依存症と私

ひいらぎ

私にはいくつも依存症がある。パチンコ・ニコチン・カフェイン・氷食症。

パチンコに初めて行ったのは3歳くらいの頃である。父親のバイクの後ろに乗って連れて行ってもらえた。
その時は父親がパチンコ依存症になっていた。箱を渡され

「玉集めておいで。」

と言われた。

自閉症の私には銀色の完全球体は魅力的だった。沢山の大人たちの足元にキラキラ光る玉が落ちていると
宝物のように拾って箱に入れていた。当時は規制も緩くパチンコ屋に子供がいても誰も不思議に思わなかった。
それどころか玉を入れる仕事をしている女性がキャラメルをくれた。

父親に抱っこされてパチンコを打った。

我が家はお小遣い制だったので父親がパチンコ代を母親に何度もお願いして貰っていたのを覚えている。
お金が入って母親がいないと父親が私を連れて

「ママには内緒な。」

とバイクの後ろに乗せてもらった。

幼い頃は魅力的な銀色の玉とキャラメルの味がパチンコだった。

タバコを吸い始めたのは小学校の高学年からだった。兄からの性的虐待が引き金となった。

父親のタバコを盗んで吸いだした。吸った時のクラクラ感が辛い事をしばし忘れさせてくれた。
中学生になると家の炊事を引き受けていてお金を多少持っていたので近所のタバコ屋さんで
セブンスターを買って吸っていた。小学生からコーヒーに興味を持ち図書館でコーヒーの淹れ方を
書いた本を借りて当時一件しかなかった豆屋さんで豆を買った。両親によく振舞っていた。

家に居ると料理をしているか本を読んでいるか氷をガリガリと食べているかタバコを吸っているか
コーヒーを飲んでいるかのどれかだった。

両親が帰ってくる7時までに夕食を作ればいいので余ったお金で悪友とゲームセンターで遊んでいた。
ほぼパチンコのゲームが多かったと思う。

高校生になると食費で3万同人の収入が1万アルバイトのお金が3万と裕福だったので授業をさぼって
タバコを吸いながらパチンコをしていた。私が通っていた高校は

「極道養成学校」

と呼ばれているほど荒れた学校だったので生徒が制服でパチンコ屋にいても誰も咎めなかった。

開店の時に制服で並んでパチンコを打っていた。

分かりやすく言えばグレていたのだが姉が暴走族のような事をしていたので、両親の関心は姉にばかりいっていて
私の非行行為には目をつぶっていた。毎日のように母親と姉のバトルがあった。ゴルフクラブと傘で戦っていた。
幼い時からちょっとした事で暴力を振るわれていたので日常茶飯事であった。

兄からの性的虐待で私は常にいつでも死んでもいいと思っていたので出来る限り現実を忘れる事をしていた。
一番は漫画を描く事二番目がパチンコだった。

タバコとパチンコが現実を忘れさせてくれた。高校時代はライブハウスやディスコに行く以外は午前中は
パチンコをしていたと思う。午後から授業に出てクラブ活動をしていた。とにかく毎日が忙しかった。夜は食事を
作り置きして深夜までレストランで働いていた。

高校2年生の時の修学旅行で見慣れぬクラスメイトがいるのに気が付いた。

「お前誰や?」

と相手も私に言った。とたん周囲が噴出していた。笑いの渦だった。私は午前中には学校に来ずその子は朝来ると
1時限目からカフェに行って仲間と遊んでいた留年生だったのだ。クラスメイトでありながら修学旅行が初対面だったのである。

2年留年していたその子はすでに車の運転免許を取り学校まで車で来ていたのだった。

修学旅行はスキーだったが夜は宴会だった。ビールを買ってタバコを吸いながらつまみを食べおしゃべりしていた。
私は酔っ払いながらも運よく先生たちが見回りに来る前に自室に戻ったが他は飲酒と喫煙で留年組となってしまった。

18歳の頃に私は統合失調症の診断を受けた。兄からの性的虐待と母親からの虐待が原因だった。医師は家族と別れて
暮らした方が良いと勧めたので私はお金を貯めてアパートを借りた。専門学校のお金だけは親が出してくれた。

専門学校の先輩でパチプロがいて打ち子を探していたので引き受けた。日当が5千円でわりが良かった。言われた台を
ひたすら打つのだった。先輩は学費からアパート代もすべてパチンコで稼ぎ出していた。勝ったお金を差し引いて日当を貰った。

アルバイトをいくつか掛け持ちをしていた。アパート代・食費・おしゃれをしていたので洋服代にお金がかかった。
料理が出来た事から私のアパートには悪友が常にたむろしていた。当時は打ち子以外パチンコは行くお金はなかったが充実していた。

専門学校を卒業して、貿易の会社に入社した。当時はバブルだったので劣等生の私でも就職出来た。会社は学校のように甘くなかったが
お荷物になりながらも何とか働いていた。給料が安いので夜は飲食店で働いた。終電でいつも部屋に戻っていた。

だがバブル期だったのでディスコなんかに行くと若い男の子が近寄ってきて奢ってくれた。初対面のおじさんがネックレスをくれた。

就職をして1年と少しで私は妊娠した。夫が就職が決まったばかりだったので産むのを家族も含めて反対されたが産まれて初めて自分と
血のつながった家族が出来るんだと思うと産みたかった。ひとりでも育てると固い決意を言ったので出産を許してもらった。

妊娠がわかると依存症を断ち切れた。自分でも不思議なくらいタバコもパチンコも必要なくなった。生まれてくる子供の為に布おしめを縫い
靴下等を編んだ。

妊娠初期の頃体調が悪くなった。母親はB型肝炎のキャリアで私もキャリアだったのだがウィルスが暴れだしたのだ。慢性肝炎になってしまっていた。
大学病院に行ったのだが内科も産婦人科も出産には反対だった。有事の時は母体を優先するという念書を書かされた。夫に抱き着いて泣いたが
きっと大丈夫と励ましてもらった。

だるくて何も出来なかった。大学病院に通っていたので実家で暮らしていた。1日のほとんどを眠って過ごしていた。ところが
臨月の頃から体調が良くなった。抗体ができていたのだ。神様に感謝した。生まれて初めて感謝をしたのかも知れないくらい嬉しかった。

子育ては大変だったが毎日が充実していた。娘は可愛かった。慣れない東京での暮らしはストレスだったが夫も優しくて
お金はなかったが幸せだった。

夫は中学生から飲酒を始め大学生の頃は立派なアルコール依存症だった。交際している時も夜よく警察から電話がかかってきた。
夫が路上でお酒を飲みすぎて帰るアパートの道を忘れたりして警察に保護されていた。迎えに行った。学祭で深酒をして屋台を壊したりしていた。
酒乱もあった。それがその後で大変な事になるとは思ってもみなかった。夫の夢は大きく自分で作曲した曲を被験者に聴かせて医者として
精神分析をし作家としてそれを小説に書く事であった。そのためにアルコールが必要だと言っていた。自分の好きな作家たちが
アルコール依存症だったからである。私は夫の夢を聞き逃してそらしていた。

初任給は安かったのでお酒を飲む事も出来なかったのが幸いして毎日が平和だった。

夫は独学でC言語をマスターしてエンジニアをしていた。ステップアップして研究開発をしている会社にヘッドハンティングされた。
収入がどんどん良くなった。私たちはボロアパートを出てキレイなアパートで暮らすようになった。

育児は育自とはよく言ったもので、私は自分を赤ん坊から育てなおしができた。兄と母だけは許さなかったが自分の人生を見つめなおす事が
出来るようになり心に余裕が出来た。出来た余裕で娘にはできる限りの愛情を注いだ。

娘が幼稚園に入った頃に夫に辞令が出て私たちはアメリカで暮らす事になった。

会社の好意でニューヨークに滞在した。夫は憧れのニューヨークでライブハウス巡りをしていた。家はニューハンプシャーに決まった。
広い部屋と大きなソファ。洗濯機と乾燥機。オール電化のアパートだった。

おそらく私の人生で一番楽しい時期であっただろう。車の免許を取りママ友が増えていき週末はボストンで過ごした。夫は定時で帰れたので
一緒に料理をした。学校にも通わせてもらった。学校に併設されている保育園で娘を預かってもらい勉強をした。

アパートから少し歩くと子供の頃に読んだ絵本の世界だった。森が広がり小動物がいて不思議なキノコが生えていた。大自然が私を癒した。

パーティーがあると夫はよくビールを飲んでいた。ビールでは酔わなかったので依存症は軽減していた。幸せだったが言葉も解らず慣れない土地の
為私はまた喫煙をはじめてしまった。夫には内緒だった。

やがて湾岸戦争が勃発して私たちは帰国した。夫はまだ28歳だったが夢は30歳までに叶えたいと本気で思っていたのだ。

私は私で娘も小学生になった事だし、そろそろ漫画家になるつもりだった。四コマを投稿したところ採用されプロへの道を踏み出した。
娘と猫との生活を面白おかしく描いた漫画で佳作を貰いそのまま連載になった。

夫はヘッドハンティングに遭い世界有数の大企業に就職をしたが、夢は諦めていなかった。収入が跳ね上がり私のお小遣いだけで
50万ほど貰えるくらい稼ぎ出していた。芥川賞を狙っていた。そんなに簡単に取れる賞ではないので私は本気にしていなかったが夫は20代最後の
賭けに出た。

もちろん賞など取れるわけがなかった。夫は落胆し漫画家の夢をかなえた私を罵りだした。深酒をするようになり家の中で暴れた。
暴力を振るわれ描いたネームを破られたりしていた。娘が

「ママをいじめるなっ」

と夫にくってかかるようになっていった。

家族が壊れだした瞬間だった。

夫は残業の時もデスクに強いお酒を入れてひとりで飲みながら仕事をしていた。挙動不審が出てくるようになった。会社から無断で出て行き
どこかでお酒を飲むようになりマネージャーから電話がかかってきていた。

どんなに遅くなっても帰宅後は食事を摂りお風呂に入っていたのだが明け方帰ってくるようになった。仮眠するとそのまま出社していた。
女の影が出てきた。一人で考えたいからと旅行にも出かけて行った。女がいると思ったのは旅行の為に服や靴を新品のものにして行っていたからである。

夫の暴力で精神的に追い詰められた私はタバコとパチンコに頼るようになっていった。自分の稼ぎもありお金はいくらでもあった。

お酒が抜けると夫は謝って優しくなった。私たちは共依存状態になりつつあった。

ある日夫が休日に掃除機をかけながら泣いていた。そして

「実は今付き合ってる奴がいる。」

と、告白した。ダメージは大きかった。娘が飛んでくるほど大声を出して泣いてしまった。

何度も自殺未遂をしたが死ねなかった。医師は入院を勧めたが漫画の仕事を手放したくなかったので入院は選択肢になかった。夫の事が
ひたすら憎かった。大金を払って女の事を調べ女の母親と女の夫の母親へ手紙を書いて不倫の事を責めた。

私は正気を失ってしまった。ひと月で10キロ以上やせ衰え夫にマンションを出るように懇願した。女とは別れてくれたが夫がいるだけで
心が乱れた。娘がしていたゲームをするようになった。それと、パソコンでチャットをしていた。娘をアシスタントさんに預けて
日本中あちらこちらのオフ会に出かけていた。

見かけた洋服は必ず買っていた。漫画の仕事をするためにお酒を飲みながら原稿を仕上げていた。夫は渋谷でアパートを借りた。

買い物依存症にもなっていた。高価なダイヤモンドなど買っていた。夫から貰っていたお金のほとんどを浪費に使っていた。
貯金も崩して浪費した。

夫の両親から帰省しない事で連絡があった。私は手短に理由を説明した。

夫の両親が驚いて横浜のマンションまでやってきた。

正気を失っていた私は大阪の製薬会社の係長をしていた男性と浮気をしていた。離婚したら結婚をしてくれ。と言われていた。
私が欲しかったのはある程度の収入があり娘を可愛がってくれる再婚相手だった。

離婚しか考えてなかった。

私の頑なな態度に夫の父親が激怒した。実にあっさり離婚してしまった。

リアルの友人たちはお金持ちの夫と離婚する事を反対していた。当時、私にどこか心のよりどころがあれば結果は変わっていたのだと思う。
実家に帰りたくはなかった。実家がまともな家だったら、私は離婚はしてなかったと思う。

元夫は多額の慰謝料と養育費を支払ってくれた。特に養育費は約束の倍振り込んでくれた。その優しさに気づくまで長年かかってしまった。

飢餓状態になると活動的になると言うが、私がまさにそれだった。離婚届を出した後はテキパキと引っ越しの準備をしてさっさと
大阪へ行ってしまっていた。

今の夫とは引っ越す前に新宿のオフ会で知り合った。女所帯なので頼る人が欲しかったので挨拶した。彼は私に一目ぼれしていたのを私は
気が付かなかった。

彼氏は仕事人間で年のうち半分以上中国にいた。その間に元嫁が不倫して駆け落ち結婚してしまったらしい。裁判で彼は高額な慰謝料と
養育費を払っていた。その時は気づかなかったが、彼は有責配偶者だったのだ。彼はセックス依存症だったのである。接待も色町でしていた。

まるで江戸時代のように。

私が大阪に引っ越した頃元嫁が不倫相手が娘に暴力を振るうと彼のマンションに住み着いてしまったのだった。
私はどうすることも出来なかった。目論見は全て外れてしまっていた。

今考えると、彼を本当に愛していたのかわからない。ただの理想の再婚相手像だったのかも知れない。

仕事の合間を縫うように彼は逢ってくれたが肉体関係だけだった。ろくに話し合いをする姿勢も見えなかった。きつく話かけると

「優しくしてくれないと女買いにいくよ。」

と脅されていた。

その頃は元夫は再婚をしていた。まさに帰る所を失ってしまっていた。

私は彼氏と別れる決心をした。

大阪で待っていたのは大勢の同胞たちとのオフ会だった。キャンプ・バーベキュー・カラオケと毎日のように皆辛い事を忘れるように
遊びまくっていた。会社のトイレで寝てしまうほどの人もいた。

青春が戻ったような気がした。オフ会以外は仕事をしてゲームをしていた。時には徹夜で攻略していた。仕事こそしていたがほとんど
ゲーム廃人だった。つまりゲーム依存症になっていたのである。

今の夫は私の気をひくために色んな嘘をついた。ゲームの事ロックの事エヴァンゲリオンオタクは本当だったみたいだがパソコンで調べて
私と話しを合わせていた。私にとっては大切な友達になりつつあった。

やけくそに生きていた私は再びパチンコ依存症にもなっていた。タバコは一日3箱。元夫からの高額な養育費と原稿料それと医師に勧められて
障碍年金を受け取るようになっていた。娘の高校進学の貯金にはさすがに手は出してなかったが他の貯金が目減りしてきた。
それでもパチンコもゲームもやめなかった。

少し正気に戻ったのは高校受験のために勉強をしていた娘が

「ママ、お風呂に生首がある。」

と幻覚をみるようになった事だった。すぐに児童精神科に連れて行った。診断結果は自閉症の二次障害での統合失調症であった。
私の言動もおかしいと娘の主治医に知能検査を受けると私もまた自閉症の二次障害の統合失調症だった。

元夫に詳細をメールしたところ彼もまた自閉症の統合失調症だったのだ。それを隠す為にアルコール依存症になっていたというのだった。

娘は軽く知能に障碍があったというのを知ったのもその時だった。私も何も支援を受けてこなかったが娘も何も支援もなく普通高校への
受験という道を選ばされた。高校さえ出てくれたらもう何も強制しないと自分に約束をした。娘は頑張って高校に受かった。涙が出た。

ところが、偏差値の低い学校にありがちな私が卒業した高校のように娘の高校も荒れていた。娘は学校の窃盗グループに入り他の学生から
お金やブランドものの財布等を盗んでいた。娘は窃盗依存症になっていたのである。

それだけでなく娘は隠れてキャバクラでアルバイトもしていたのだ。娘の好きなブランドのバッグなんかを持っていたのでカラオケ屋さんって
バイト料がいいのかな?と騙されていた。

私はネットサークルに入った。今の夫もいた。

ネットサークルを開催している東京の会社社長がサークルを会社にすると言い出した。実際、新宿のビルを借りて中国から輸入したり
携帯の勧誘にアルバイトを雇っていた。今の夫は係長待遇で年俸700万が約束された。それをきっかけに私たちは交際をはじめた。
一軒家を持っていたので年俸700万あれば十分に暮らしていけると思ったのだ。

マンションも大阪から彼の自宅の近くに引っ越しをした。

しかしまだ仕事が実現したわけではなかったのに、彼は働いていた小さな広告代理店を退職してしまった。

しかも東京の会社はただのダミーで社長は妻の故郷のフィリピンに高跳びしてしまったのだった。多くの社員やアルバイトは露頭に迷った。

それを受けて今の夫は会社を起業してしまった。どこからお金を集めたのか有限会社の出資に300万出していた。私にとっては最大の裏切り
行為だった。サラリーマンとなら付き合っても良いと思っていたのでまさか起業をするとは思ってなかったのである。

お金の出どころは不明だったがマンションをオフィスとして借り多い時は私を含めて4人も雇っていた。私の月給は8万だった。口癖は

「元嫁アホやなぁ。俺と一緒にいたら社長夫人になれたのに。」

だった。彼女に8万しか払えない会社ならそんな価値ないのにと冷めた目で彼を見ていた。

第一デザインが出来るのが社長本人だけで私はホームページの動画作り。残りの人は名刺などの雑用をしていたのである。
たったそれだけの仕事に大勢雇っていたのは不思議だった。

会社の仕事と漫画の仕事はしていたが他の時間はずっとパチンコをしていた。タバコも相変わらず一日3箱吸っていた。家では
氷をガリガリ食べていた。その頃は自覚はなかったが依存症が悪化していっていた。

今の夫が脳梗塞で倒れた。手術はせずに済んだがそれから彼は若年性認知症になる事になる。

夫は初めは優しかった。パチンコにも連れて行ってくれた。毎日娘に食事を作り置きして仕事に出ていたが自分は夫と
仕事の後深夜に居酒屋で食事をしていた。

それなりに楽しかったのだが問題が出てきた。飼ってる猫の内の一匹が癌になってしまったのだ。治療に300万円以上
かかってしまった。借金が膨らみマンションの家賃も払えなくなってしまい夫の実家で暮らすことになった。

その秋に元夫が自死してしまった。私達に金銭的に苦労を掛けない為にまさに命を削ってお金を作ってくれたのだと言う事が
理解出来た。弱い私には想像も出来ないくらい彼は働いてくれた。結局結婚してから離婚しても彼に頼りっぱなしだった自分の
落ち度に自分を責めた。それでも依存症は私を蝕んでいた。

以前よりもパチンコに依存した。

遺産を貰った娘もパチンコに依存した。娘は娘なりに心に大きな傷が残ったのだという事を私は気づいてやれなかった。母親失格だった。

やがて遺産を使い果たした娘は夫の家の中や外で窃盗を繰り返すようになり逮捕された。毎週娘の所に面会に行ったが娘に罪悪感が
生まれる事はなかった。保釈された娘は入れ知恵を付けられて生活保護になった。最近まで私は知らなかったのだが私の友人達から
借金をしてパチンコをしていた。

娘には恋人がいて結婚の約束をしていたが話が進まず娘は自殺未遂をしてしまった。マンションの4階から飛び降りてしまったのだった。

命は助かったが重い障碍が残った。悲嘆した私は娘が入院している病院の6階から飛び降りようとしていた所を職員達に見つかり命を助けられた。

その頃は夫が若年性認知症で仕事でミスを連発していて大手の会社との取引が無くなり私はゴルフ場のレストランでパートをしていた。
会社は縮小してしまい借金が残った。パートの帰りに追突事故に巻き込まれた私はムチ打ちで歩行困難にまでなってしまっていた。
残った保険金も殆ど娘の面会とパチンコで使い果たしてしまっていた。それでもパチンコを続けていた。

夫が認知からか?私に暴力を振るうようになっていた。当時認知症に理解のなかった私は警察官に電話をして匿ってもらったりしていた。
夫は慢性腎不全になり透析を受けていたが透析を嫌がり透析の時間になると私に暴力を振るうようになってしまっていた。

夫と自分の障碍年金と義母の遺族年金で暮らすようになっていたが私は4円には行かなくなっただけで1円パチンコを続けていた。
唯一のストレス解消だった。夫の年金に手を付けるようになったので義母は夫と私に成年後見人をつけた。少ないお小遣いからでも
パチンコとタバコだけは止める事が出来なかった。

それが180度変わったのが夫の死だった。心筋梗塞で明け方亡くなっていた。

義母は先に老人ホームに入居していた。

私もグループホームで暮らす事になった。私の年金だけでは家の維持が出来なくなっていた。

お小遣いも殆どなくなり強制的にパチンコ依存は収まっているがタバコが止められないのが目下の頭痛の種である。いつの間にか
氷食症も収まっていた。カフェイン依存も軽減している。

依存症は一生涯治らない病である。止める事を続けないといけない恐ろしい病気だ。

今後の予定は差し当たってないがもしかしたら私は依存症から抜け出ていないのかも知れない。

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