着飾る、着飾らない


最近の諸々。


大谷選手の結婚で、奥様もおふたりの様子もとってもお似合いで素敵。の意見に多く見られた、着飾ってない美人でよかった。着飾っているアナウンサーやインフルエンサーみたいな女じゃなくて良かった。
これに私はもやもやする側の人間で、別にその人が選んだ人であればなんでもいいのでは、と思う。

着飾ることなく美しい、これは本当に素敵なことでそう言われる人が生まれ持つ魅力であると思うし、純粋に羨ましくもある。私もやっぱり好印象を抱く。また、彼がそんな素敵な人と結ばれる、ということ自体はとても素敵でお似合いだと思う。(私は野球にそこまで詳しくないので一般常識程度のミーハーな発言しかできませんが)

まず、アナウンサー、インフルエンサーという大きなカテゴライズで一括りにする時点で個人と言うよりもその職業に持つ偏見や世間的なマイナスなイメージが働いているとは思うけれど、着飾る仕事をしている人、着飾る事が幸せに感じる人(よりも)そうじゃない人が選ばれるべき、選ばれて安心、というのはなんだか言語化できないもやもやがある。
それは多分私が着飾る側の立場だからではある。

着飾る人はこうだろう、着飾らない人はこうだろう、こう言った発言をする・しない人はおそらくこうだろう、と想像を働かせることやその分析を元にコミュニケーションを持とうとする事は良い事だけれど、着飾る人にもそれなりの理由があり、
もしかしたら着飾らない、とカテゴライズされてしまう側の人にもそれが自分にとっては嬉しくない言葉である可能性もある。

着飾っていていつも素敵だね、と
着飾っていない貴方のことが好き

は褒め言葉だと思うけれど、

着飾っていていつも素敵だね、着飾ってない人よりも努力されているから。
着飾っていない貴方が好き。着飾っている人は造りものであるから。はやはり褒められているのか、他者を貶したいがために利用されているのか、純粋に嬉しくない気持ちになるので良くないな、と私は思う。


"推し活"に関しても相手を褒める、相手のことが好きで応援している場合に、推しを褒めて周りを貶す言葉は推しを褒めているようで、上記と同じような状態になっているようで美しくないと思う。純粋に貴方が好き!という本当の気持ちだけではダメなのかな、と思う。


そういう事を考えているとSNSの使い方は難しいな、と思うけれど結局私の根はツイッタラーで、人の意見や発言をほーんそうなんやと聞くのが好きで、
SNS上で起こっている議論やバトルを見守っては私はどうかな、友達や彼はどんな意見なのかな、と私生活に話題として持ち込んでお酒を飲むのが好きで、

SNSは自由に好きに発言する場であるからこそSNSで色んな発言をしてもらう為のコンテンツが広告や映像として沢山作られていたりするので、
誹謗中傷等にならないように(これはとても重要)
自分の好きな発言を自由にするべきだなぁと思う。

などと考えていました。

ちなみにこの投稿は3月に書いて下書きに放っていました。noteの下書き、溜まりまくっているのでこの辺りで投下。













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