天女になった娘

ひいらぎ

1986年9月5日、偶然フレディ・マーキュリーの誕生日と同じ日に娘は生まれた。
2820g元気の良い産声を聞いた。当時、私はB型肝炎のキャリアだったのだが
妊娠中に肝炎になり、命をかけたような出産だった。ハイリスク妊婦だった。
医師は子供はあきらめるように言ったが、有事の時は私の命を優先させると
念書を書かされた。そのため大学病院での出産になった。

娘は生まれてすぐに免疫系の予防接種を受けた。これで、B型肝炎のキャリアに
ならないと医師は言っていた。

私は新しい命に希望を抱いだ。虐待を受けて育った私にとっては本当に
血の繋がった家族に思えた。

夫はあたふたと慣れない手つきで娘を抱っこしていた。

「うわー、ちっこい。」

などと言って喜んでいた。

大学病院の為に4日程で退院した。当時は私の両親や親族も娘が生まれた事を
大喜びしていて私は娘を連れて実家に帰った。

ベビーベッドに寝転んでいる娘は光がある方向に顔を向けていたので
ベッドを動かして頭の形が悪くならないようにした。何もかも初めてで新鮮だった。
口元に指をあてると口をパクパクしていたのが楽しかったので娘が眠っていない時は
よく頬や口元に指をあてた。

紙おむつが嫌だったので自分で布おむつを縫った。母親と従妹が娘を取り合うように
抱っこしてお風呂に入れていた。

娘は親族全員の天使になったみたいだった。姉が名前をつけてくれた。

私は肝炎の抗体ができて健康になっていった所だったので、ひと月で夫の待つ千葉県に
大阪から戻った。

子育ては決して楽ではなかった。母乳とミルクの混合で育てたので泣き出すと母乳を
あげた。夜泣きがひどく、母乳をあげながら、うとうとしてしまい娘がずり落ちて
また泣き出す声で起きるような毎日が続いた。夫は仕事が忙しく夜中に帰ってくる時が
多く食事と子育て家事、と大変な毎日だった。

娘は抱き癖がついたみたいで寝かせると泣いていたので、さらしを使って体に巻き付ける
ようにして家事をこなした。

夫は休みの日には家事に積極的で娘の面倒もよく見てくれた。娘は可愛いが夫の休みの日を
待ちわびるような気持ちにもなっていた。学生結婚だったので生活は楽ではなかったが夫は
初任給で我慢してくれた。

本当に幸せだった。

娘は寝返りも早かったし座るのも早かった。順調だと思っていたが離乳食が始まった頃に
苦労が始まった。野菜をまるきり食べないのだ。お米は好きみたいでお粥は食べてくれたが
ペーストにしたほうれん草なんかを食べさせると泣き出した。どの野菜をペーストにしても
食べてくれなかった。

娘が立ち上がったのはわずか9か月の時だった。

相変わらず野菜は食べずに成長していった。食が細い為に平均体重を常に下回っていた。
どこに行っても痩せているわねきちんと食べさせている?と、言われた。頭痛の種だった。

後追いがひどく、トイレもドアを開けっぱなしにしていた。とにかくよく泣く子供だった。

1歳の誕生日の時に両親がブランド物の子供服を送ってくれたので着せて、ケーキに
ろうそくを立てて記念撮影しようとしたがろうそくに火をつけたとたん泣き出した。
他の子と少し違うな。と、思い出したのはその頃からだった。
言葉が遅く、なかなかしゃべってくれなかった。ようやく覚えた言葉が

「パッパ」

だった。夫の事が大好きだったのである。

夫が出勤する時に起きていたらドアを閉めたとたん号泣していた。なだめるのに大変だった。

言葉は遅かったが、意思の疎通ができており、

「これ」

と欲しい物を指さしたり、私の手を使っておもちゃをとったりしていた。まさかの自閉症だとは
微塵も思っていなかった。トイレトレーニングは簡単だった。1歳半年でおしめがとれた。
それでも言葉は話せなかった。

1歳半検診で引っかかったが指導してくれていた人の言葉が荒く

「積み木をつんでっ」

と、睨みつけるように大声で指導していたので娘が怯えているのが判った。問題あり
との事で小児科医が控えていたので別部屋に行った。おしめがとれている事から医師は

「大丈夫よ」

と、言ってくれた。

自分と夫もそうだったがしゃべる自閉症がいるとは考えもしなかったのだ。
家族3人とも自閉症だったのだ。

夫が冬でも冷たいお茶を好んでいたのでうちには常に冷やした麦茶と棒状のアイス
(真ん中で折れるやつ)を置いてあった。娘はベビーチェアを使っていつもアイスを
取ろうとしていた。家ではそれをポッキンアイスと呼んでいた。野菜は相変わらず
食べてくれなかった。真夏などはおにぎりとポッキンアイスで生きていたような
感じだった。

氷が好きで、いつも

「氷、氷」

と、言っていた。これも自閉症の特徴だった。

本が好きだったので、あいうえおの積み木を買ってやったら自分の名前を並べたので驚いた。
わずか2歳だった。自分も3歳までに読み書きが出来たので驚いたがまぁありえるだろうと
ひらがなのノートを買ってやった。

娘は身が軽くアクティブだった。熱心に読書をしているか、外で木によじ登ったりしているか
のどちらかだった。

娘が3歳になった頃夫が転職をしたので横浜に引っ越しをした。家計が楽になりつつあった頃だった。
引っ越し先で同年代の子供がいない事から幼稚園に入園させる事にした。娘が幼稚園に行っている
短時間だったが私は新聞屋でチラシを入れる機械を動かすパートに出るようになった。
その頃には娘も言葉を話すようになっていた。

言葉は話すようになっていたが娘の言動はいつも何かの夢のようだった。アンパンマンの
雪の女王が好きで

「ママあたし、今日から雪の女王だからそう呼んで。」

などと言い、雪の女王様と呼ばないと返事もしてくれなかった。

ユニークな子だなぁと、思っていたので、そういうのも自閉症の症状だとは考えもしなかった。

娘が年少組で読み書きが出来た事から遊びの約束が毎日あった。何か特別な学習でもさせている
のだと誤解したママ友たちの間で娘は人気があった。しかし、お友達が魔法にかかってくれないとか
女王様と呼んでくれなかったからなどと言ってお友達に噛みつく事もあり少し変わった子という
評価になっていっていた。それでもすぐに新しい遊びを思いつく娘は常に人気者だった。

その頃、子猫を拾った。娘は子猫に夢中になった。

当時は猫の飼い方を知らなかったので子猫用の餌と首輪をつけてやり汚れて帰るとお風呂に
入れて自由にさせていた。賢い猫で家でトイレをすましてから外に出ていた。

娘は猫にいろいろといたずらをするのが大好きだった。ガムテープの芯の中に猫の顔を入れ
ライオンにしたりよくもまぁこれだけ思いつくね?と、言うくらい猫は娘のおもちゃになっていった。

その頃に夫に辞令が出て、私たちはアメリカで暮らす事になった。

私も夫も英語は得意だったので家の中で、ちらほら英語を使うようにして娘を慣れさせていた。

アメリカに着いた。猫も検疫が簡単だったので連れて行った。

最初は孤独だった。近所には日本人の子供もいなくて運転免許を取るまで娘と猫と過ごした。
幸い夫がハードワークではなく早い時間に家に帰ってくるので助かったが孤独だった。

ただ、ニューハンプシャーの大自然が私を癒した。娘も小動物や小鳥に興味を持っていた。

やがて夫の同僚で娘さんを二人持つ人が赴任してきたのとスイミングスクールで日本人のママに
声を掛けられたのをきっかけにママ友が増えて行った。娘も遊び友達が増えたので楽しそうだった。

私は移民局がやっている学校に通い娘は併設されている保育園で午前中は過ごした。午後は、必ず誰かの
家に集まって子供たちを遊ばせていた。

アメリカでの給与と日本での月給が入っていたので、うちはとても裕福になっていった。

赴任したばかりの時に夫がマネージャーに気に入られパーティーをよくするようになっていた。
私は学校でも友達が出来て学校が終わると必ずカフェに寄って日本の事をいろいろをきかれた。
また、世界史で思い当たるような出来事を乗り越えてきた人から当時の話を聞いた。教師はユダヤ人で
戦争の生き残りだときかされた。

娘は保育園では楽しくなかったようで

「ママ、蹴らないでって何て言うの?」

などと言っていたので保育園の職員に見守りを頼んだ。

4歳になっても、食べられる野菜が限られていたので代わりに果物をよく食べるようになった。背は低かったが
食べられる物が増えたせいか、娘の体重がようやく平均になった。

やがて私は学校が終わるとベビーシッターの仕事もするようになったので、我が家は夕飯まで賑やかだった。
出産後、不妊症になってしまった私は娘が一人なのを可哀そうだと思っていたので賑やかな食卓家事
皆でクッキーを焼いたりと、毎日充実していた。

しかし、その頃から知恵をつけた娘が嘘をつくようになっていったのが頭痛の種だった。自分の部屋に
水をこぼして上から隠すように新聞紙を乗せ、掃除している時に見つけたので娘に問いただすと猫がやった
などと言うようになった。嫌いな食べ物を残すと叱られるので猫が欲しがっていると猫のお皿の中に
入れていたりくだらない嘘だが強く叱った。娘を殴った事はないが、嘘が心配だった。

その、嘘をつく習慣がその後の娘の成長を大きく左右するとまでは見抜けなかった。

そして娘は5歳になり、プレスクールに入学をした。小学生になれるかどうかの判断をするクラスだった。
幼稚園より小学校の1年生に近いような感じだった。アメリカはシビアで小学生でも留年がある。
英語をなかなか覚えてくれない娘に危機感を感じていた。

ニューハンプシャー州は白人が多い州で日本人は珍しがられた。週末にはよくボストンの美術館まで行った。
美術館でも子供用のプログラムがあり、娘はそれを楽しみにしていた。

プレスクールでアメリカの歴史の勉強があった時にネーティブアメリカンに近い顔をしていると
参観日に娘は頭に羽をつけ、中央に座らされた。プレスクールでは朝の朝礼の時にアメリカに誓う斉唱があった。
それだけはきちんと覚えてくれた。

湾岸戦争が始まり残留するか帰国するかの選択を迫られた。娘が日本の小学校1年生になる事から
私たちは帰国した。

日本に帰ると娘はすぐに小学生になった。知能検査等には間に合わなかったがなんとか小学校に入学は出来た。
保健の先生が面談してくれて利発な子供だと評価を貰った。

夫はヘッドハンティングに遭い、世界有数の大企業に転職をした。

私は私で娘も小学生になった事だしそろそろ真面目に漫画家の仕事につけるようになりたいと感じて
四コマの漫画を投稿した所、仕事を貰えるようになった。それに、猫と娘の日常を面白可笑しく描いた漫画を
投稿して佳作だったが連載を貰えるようになった。

漫画家になりたがっていた娘に気を使って娘が寝ている間や学校に行っている間に漫画の仕事をするように
なっていった。

私がピアノを弾く事から娘もピアノを習いたいと言ってきたので近所で自宅でピアノ教室を開いている所に
私と娘は通うようになった。娘は弾けないと悔しがり、よく泣いていた。負けず嫌いだった。

私の仕事が増えた事から娘が起きている間にも仕事をしなければならなくなり、娘に漫画家やってるの。
と、伝えた。娘はとても喜んで興奮していた。原稿を見ては驚き、何もかも新しい夢のような世界に
娘はなっていた。

打ち合わせにもついてきた。編集者が娘にもケーキとジュースを奢ってくれたのが楽しかったのか、
と、言うか娘は漫画家に成りきっていた。幼稚園の頃の夢の世界がまだ続いていたのだ。

ある時は私の作画した四コマをパクッて四コマを描いていた。これには私は激怒した。娘の嘘をつく延長が
まだ続いているのだと思い、ものすごく叱りつけた。娘は泣きながらケーキが食べたかった。と
言い訳をしていた。

私は親ばかだがそれを足しても娘には画才はなかった。当時、娘は英会話と絵画とピアノを習っていたが
飽きっぽく努力をするという事は、ほぼなかった。学校でも同じで、面談に行った時に

「やっぱり若いお母さんだ。」

と、教師に言われた。しつけがなってないとの意味だった。

学校では片肘をついて考え事ばかりしていて授業を全くきいておらず、何か思いついた表情をして
ニコニコしているという。

当然のように娘は成績が悪く、学業だけは自信があった私を落胆させた。もちろん夫も有名な大学を
卒業している。

学習塾にも入れたがいつも泣きながら途中で帰ってきていた。だんだんと、娘の扱い方に手を
焼くようになっていった。

娘の夢はジャニーズ事務所に入って、漫画家になる事だったがいくら女の子は入れないと教えてもきかず
ダンスの物まねをしていた。ダンスは上手だった。

娘の幼馴染の女の子が芸能界にいる事から娘も自分もできると小学校3年生の時に劇団のオーディションを
受けた。オーディションに受かった娘は得意げだった。夫からの生活費が50万ほどあったので青山まで劇団の
レッスンの日は送り迎えしていた。芸能人が来た時に騒いだので、娘にはモデルの仕事しか来なかった。

モデルといってもフィッティングモデルで子供服のモデルをやっていた。それでも娘は良い気になり
サインなんかを考えて学校で大げさに言っていたみたいで、興味を持った子供たちが我が家にやってきた。

娘の身長が伸びない事から、劇団の職員には

「小学生の間だけ仕事はあります。」

と、言われていた。私はそれで良いと思っていたが、フィッティングモデルだけでは物足りなく感じたのか
娘は子供服のおしゃれ雑誌に投稿していた。受かる事は一度もなかった。

私自身は芸能界に興味がなかったので早く夢から覚めて欲しかったが漫画を描くプロセスが思っていたより
複雑だと知った娘は漫画家を諦め、芸能人になる事を強く希望していた。

その頃、夫の飲酒がひどくなっていって、酒乱の夫から私は暴力を受けるようになっていた。

娘は夫に反発していた。

「ママを殴るなっ。」

と、夫に立ち向かって行った娘も殴られた。もう終わりだと思っていたころに夫が不倫していた事も判った。

妻子がいると不倫相手と上手くいかないという自己中心的な考えの暴力だった。夫は夫で何等かの精神病に
羅漢していたが精神科の医師の言うことを私は無視をした。ショック状態になり拒食症になった。
遺書を書いて自殺未遂もした。

体が動かなかったので、お酒を飲みながら漫画の仕事をこなしていた。

娘は劇団を辞めた。家庭の中がそれどころではなくなってしまったからだ。食事ができなくなってしまった私に
夫もさすがに不倫相手と別れてくれて、家事をこなすようになってくれたがショックが大きすぎた私は文字どおり
正気を失ってしまった。

娘はその頃からゲームに依存するようになり、私を誘ってきた。欲しいゲームはどれでも買ってやった。

別居したいと夫にしつこく言ったので夫は渋谷にアパートを借りて独り暮らしをはじめた。
生活費は入れてくれた。

私はすでに娘の母親である事を拒絶するように娘の悪友になっていった。仕事が終わると娘と一緒に
ゲームをした。娘はほとんど学校には通っていなかった。食事もコンビニや、宅配の献立が並んだ。

その頃の記憶は実はあまり正確に覚えていない。私は、兄からの性的虐待で18歳の頃には統合失調症に
なっていたのでこじらせてしまっていた。もし客観的な考えが出来る大人がそばにいたら私は
長期入院していたと思う。娘には申し訳ないがゲームをしていた記憶しかない。

それとチャットにハマっていた。私と同じような境遇の人や、すでに離婚した人たちが集まっていた。
娘の為にお手伝いさんを雇い、オフ会にひんぱんに行くようになっていった。仕事こそしていたが
漫画家仲間とカラオケに行ったり娘も巻き込んで遊び歩くのが日常になっていった。

夫の両親とは学生結婚だった為にあまり懇意にはしていなかったが、さすがに帰省しなくなった
私たちを心配して電話がかかってきた。事実を伝えたら夫の両親がやってきた。最初は息子の行為に驚き
私をなだめていたが、私が頑なに復縁したくないと言った事から夫の父親の逆鱗に触れ
私たちは離婚する事になった。元々、私は夫の父親に嫌われていたからである。

離婚が成立しても、私と娘は夫のマンションで暮らしていた。チャットで知り合った男性が私を気に入り
結婚して欲しいと言ってきていた。製薬会社の係長をしていた事から生活の保障をしてもらえると思い
私は安易に大阪に引っ越してしまった。正常な判断が出来ない状態だったのである。

猫も、もちろん連れて行った。

その頃は体脂肪率が6%しかなく人間、飢餓状態になると活動的になるというがまさにその通りで
仕事をしながら引っ越しもてきぱきと済ませてしまった。

大阪に引っ越して離婚した人を中心にしたネットサークルに加入した。サークルではカラオケ
ボーリング、バーベキューなどして楽しかった。元夫が多額な養育費を払ってくれていたので
漫画の仕事を増やす必要はなかった。

娘は丁度中学生になった。横浜から大阪への転居は大変だっただろうと思うが、娘は私の事を
一度も責めなかった。それは優しさだったのか?単に、私に頼るしか生活していけないと考えたのか?
わからないが娘は無理に笑顔を作り元気に学校に通ってくれた。

だが中学生になっても娘は変わった子だった。夏はサンダルを履いて日傘をさしビニールのバッグに
筆箱と財布を入れて登下校していた。その為に、呼び出しが多かった。ある日、娘が㍘のテスト用紙を持って
帰ってきた事から私は少し正気を取り戻した。教師がこのままでは高校に行けないと言うのだ。

自由にさせてやりたいとは考えていたがせめて高校だけは行って欲しかったので、慌てて家庭教師を
つけて勉強させた。

そこから娘と私のバトルは始まった。

悪友だと思っていた母親からの勉強を強いる言葉が娘に強く突き刺さった。娘が暴れ出しのもその頃から
だった。何度も家庭教師を変えて、娘と相性の良い女性をみつけるまで1年もかかってしまった。

私に反発して学校に行かない娘とつかみ合いの喧嘩をした。娘が木刀を持って暴れたので壁に小さな
穴が空いた。次の日紙粘土で補正されていて、笑いそうになったが、兎にも角にも高校へ入学させる事に集中した。

娘がデザイン等の専門の高校があると教師からきいてきたので、娘はもう勉強しなくても良いと思っていた
ようだが、ホームページで生徒の作品を見せた所あまりにも稚拙なデザインの数々を見て娘は泣き出した。
もう勉強をして高校に入学するしかないと覚悟を決めたらしい。

その頃から娘の言動がおかしくなっていった。お風呂場に生首が置いてある。などと言い出した。
私は心配になり児童精神科医の元を訪ねた。結果は自閉症の二次障害の統合失調症だった。
医師が私の言葉もおかしいと言い検査を受けた所、私も自閉症の二次障害の統合失調症であった。私の知能指数は
115あり平均以上だった。これが病の発覚を遅くした。娘の知能指数は100に満たなかった。娘は元々知能が若干
低かったのだ。可哀そうな事を強いていると思ったが、高校だけは行って欲しかった。

医師に自閉症の専門医を紹介してもらい、私と娘は精神科に通院するようになった。医師は高校に行かせなくても
良いと言っていたが、生まれて初めての努力で、娘は偏差値の低い高校に入学できた。涙が溢れた。

娘は高校が気に入ったようだった。しかし学校は荒れていた。窃盗が日常化していた。、学生証だけ残してお金と
財布を盗み、財布を売り飛ばすという悪質なものだった。娘は、ほどなく窃盗グループに入ってしまった。
当時、娘はコンビニのアルバイトをしていたがピアスを空けタトゥーを入れた。どこにそんなお金があるの?と
言うような高価なブランド物の財布を使っていた。案じていたが、警察から電話があった時に、娘の盗癖を知った。
コンビニのアルバイトではなくキャバクラで働いていたのだ。お店の帰りに歩くのがうっとおしくなった娘は道に
放置されている自転車を盗んだ。すぐに職業質問を受け、私の所に電話がかかってきた。

お母さん怖いからと警察官が根負けしそうになるくらい長時間娘は黙秘を続けた。電話がかかってきたのは
明け方だった。

未成年だという事で迎えに行かなくてはいけなかった。警察官にも平謝りして娘を連れて帰った。
その時に娘は告白した。

他人の財布を見るとワクワクすると言う。盗みが成功すると満足して、現金を盗み、財布を売りとばして
いたらしい。医師に相談した所、盗癖というのは一種の依存症であると言われた。お金に困ってなくても
盗癖のある人は盗みを繰り返すらしい。娘にはお昼ごはん代として3万渡していたがキャバクラで働いて
盗みを繰り返していた事で私は娘を許さなかった。

やがて娘は高校を卒業した。進路は、休みたい。と、決めなかった。フリーターになると娘は家を出た。

娘の盗癖は気がかりだったが、そろそろ自立してもらっても良いと考えていた私はお米を買ってやったり
娘の部屋で調理を教えたりした。雑な性格だったので小さい頃から調理だけは教えていたがごはんとお味噌汁を
作れる程度だった。

一度、水商売の甘さを覚えてしまうと足を洗えなくなるみたいで娘は昼間はパチンコ屋のコーヒーワゴンで働いて
夜はキャバクラで働いていた。

娘が成人を迎える頃またフィッテングモデルをしていた娘に成人式の晴れ着のモデルの仕事が来た。
晴れ着を揃えてやれなかったので娘が振袖を何着も着替えて写真を残してくれたのを、私はとても嬉しかった。

しかし、娘にとって最大の試練が起こる。元夫が自死してしまったのだ。私は娘を連れて東京に行った。

娘は一度も泣かなかったが、私はショックを受け、眠っているような元夫の死に顔を見て過呼吸の発作を
起こして入院してしまった。悲しすぎると泣けないというのをきいた事はあったが、東京からの帰りに娘は
パパは私たちより良いマンションに住んでるなどと文句ばかり言っていたので、娘が傷ついた事に気づいて
やれなかった。

娘は500万ほどの遺産をもらった。私には学資保険の保険料がおりた。

そして娘は浪費するようになる。仕事を全部辞めて運転免許や英会話スクール、エステ、パチンコ
考え付く限りの浪費をしていた。遺産は1年くらいでなくなってしまった。またキャバクラで働くようになった。

しかし、仕事は続かずアパートを畳んで当時は今の夫と同居していた私の所に何度も帰ってきていた。

ある日娘の部屋で寝ていると、数名の警察官が家にやってきた。娘は逮捕された。罪状は

窃盗と家宅侵入罪だった。

娘は数か月、拘置された。

しかし、反省はしていなかった。私は執行猶予がつくようにお金を集めて被害者の人に何度も頭を下げに行った。
運よく、気の合う女性の弁護士さんに付き添ってもらうようになって、娘は初めて反省をした。

その頃は私は漫画の仕事をこなしながらゴルフ場のレストランで働いていた。娘を迎えに行った時に
服をそろえてやりケーキを食べに連れて行き働く事の尊さを叩きこんだつもりだったが、拘置されていた時に
知恵をつけられたみたいで娘は生活保護の道を選んだ。

愕然とした。

私は働いて欲しかったが主治医も、この知能では働いても作業所くらい。だと、判断していたので
生活保護はすんなりと通った。娘は賑やかな街のワンルームマンションに住むようになった。
独りぼっちが嫌いな娘は猫を飼うようになったが人間がくるとケアマネージャーの女性にも抱き着いて
帰らないでーっ。と、泣くようになっていった。私が行くと、私にも、ママ帰らないで
と、泣くようになった。娘を連れて帰りたかったが、娘を養うほどのお金もなく、働かない娘を家において
おく事も出来ずに週に1度は娘のマンションに行き料理を作り朝はカフェでモーニングを奢ってやる程度の事
しかしてやれなかった。

娘は暇になってしまい、パチンコ依存症にもなってしまった。私の友人や自分の知人などにも多額の
金額を借金していた。

ある夜に警察から電話がかかってきた。娘がまた何かしでかしたのだと思っていたがそれは
自殺未遂だった。明け方を待ち急いで病院に行った。自宅のマンションから飛び降りたらしい。私に感謝の
遺言状を書き残していた。

包帯でぐるぐる巻きになっていた娘の指がかすかに見えてそれが娘だとわかった。娘の指だった。

娘の指だと確認してから、私の記憶は少しとんでいる。

漫画の仕事も手放してしまった。

ひたすら娘のベッドの横の椅子に座っていた。

泣く事も出来なかった。

気が付いたら娘の入院している病院のリハビリ室のベランダにいた。柵を乗り越えたらしい。6階だった。
職員が大声で何かを言っていたのを覚えている。職員に捕まり、私は椅子に座らされ、はじめて泣いた。

無理してでも、娘を自宅に住まわせればこんな事にはならなかった。と、泣いた。
すべてが自分のせいだと泣いた。生きているのが辛かった。現実に向き合えるほどの力はなかった。
誰かに殺して欲しかった。と、泣いた。

包帯がとれた娘は失語症になっていた。脳のダメージが大きかったのだ。私の事や、彼氏の事は
覚えていたが時間の感覚や数字を忘れてしまっていた。車いすに乗って病院のあちこちに
行くようになっていた。私はタブレットでアニメや歌を聴かせた。

やがて、娘は歩けるようになり、施設に入所した。

少しは会話も出来るようになり、動かなくなった右手の代わりに左手で絵を描くようになった。

今は娘はグループホームに移り住んで一部屋もらって、昼間は老人ホームの慰問に行っている。

とても楽しそうだ。

そこには盗癖もなくパチンコ依存症もなくたばこもなく、澄んだ世界が広がっている。
娘は全てから解放された。ひたすら笑顔でいる娘を見ると、ショックから立ち直った今でも複雑だ。
悪友でも良いから、元に戻って欲しいとも願い、いや、解放された娘は幸せ
なんだ。とも思い。どちらが良かったのか分からない結末になってしまった。

ただ、私は生きる事にした。娘の笑顔をみたいから、娘の声を聞きたいから、娘の手を握りたいから。

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