘が成人式を迎えた。フィッテングモデルもしていた娘は高価な着物を纏った写真を何枚も
作ってくれた。

娘と戦う事を放棄してしまった私は娘の悪友に成り下がってしまった。

そして、養育費の支払い期限が終わってしまった。

私の人生が再び大きく変わったのはその頃だった。

元夫が自殺してしまったのである。

私と娘は東京に行った。

元夫の妻は冷静だった。てきぱきとメールや電話をして、夫の死を伝えつつ葬儀の準備もしていた。
10年ぶりに元夫の母と姉弟たちに会った。義理の父は癌で亡くなったのを知ったのもその時だった。

私は心から後悔をした。どれだけ彼を愛していたかいくつ言葉を並べてもかなわない程に愛していた。
死に顔は安らかで、ただ眠っているように見えた。

お通夜の夜、私は過呼吸の発作を起こして入院してしまった。

元夫の死に向き合うべきだったが、私の心は脆弱だった。死を受け入れられなかったのである。

遺産を500万をもらった娘は浪費しだした。免許を取るのだと言って教習所に通うようになったり
パソコン教室や英会話教室。ブランド物のバッグとパチンコ。娘は娘で心が壊れているように見えた。

漫画の収入がなくなった。これまで障害を持ちながらも頑張ってきたのだからと、主治医が障碍年金を
貰えるようにしてくれた。貯金と年金と彼氏の会社からのわずかな給料でやりくりしていたが生活が
破綻するのは時間の問題だった。しかし私と娘はパチンコを止めなかった。

パチンコ依存症になっていたのだ。

彼氏が結婚を求めていたが私は入籍だけは嫌だった。結婚はもう嫌だった。

彼氏は結婚をしてくれなかったら別れると言い出し、私は諦めて再婚して彼氏の二世帯住宅で
暮らす事になった。

母親が

「老いた親を見ろ」

と電話してきたので表面的には両親とは仲直りした。不信感というか、もうすでに親は私の中では
いない事になっていたが両親が娘を再び可愛がってくれるようになったので、時々娘を連れて実家に
帰るようになった。

再婚の条件は

生活費は月に10万 給料8万 食事だけ作れば夫が後の家事をするという約束だったが夫が
脳梗塞で倒れて、会社が無くなってしまった。

娘は家出してしまい夫は痴ほうが入るようになってきた。

私は色んな仕事をしながらイラストなどで生活を支えたが希死念慮から自殺未遂を繰り返すように
なり生活は困窮していった。借金で生活するようになっていった。

なのに私はパチンコを止められなかった。セラピーにも通ったが効果はなかった。

私と夫は仕事を求めながらの生活をするようになった。しかし収入に繋がるような仕事はなかった。

ハローワークで偶然作業所という制度があると知り夫と私は作業所で働くようになった。私はパチンコ
依存から立ち直る事が出来ずに友人や夫の母親、最後には闇金に手を出してしまった。警察に飛び込み
闇金とは縁が切れたが周囲に迷惑をかけてしまった。

数年の年月が経ち幾たびも繰り返した人生の転機がまた訪れた。

家出から戻ってきた娘は逮捕された。

朝いきなりだった。数名の警察官や刑事が警察手帳を持って娘の部屋に入り、腕時計を見て確保の言葉を言った。

罪状は

「家宅侵入罪」「窃盗」だった。

働いていたパチンコ屋を辞めた後に店員を装って忍び込み他の店員の財布を盗んでいた。

私は必死に働いて慰謝料や保証金を貯めた。

数か月ほど娘は拘置されたが、裁判の結果は執行猶予付きになった。

娘を説得して更生するように言ったが娘は拘置されていた時に入れ知恵をされて生活保護の生活を
選んだ。

大阪市内にワンルームマンションを借りて娘はひとりで暮らすようになった。

独りにしたのは間違いだった。娘はマンションのベランダから飛び降り自殺未遂をした。

夜中に警察から連絡があり夜明けを待って娘が収容された病院を目指した。

遺書には

「パパのところに行きます。ママ、可愛がって育ててくれてありがとう。」

と書いてあった。

命はとりとめたが大きな障害が残ると医師が言った。毎日娘を見舞った。

包帯でぐるぐる巻きにされていたがわずかに見える指が娘のものだった。包帯が取れ始め、頭蓋骨の
手術をし、体系は固まったままだったが手足も顔も見えるようになりこれが娘なのだとわかるように
なってきた。私は後悔したが、どうにもならなかった。娘は目を開けたし、しゃべるようになったが
まるで幼児のようで元の娘に戻ってくれなかった。

悲嘆に暮れた私は娘が入院している病院の6階から飛び降りようとした。フェンスを越えた所で職員に
見つかり保護された。もう何も話しが出来なくなってしまっていた。それからひたすら泣いていた。

娘は失語症になり右手が複雑骨折したので左手で食事などしていた。

私は投げやりになり娘を見舞う他はゲームやパチンコに明け暮れた。作業所の工賃と年金で生活して
いたが夫の母にずいぶんと迷惑をかけてしまった。

私のパーソナリティーは言わば土台のない場所に家を建てたように脆弱だった。親の愛を知らない
虐待を受けていたという事で反省すべき部分も大きいがそれが自分なのだと思えるようになるまでに
失敗を繰り返し他人に迷惑をかけ前向きになれず、ひたすら何かに怯えて息をこらして生きていた。

娘は回復したが、やはり重い障害が残ってしまった。

やはり娘を愛しているので会いたいが失語症になり幼児のようになってしまった娘を見るのは想像を
絶する気分だった。

娘は現在は施設からグループホームに移り、老人ホームの慰問の仕事をしている。

本人はとても楽しそうだ。

私はパチンコ依存症から立ち直り現在はB型の作業所を利用している。

いじめ、暴力、虐待は目には見えないが被害者の手足を捥いだようなものである。特に性的虐待は
その人の舌をも切り取ったようになる事を、これを読んだ人に伝えたい。

虐待を受けていた時に何故騒いだりしなかったのか?と問われそうだが、恐怖というものは被害者に
しか判らないものである。ただただ頭の中が真っ白になり部屋の一点を見つめて耐えているだけだった。

それでも私は生きていかないといけないし、何かを残したかったので文章にしたためる事にした。
今は娘の為に生き残っている。年齢的に私が先に死んでしまうが、生きてる限り娘と会い料理を作り
娘を可愛がってやりたい。

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