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成りたい人間とほんとうの自分

成りたい人間になることと、ほんとうの自分でいることは、相反する場合がある。

どうして成りたい人間像があるんだろう。私の場合、自分が持っていない技術や才能を持っているひとのことがずっとかっこよかった。だからそういう「自分の持っていないもの」が欲しくて、持っていることが羨ましくて、それを手に入れようとした。

でもこの場合、もし自分がそれまで持っていなかったものを手に入れられたら、自分は今までの自分とは異なる存在になってしまう。少なくとも、「そういうものを持っていない自分」というアイデンティティは崩れてしまう。
それは本当に幸せなことなのだろうか。
それに、自分の持っていなかったものを手に入れようとするなら、それが究極に高尚な理想であればあるほど、壮絶な努力を必要とするだろう。当たり前だけど、努力は、疲れる。

努力している時、「これは欲しい能力を手に入れるための道筋の上にあることなのだ」と、努力する自分を前向きに捉えられたならいい。そして望んでいたものをほんとうに手に入れられたとき素直に喜べて、そういう「手に入れてしまった自分」、「変容してしまった自分」を受け容れられるならいい。

でも、その過程のどこかで躓いたり、引っかかりを感じてしまう場合もあるんじゃないか。努力するという、変わるという決意をして、そのために必要な道に進めるような選択をして、何度かそういう選択を繰り返して目標達成の中腹くらいまできたとき、気づいてしまうことがあるんじゃないか、「これはほんとうの自分なのか」と。


要するに、今 私がそれなので、そういう所にいるので、気づきたくなかったことを言葉にして手放そうとしてるだけなんですけど。

まず「成りたい自分」というのは全方向にベクトルが向く。この世界にはいろんな領域のエキスパートが存在する。そのうち、どの分野の「成りたい自分」に実際になろうとするのか、それがすごく問題な気がする。私はたぶんそこの選択を誤ってしまった(いまの時点でそう断定してしまうのが正しいのかも分からない。根性が足りないだけで、もっと努力を積んでほんとうに成りたい自分に成ったとき、こんな感情なんて忘れられてしまうのかもしれない)。

私は、自分の苦手なことの才があるひとにずっと憧れていた。いまは詳しいことは控えるけど、誰でも「自分と性質が違うと思えるようなタイプの人間は一定数いる」ということを感じることってあると思う。私が嵌ってしまったのはそういうところです。技術や才の内容そのものは、本当は何でも良かったのかもしれない。自分の性質と正反対のところにある領域、そのエキスパート、そういう存在がかっこよかった。今となっては、隣の芝が青く見えていただけなのかもしれないなあと思う。実際にその芝を掻き分けてみたら内側は全くの灰色であるなんて当時は思いもしなかった。
それから、今ないその能力を手に入れられたら、大袈裟だけど世界の本質に迫れるような気がしていた。そういう内容の分野ではあった。少なくとも全くの外野にいた頃はそう感じていた。というかそれも最初から可能性の話ではあったのだ。

そしてそれを選んでしまった。進路選択というやつだ。自分の不得手な分野に進む奴なんて真っ当じゃないと思われるだろうなあ。ほんとうにそんな言葉をかけられたこともあった。でも当時の自分は、大きなことを成し遂げてやると思っていた。それから、もっとも「そういう能力に欠けた自分」に引け目を感じていた。当時はその分野が極端に不得意だったから、是正してニュートラルな人間に成りたいと思っていた。そういう偏りのない人間はすてきだと思った。そしたらこの創作の界隈でもその能力が役に立つ時がきっとくるだろうと思った。そういう日を楽しみにしていた。努力を始めた当時はすごく前向きだった。エネルギーがあった。 当時は、あまり「ほんとうの自分」という概念は頭になかった。可能性だけ見つめて前に進むことができた。今となってはもう絶対にできないわざだなあと思う。

そして一定期間努力は続いた。日々のなかに充足感があったことを覚えている。自分を改善している感覚。
でも、だんだん異変が現れた。
ある年の冬に入るころ。長い長い人生の冬に入るころ。「自己が全く発現していない」と、ふと思った。自分らしさを抹殺して勉強に従事する日々。苦手な事ばかりに時間を割いて、自分のやりたいことを抑えるようにする毎日。一日一日が重く、めいっぱいで、長かった。そして結果もでない。身を粉にするほどの努力量を持ってしても、劣等感が拭えない。かじかむような冬だった。

そういう日々とその中で生まれる感情が、日を追うごとにエスカレートしていく。耐えかねて日常から脱落してしまう経験を重ねる。そしてある日、忍耐の糸は切れる。内にあるエネルギーが枯渇してしまったのだ。動力源を見出せなくなった。
そして思いを馳せる、「ほんとうの自分」の存在に。

いまの自分は偽物だと、強く感じていた。昔の自分から、とおく離れてしまったと感じていた。あのゆるやかで好きなことをしていた日々から、とおく。

それからは生活のペースを落とした。好きなことを、多少はするようにした。まだ結果が出ていないのにペースを落とすことを、脱落以前の自分はアレルギー的に忌避していた。そんなことしたらこれまでの、全てを犠牲にするような努力が報われなくなってしまう。それが怖かった。でもいまの自分にそれ以外の選択肢は最早なかった。インターネットのだれかが、「高校でメンタルを崩してから人生セカンドシーズンに入った」って言っていた。いい意味で。私も次のステージに進めているのだろうか。

そういうわけでスローペースな生活に入って、気づいたことがある。「成りたい自分」は、「ほんとうの自分」や「ほんらいの自分」ではない。それはつまり、理想が本来の裸の自分に備わっているという物語、可能性に、縋りたいだけなのではないか。身を削るような努力をしないと成りたい自分になれないということは、ありのままに生きたときの自分は「なりたい自分」とは根本から異なる存在であるということを証明しているんじゃないか。それはほんらいの自己の発現じゃない、自分の、理想形への改変だ。私みたいに、自分の特性のベクトルをねじ曲げようとしているひとにとっては特にそうなんじゃないか。
それを、素直に受け入れられるのか。私は、というか私の身体は適応できなかった(いまの段階で言えることとしては)。ほんとうに成りたい自分とありのままの自分(ほんとうの自分)は別だと思う。そして、そのどちらを選ぶかはその人次第だけど、いまの私は結果的にほんとうの自分を取り戻すための生活をしていることになっていると思う。

思えば私は、自分のねじ曲がった心で自分の不得意な分野を選択し、人一倍の努力を要してさえ才能もなく名を残せないような人生に成り得る選択をしてしまった。私は自分の理想とまわりの希望に振り回されてしまったということなのだろうか。ふつうのひとは、自分の得意な分野を選択するものだ。自分の得意な領域に身を置いて、その分野を素直に愛せて、その中で自分にある才や技術を開花させていくのが順当で効率のいい生き方なんだろう。好きこそ物の上手なれ。私は、「下手こそものの好きなれ」なんて言葉を、頭の中でぐるぐる回していた。好き、というか、求めてしまう、というか。私の人生はほんとにどうなってしまうんだろう。なんにも名を成せないまま、身を砕くような努力も甲斐なく、そこそこの無名の人生に終わるのか?やりたいことも達成出来ず、逢いたい人にも逢えず?

「ほんとうの自分」が、「理想形としての自分」であったならどれだけ幸せだろう。自己肯定感が高まるだろうなあ。でも、もしそうでなかったら、私たちはそれを受け入れなければならないのか?それは真実なんだろうけど、受け入れるってきっと苦しいだけだ。そういうところをうまくごまかしながら生きられる人が、うまく生きられるひとなんだろうなあ。

自分の選択には何ひとつ結論は出ていないが、まあそういうのが人生なのでしょうから、これからも何かあったらここにメモするかもしれない。それだけ。

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