2023年10月19日

生きがいなんてどこかに行った。ただ特急のような現実がとめどなく降って降ってくる日々。誰も見守っていてはくれない。誰にとっても大事な存在ではない自分が今日も学校を這いずるように歩く。「もう生きてなんかいない、死んでいないだけだ」そんな言葉をどこかで聞いてから、ああそれだと腑に落ちて、それでも電車には飛び込めない。鈍行じゃ死ねないし。死んだあとに悲しむ人がまだいる自分は幸せなのか。責任みたいなものだけが私の命を引き留めている。誰かに助けを求めても、その人が心の底から私を許してくれて、ずっと時間を割いて話を聞いてくれるようなやさしい人じゃないのだと知るだけ。前に進まない私にしだいに辟易したり仕舞いには怒鳴りつけたりする人間しかいないのだと知るだけ。自分がこんなにどうでもいい人間だなんて知りたくなかった。社会は歯車でさ、上手くできた部品が組み込まれてより大きな組織になっていくんだ。そのときに、ぼろぼろの部品や、きれいに噛み合わない歪んだ部品はその構造に組み込まれないんだ。社会に立ち向かって、でもものすごい速さで回るそれに入れずに跳ね返されるときの、火花の散るような摩擦、それがこの心。もういいよ。もう誰も信じられない。笑顔で話を聞いてくれる「向こう側の人間」が信じられない。その面の奥で、何を思っているのだろうと考えて、もう何も信じられない。一昨日は、一時間一人で学校を歩いた。人を探していたから。約束をしていたんだ。その日のその時間にそこへ来てと言われて。でもその人はその日学校に居なかったんだ。それに何の言葉もなかったのだ。一人で待ったり、歩いて探したりしているとき、ひどく不安で、だんだん体の表面が冷たい膜に覆われていくように、苦しかったんだ。その人が学校に来ていないと知ったとき、もう終わりだと思った。私の人生は一昨日で終わった。ずっと、ずっとそういう扱いのひとつひとつをやり過ごしてきて、でももうだめだったんだ。それがとどめになったのだろう。救いがない、でももう生きていないので救いとか関係ない。日々のなかで、なんで生きてるんだと散々自分に問いかけた。それを心の中で発する度に鬱屈としていた。答えはずっと出ていない。それももう私が生きていないからなのかもしれない。明日も、明後日も、ずっと、ずっと現実。「君」なんていないし、気休めにもならないよ。遠いところで貴方が生きていて、でもそれを実際に観測したことのない私の考えることだから、それすら妄想なんだよ。生きることがこんなに真っ黒なことだと知りたくなかった。日没の早まる10月の帰り道、夜が怖いと思った。でも死にたかった。生きたくないのではなく、死にたかった。ただ貴方が、私と無関係なところでも幸せならそれでいいと、祈る心も無くなっていた。埃のような自分が誰からもあてにされず明日も明後日も、そんな日々に幸せも楽しみもないのなら、なぜ生活を続けるのか。なぜいまここに貴方がいないのか。どこで間違ったのか。そんなこと考えてもまた眠って明日が来て

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