Pink Elephant(作:上篠翔)

 ピンクにうんざりしているのは、ピンクという音をもうどうやっても素直に聴くことができないからだ。
 ピンクは赤ちゃんを守るためにプログラミングされた女の子のための色。そうなんだ、と思ったのはぼくにとってピンクは何よりも庭の椿の色で、八重桜の色だったから。ピンクのサブカル史、というものがきっと書けるくらいには、ピンクはあらゆるものを背負いすぎた。ぼくだって高校生のころはピンクの差し色のパーカーばかり着ていたくらいだから黒色に次いで好きな色だったのに、今ではピンクが好き、という表明に付随するすべてに疲れてしまった。知れば知るほど世界に疲れる。金木犀の匂いを知る前に、金木犀の匂いが背負う寂しさや郷愁を知ってしまった。それは、滝に穿たれた石が決して元の形に戻ることはないような不可逆をぼくに突きつける。ピンクが撫子の花を指していただけだった頃にはもう戻れない。あなたがいた頃のぼくの形を忘れてしまったように。 
 Pink Elephantという言葉がある。麻薬とか飲酒とかでラリっている様子を、ピンクの象を見る、と表現しているのである。萩原朔太郎という詩人は、酒を飲む理由を聞かれて「真のメタフィジックの実在」を知覚するためと答えた。神様はピンクの象の形をしている。今からするのはぼくがピンクの象に出会い、その象を完膚なきまでに殺し、やがて忘れてしまうまでの物語だ。

 ピンクの象がはじめてぼくの前に現れたのは、倉庫みたいな四畳半に住んでいたときのことで、半分開いた押し入れの天井から鼻を覗かせていた。やあ、と象は言った。やあ、とぼくは返した。きみはかなしそうにみえます。象の声を聞くのは始めてだったけれど、どうやらひらがなで喋っているようであった。象といったら地層みたいな皮膚をして、ほとんど自然物であるような物静かさと含蓄を備えた生物である、ということしか知らなかったので、やたらに多弁で嘘みたいな色をしたその生き物を象だと判別できたのはその鼻のおかげだった。
 ――はながこんぷれっくすなんです
 象は確かにそう言った。何せひらがなで喋っているものだから、鼻なのか花なのかわかりづらかったのだけど、だいたい次のようなことを言っていたようだ。
 幼い頃から鼻が大きいのが嫌だった。パパもママもこんなに大きな鼻じゃなかったのに(ぞうにしては、といういみですよ、と象は慎重に付け加えた)、象だけは異常に大きい鼻をしていた。ぼくから見るとそうでもないように見えたのだけど、象にしてみればひどく深刻な問題であったらしい。嫌で嫌で仕方がなくて、マスクをつけて眠っていた。それは、眠っているうちに鼻が短くなるようにというお呪いだった。もちろんそんなことでは鼻は小さくならなくて、むしろ自分の鼻の大きさについて考える機会を増やしただけであった。
 そんなに切羽詰まっていたんだね、という相槌に答えて、象はええ、きりおとそうともかんがえていました、と言う。ここのあたりをみてください、このきずはみずからかみそりをあてたあとなんです。鼻を見ると、確かに躊躇い傷のようなものが走っていた。
 象はそれからさまざまな場所に現れた。一緒に水族館にも行ったし、植物園にも行った。熱帯動物園に行ったときは、なんだか寂しそうな目をしていた。象は頭がよくて、ときどきは荘子やキルケゴールの引用をした。象でもそうしたものを読むんだね、と皮肉っぽく言うと、ぞうだから、とかそういうへんけんはやめてください、と象は憤慨してピンクの皮膚をより濃いピンクにした。たまにその皮膚を撫でてあげ、象もまたぼくの頭を撫でてくれた。コンプレックスだったというその鼻を駆使して。それは傷を知っている人間のようなやさしさをもった力加減だった。雪の降った日の象は、とてもご機嫌だった。ゆきってたべられるんですね。鼻で器用にまとめた雪玉をぼくに放った。大きなかまくらを作って、その中で雪とウイスキーのカクテルを飲んだ。酔うと象はいっそう朗らかになって、楽しそうにはしゃいだ。
 結局のところ、ぼくは象のことを好きになりすぎたのだろうし、象もまたぼくに好意を寄せすぎたのだろう。ぼくは、視界に少しでもピンクが映るともう嫌になってしまっていた。ピンクはぼくに炎症を起こさせた。象にとっては自然な色だったのに、ぼくには作為的なものに見えてしまったのだ。愛や恋の耐えがたい作為の、そのものの色みたいだった。
 ぼくは象が好きだったから、これ以上嫌いになるのが嫌で、象を黒く塗ってしまった。悪意ではなかった、と今でも思う。布団で横になる象の鼻にスプレーを吹きかけたのだ。象はひどくびっくりして、黙ってぼくを見つめた。どうして、とは一言も言わなかった。代わりにぼくがそれを叫び続けた。どうして! どうして! どうして! どうして!
 それから象は二度とぼくの前には現れていない。ぼくも、ピンクの象の顔のことを忘れてしまった。ピンクだったこと、鼻が大きいことが悩みだと言っていたこと。その二つだけが象の記憶として残っている。だから、こうしてぼくがピンクの象の話をするのは、冒涜的なことなのだ。象のエピソードや容姿を聖堂に押し込めて、好き勝手に物語っているのだから。それでもあのピンクの象は一度だけ鳴った大きな音だったし、一回きりの光だった。
 ぼくはまた、ピンクを好きになれるだろうか。

 
死について話せば春は鷹揚な司祭の白さ、象のさみしさ


作:上篠翔
玲瓏所属。粘菌歌会主宰。二〇一八年、第二回石井僚一短歌賞受賞。二〇二一年、『エモーショナルきりん大全』(書肆侃侃房)刊行。インターネットをやっています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?