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#0 “読むポッドキャスト”的な何かを目指して

 ここ数年、テレビを見るよりもポッドキャストを聴いている。家事とか何らかの作業をしながら。あるいは散歩中とか、電車に乗ってどこかに移動している時に。
 そういう時、耳に入ってくる音声は聴いているようで聴いていない。または、聴いていないようで聴いている。意識と無意識の狭間を行ったり来たりしながら、自分にとって心地よい、情報との距離感を常に保っている。あまり集中しなくても、そこにあるだけで何となく心の余白を満たしてくれるのがポッドキャストのいいところだなと思う。

 以前から漠然と、定期的に文章を書くための環境を整えたいと思っていた。でも、いざ書こうとすると、肩肘を張りすぎて結局挫折してしまうことが何度かあった。大学に通っていた頃はレポート課題を出されていたから、嫌でも一定量の文章を書くことが日常化していたけれど、何の制約もない中で文章を書くのって結構難しい。論文みたいな硬い文体に慣れていたこともあって、「書くこと」のハードルを必要以上に上げていたのかもしれない。

 どうすればフランクに文章を書けるのか。考えていたときに思いついたのが、今の自分に一番近い距離にあるメディア、ポッドキャストにヒントを得ることだった。音声メディアと文章は、同じ「言葉」を扱っていながら、発信のされ方と受け取り方は異なっている。音声の方がより受動的、文章の方がより能動的な受信のされ方が一般的だろうと思う。

 でも、本当にそうなのか?

 この前、初めて出会った人たちと読書について語り合う機会があったのだけど、意外とみんな、本と向き合っているときに、そこに書かれている文章を“実は読んでいるようで読んでいない”現象が度々発生していることが分かった。最初は集中して読んでいるつもりでも、気づけば機械的に文字列を目で追っているだけになっていたり、手元のスマートフォンに気を取られて、そのまま意識が離れていってしまったり。私も本を読みながら、いつの間にか考え事をしていることがよくある。前のページに戻ってみると、読んだ覚えのない言葉の羅列。あれ?と思って、結局何ページか前からもう一度読み直すことになる。文章を読む行為の能動性って、思ったより低いのかもしれない。

 言葉の出力のされ方はどうだろう?音声も文章も、まず最初に話し手/書き手の頭の中に、まだ言語の形になっていないざっくりとしたイメージがあって、それを他者と共有するために言語化するプロセスがある。音声は順行する一方通行の時間軸の中で出力されるから、伝えたいセンテンスを瞬発的に順序立てて発する必要がある。つまり、言語化から出力までの距離が短い。
 一方、文章の場合はそもそも出力に費やす時間に何の制約も無いから、伝えたいことの全体の中からどの部分を先に書いても良いし、どれだけ時間を費やしても良い(締め切りがある場合は別)。つまり、言語化から出力までの距離が長い。この距離の長さが、文章を書くハードルを上げているのだな。

 と、つらつら書いてみたけれど、要は、もっと気楽に頭の中にあることを文字に起こしていこうということ。きっと一人一人、見えている世界の形は微妙に違っていて、どんな画角で、どんなレンズで、どんなフィルターを通して世界を知覚しているのかは、人間固有のコミュニケーションツールである言葉や、その他のあらゆる芸術表現に翻訳することでしか共有し得ないよねという話。「私には、世界はこんなふうに見えています」の断片を共有するために、このスペースを使っていけたらいいな。

 エッセイと論考の中間、ポッドキャストくらいの気軽さとマニアック度合いで、何となく考えていること、気づいたこと、最近読んだ本/観た映画、抽象的なことから具体的なことまで、言語化-出力の距離をなるたけ短くしながら文章にしてみる実験。
 リーディング・ポッドキャスト、あるいは大きな独り言。

 ツイッターとかインスタとか、世の中に溢れるコンテンツを行き来する途中で、気が向いたら寄り道してってね。どなたさまもタイミングで。

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