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10年前の同い年

 今日、『カーテンコールが止む前に』を聴いた。最近は忙しくて音楽を聴く暇もない。というかわざと作らないようにしていた。変にかき乱されて本業に手がつかなくなってしまいそうで怖いから。
 それが発端だった。最近はヨルシカよりナブナさんのボカロが刺さるなぁ。そうじゃん、ナブナさんがこれ作ったのが今の私と近い歳の頃だったからじゃん、きっと。そこでふと思いつく。彼がこれらを作り上げたのは、ほんとうにちょうど今の私と同い年のときだったのではないか。少し焦る。ニコニコ動画で彼のアカウントを探す。出てきたのは、2014という数字。このアルバムが初めて売られた日。まだ2年ある、と少しだけ胸を撫で下ろす。
 わたしは怖い。あのころの彼に、年齢が追いついてしまいそうなのが。わたしは彼になりたかった。同じくらい素敵な作品を作って、同じくらい好かれて、同じくらい凄いひとになりたかった。だから今から10年前に彼が何を成し遂げていたかを気にした。高校に入ってからTwitterを始めているな、10代のうちに本格的に制作活動を始めているな、メジャーに移ったのが24歳か、…。じゃあわたしも高校入ったらTwitter始めて、pixivも始めて、本格的に絵を描こう、…。
 これを書いていてほんとうに嫌になる。わたしは、隣の芝生を青く色付けすぎている。隣でもないか、手の届かない場所のものを、こっちに引っ張ろうとしている。結局今までわたしにできたのは、ちゃんと描いた作品を数枚上げることと暇を見て落書きしたことだけ。なにが、まだ時間がある、だ。すでに追いつけていないのだ。彼が処女作を投稿した年齢を、数十万再生されていて驚愕したあの作品を、生み出した年齢をすでにわたしは上回っているのだ。追いつけないまま大人になってしまう。こっちの台詞だ。
 彼と差が開いていく。彼が遠い存在になっていく。「わたしのなりたい人生」が、遠い存在になっていく。不器用なくせひとつの事に固執してしまう質だから、今創作じゃないことから離れることが出来なくて、絵描きに成る準備みたいなものを何一つできていない。それでわたしは、大人になったら、大人になったらきっと好きなだけ創作に使える時間ができるから、って自分を半分騙してここまで抑圧してきた。でも進学してからも忙しくて、就職してからも忙しくて、そしたらどうなるの?わたしの人生は、なりたかった人生は、居てほしかった人、会いたかった人、ほんものの自分は、どうなるの?将来のために今を犠牲にして、でもその連続で人生が果てたら。わたしは正真正銘のにせものに成り果ててしまう。どこかで軌道を修正するならば、ここまでして築いてきたもうひとつの軸が崩れる。どうすればいいんだろう。どうしてずっとずっとこうも苦しいんだろう。思い通りに生きられないんだろう。
 ただ貴方のようになりたかった。その人生に近づきたかった。それさえ自ら諦めさせられなければならないのだろうか。ただ口を開け、黙ったままなんて一生報われないよ、その言葉がずっとこころの端っこで痛みを発している。口を開きたいのだ、でも自己主張が苦手すぎたし、閉鎖的すぎたし、忙しすぎたのだ。ほんとうにこれからどうなるか分からない。ただ望んでいるのは、ここに朧灯のろとしてちゃんと戻ってきてちゃんと創作家として存在すること。だからわたしにもう少しだけモラトリアムをくれて欲しいのだ。もう少しだけ、貴方にはそのままでいてほしいのだ。遠くに行かないで欲しいのだ。

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