2023年1月9日

もうどうしたらいいのか全然分からなくなってしまう。なにが幸せなのか分からなくなってしまう。

わたしは名を挙げたかった。有名になりたかった。愛されたかったから。だから業績に固執した。わたしは優秀でいようとした。だってすごいことを成し遂げたひとや、歴史に名を残し今日まで愛されるひとはみんないい大学を出ているから。だからわたしも、と思った。

そして、すべてを抑圧した。楽しいことから距離を置いた。自ら苦しい檻の中に閉じこもりに行った。そしてその狭い檻の中にいたら、当然苦しかった、けど、でも、安堵してる自分もいた。苦しんでいるからその対価は貰えるだろうと仮定して、安堵していた。まだその対価を貰えた訳じゃないのに。そして、その成果を自覚できた瞬間が少々、残りのほとんどの時間は落胆と失望と自己嫌悪と僻みに吸い込まれて、葬られた。それは私の性質、性格の欠陥のせいだ。

わたしはいつでも他人と比較してしまう質だった。そういう自分が、ほんとうの自分を見てやれない自分が、常々嫌だ。わたしは弱かった。かわいそうと言うに値しない方の弱さをもっていた。醜い方の弱さを。だからわたしは消極的で、いつでも安心していたかった。自己が崩れていくのを感じることにアレルギーを持っていた。それだからひとの成績とか、業績とか、受賞したこととか、持ってる資格とか、ありとあらゆる公的な指標に取り憑かれた。そしてそれを自分の持っているものと比べた。そして傷ついた。それだけならまだましだ。わたしは、他人が自分より下とわかったとき、そのひとを切り捨てるように、自分の頭の中で、烙印を押した。さらにひどいのは、まだ客観的に下だと分からないのに、きっと下だろうと仮定して、妄想して、そして、切り捨てたことだ。人でなし。

こうやって、自分を否定することでしか他人を認めたり褒めたりできないし、他人を蔑むことでしか、否定することでしか、自分を認められない、消極的で小心者で卑劣で卑怯で陰湿な自分がいやだ。今のこの自己批判にだって同じこと思う。

わたしは自信がなかった。いつも自分は間違っているって意識があって、だから自信をもってその上で間違いをおかしたら、それ以上恥ずかしいことないと思うのだ。わたしはどこまでも恥の人間だ。恥の文化の人間だ。わたしは旧い日本の考え方が嫌なのに。それだから誰にも私の過失を知られたくなくて、誰にもガードを固めてしまって、誰にも本心を打ち明けられなくて、誰ともピリピリしてしまって、自分の心の中にまでそれは侵食してきて、人間全体無理になってきて、誰もこの世界にわたしを好きでいてくれる人なんていないんじゃないか。わたしの奥底にあるこの醜い感情や、弱さや、嫌いなものに対する考えや、わたしのほんらいの性質、性格、価値観、わたしという人間の根本的な部分、を、それら全てを、認めて、優しく愛してくれる人なんて世界のどこにもいないんじゃないかと、思ってしまう。ずっとそれがひっかかっている。こころのそこからほんもののわたし、そんなのを受け入れてくれるひとなんていないんじゃないか、と。だから表層で微笑んでるだけの、なんにも中身のない人間であるかのような振る舞いしかできない。苦しい。だから他人のわたしへの評価はいつもわたしっていうほんものの人間への評価じゃなくて、表層で繕ってる部分、なんでもないただのキャラクターへの評価になってしまう。それをわたしは、わたしほんらいへの評価じゃないって、頭では分かってるつもりなのに、でも心の深くでは、それ自体わたしの本質なのではないかと、わたしは本質的に空っぽな人間で、だからそういう振る舞いが本心から出てくるのは当たり前なんじゃないかと疑い始めてしまう。そしてどんどん私の心は体から引きはがされていく。心が置いていかれる。人生に置いていかれる。生きたかった人生、なりたかったひと、出会いたかったひと、伝えたかった思い、分かって欲しかった考え、全部ないがしろにされて、わたしの弱さのせいでないがしろにされて。わたしは、このどうしようもなく重い思いを抱えるばかりで、それが表出して分かってもられることなんで一切なくて、偽りのまま死んでいくんだろうか?苦しいよ。なんで素直に生きられなかったんだろう。なんで出来ない自分を愛せないんだろう。わかっている。すごい人になりたかったからだ。そして愛されたかったからだ。でも、すごい結果を残せるほどわたしは強くないよ。弱いものを愛しているの。弱いものでも認めて欲しいの。だれもここには来てくれない。いつまでもひとりだ。苦しい。報われたい。

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