多分性善説

一般に哲学の話題は敷居が高いが、その中でも性善説・性悪説の話題については専門知識を持たない人でもそれぞれ自分の考えを持っていることが多いように感じる

義務教育でも場合によっては内容に触れる話題だし、さまざまな人の性善説・性悪説に対する考え方を聞くのはなかなか面白い

かく言うわたしは多分性善説推しだ

多分、というのは、人間の根源的な倫理観について持論があるもののそれを善と呼ぶべきかわからないという意味である

わたしは、人間が生まれ持っているのは「正しさへの信奉」だとおもっている

一般的に性悪説で人間が生まれ持つとされる利害の考え方は生きていく中で後天的に身につく社会的なもので、生まれ持つものではないような気がする

ちなみに、わたしは社会の力を大きなものだと考えているので、性善説信者だとしても人間を肯定的には捉えていない
善性のようなものを生まれ持った人間が複雑化する社会の中で悪徳に染まっていくのはもはや当然のことで、目を輝かせながら人間の善性を信じることができるほど心の美しい人間ではない

閑話休題

さて、「正しさへの信奉」とはなにか、これは不正への潔癖と言い換えることもできて、この方がわたしとしてはしっくりくる

人間は誰しも心の内に正しさの基準があって、利害とは関係なく、他人から褒められることにも咎められることにも関係なく、その正しさに則って生きようとする心の動きがあるようにおもう

この「正しさへの信奉」がなければ、ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えて処刑されるようなことはなかったはずだ

自分が正しいと思ったことを貫きたいという感情は誰にでもあり、この正しさ自体は環境によって後天的に形成されていくが、「正しくありたい」という感情自体は先天的に生まれ持ったもののような気がする

誰にもバレない嘘だったとしても、その嘘が自分や他人を救う所謂優しい嘘だったとしても、人は嘘をつくと多かれ少なかれ罪悪感を抱く

やはりこれは不正への潔癖で、これ以上の理屈に分解できない根源的な倫理観なのではないかとおもう

しかし、前述した通り正しさは後天的に形成されるため人によって異なり、この正しさ同士がぶつかって争いが生まれる

よって「正しさへの信奉」を社会にとっての善であると胸を張って言うことには躊躇してしまうが、すくなくとも個人の内ではその根源的感情を善と呼んで差し支えないのではないだろうか

下世話な行為だとおもうが、例えば芸能人の不倫を咎めるのも「不倫はいけない」というその人の正しさに背く、他者の不正への潔癖からくるもので、大元を辿るとそこには個人の善性があるとおもう

世の中にはまだ正しいかどうかの決着がついていないことは多くあって、インターネットで言論の自由を手にした人間たちはそれぞれの正しさをぶつけ合っているが、正しさについて意見の違う者と分かり合おうというのは容易ではない

他者についてなにが正しいか全部言い切ることができるほどわたしは全能ではなく、それでも社会が何らかの形で変わろうとしているのは確かで、社会を変えるためには誰かが声を上げるしかないのだが、これはいまの社会では相当神経が図太くないとできない

図太くないのにそれをやってしまうのはやはり正しさへの信奉があるからで、自らの身を滅ぼしてまで正しさに執着する人間はもしかしたら愚かなのかもしれない

人間はその愚かさを再生産しつづけて、それでも社会はその傷を修復しながらすこしずつ正しく、まともになっていくのかなとおもった

たくさんの傷を埋めるように肥大化した我々の社会はテセウスの船のようにもう原型を留めていなくて、それでも脈々と受け継がれてきた歴史の上にしか成り立たない形で成り立っていて、これからも正しさや善で殴り合って慰み合うその途方もなさにわたしはため息が出るけど、でも希望もあると思うようになった

わたしの信じるこの得体の知れないものがもし人間の善性だとしたら、いつか正しくなれますように

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