Scaramouche(作:上篠翔)

 ママのことを思い出すときぼくのこころに思い浮かぶのは軒先に太く垂れ下がった氷柱だとか春になるともぐら叩きみたいに生えてくるフキノトウだとかママの名前のついた桜だとか嫌な匂いのドクダミで、そんなことを考えていた冬にジジは死んだ。詳しいことは知らないけど医療ミスらしくて、でもジジと離れてもう数年経っていたぼくには憎むべきものといったら何もなく、ただ涅槃図の横で寝そべっている冷たいジジに触るのが怖くてにやにや笑っているだけだった。はじめて本物を見た涅槃図は、美術館で見るようなそれとは当たり前に違っていて、なんというか、あまりに布っぽかった。曹洞宗のお坊さんが木魚を叩いているあいだ、ぼくはずっとその涅槃図を眺めていた。
 ぼくはジジが死んだ二年前に失職をして、それからひたすら天井を眺めて過ごしてきた。なってみると大したことではないのだけれど、田舎では偉い職業のひとつとしてあげられるような職種であったので、ぼくの就職はまるで事件みたいになっていた。そこから二年をかけて、螺旋階段をゆっくり降っていくように、ぼくは駄目になってしまった。薬や性愛で絶えることのないノイズミュージックを作っていたぼくから、丸々と性愛だけが抜け落ちて、ただの薬漬けになってしまったのである。もちろんそんな様をママやパパやジジに伝えられるはずもなく、忙しいふりをして連絡することもなくなっていった。漫画で見た、出勤したふりをして公園へ行き、夕暮れになってから帰るサラリーマン。あれそのものになっていた。運転免許の更新のために地元に帰ったときも、家へは連絡することもなく歩いて教習所まで向かい、そのまま大阪まで蜻蛉返りをした。急に降り出した雨を防ぐ傘もなく、濡れた髪の毛の張り付くのに任せて歩いた国道には、どこからともなく栗の花の匂いが漂っていた。
 ジジの形見のひとつはキャスターのタール一ミリ、木蓮のように白いボックスタイプの煙草であり、ぼくはそれをもちかえる。ちくま文庫や岩波文庫が詰め込まれたスライドタイプの本棚の上にそれを置く。ジジの火葬の前日、ぼくは螺旋を見た。実家の居間で睡眠薬を飲み、目を瞑ると、いつもとは違う景色が見えたのだった。青や緑や黄色がぐるぐると、ゴッホの絵画のようにねじれて、いくつものパターンを描き出した。それは螺旋であり、原色の花畑であった。その日から、目を瞑るといつでもその螺旋が浮かんでくるようになった。そのたびに、ブラックニッカの一八○ミリリットルを追加で流し込み、無理やり眠りに落ちていた。まだ封の開けられていなかった煙草に見下ろされたぼくは、勃起をしてしまった。それは性的な反応ではなかったはずなのだけど、とにかくそれを鎮めるように自慰行為をし、精液とともに煙草をごみ箱に投げ込んだ。それからは螺旋は見ていない。ぼくの脳みそは丸洗いされてしまったみたいだった。
 もうこんな話はやめよう。ママについて、ぼくは語る言葉をもたない。少なくとも今のところは。だから、二冊の本に書かれた二つの、実際のところはほとんどひとつの、といってもいいようなエピソードを紹介することにする。
 ひとつはJ・D・サリンジャーの『フラニーとズーイ』の「ズーイ」冒頭、彼のしわしわの母親がしつこく風呂場のズーイに話しかけるシーン。思考する彼は何度も母親に出ていくことを促す。しかし、母親は一向に出ていこうとはしない。
 もうひとつはR・D・レインの自伝『レインわが半生』に書かれた、これもまた母親に関する記憶。幼いレインのシャワーは、いつも母親に覗かれていた。第二次性徴を迎え体に変化が訪れたレインは、はじめて母親を拒む。すると彼の母親は発狂し、なんとしてでも風呂場に入ろうと暴力的に、衝動的に振る舞うようになる。
 この二つのエピソードは、果たしてママについての文章なのか、それともぼくについての文章なのか、ぼくには判断ができない。同じようなことが起こった記憶もあるのだけど、それはぼくの心象がママという形象に結びついたことによる幻想なのかもしれない。とにかくぼくは、ひとりになれる部屋を欲していた。窓を開ければむせ返るような藤の匂いに襲われるような部屋でも、何度も人が立ち入って、何度も人が死んだ踏切の警告音が飛び込んでくるような部屋でも、もちろん音もなくママやパパやジジがぼくを覗きにくるような部屋でもなく。
 ババの話をしていなかった。ババとは言葉を交わすことはできなくなっていた。完璧に清潔になった病室で、ババはいつも眠っていた。太陽の光で動くダンシングフラワーが踊っていた。生きているだけで偉い、なんてとてもいえないような光景で、ぼくはそこへ行くといつも俯いた。ババのうたう歌が好きだった。その歌を、ぼくは二度と聞くことはできなかった。

 こんな空想はどうだろう。誰からも覗かれない棺。死に顔を、馬鹿みたいな小窓から窃視されることも、酸味のある肉を焼いたような匂いの充満する部屋で、太かったり細かったりする白骨をくだらない箸で摘まれることもない部屋。
 一度世界からなくなった者が、その孤独を完璧に守ることのできるような部屋。あらゆる光を吸収するように、真っ黒く塗られた棺。そこには彼の生涯を一行にまとめた詩が、墓碑銘として彫られている。その言葉ごと地中に埋められた棺の、その盛り土の上に、百年後か千年後かはわからないけれど一匹の蜉蝣がやってくる。風にその薄い翅を揺らし、まるで歌のように空気の中で震える。それから飛び立ち、二度と帰ってはこなかった。

 たとえば、そこは到達不能極。閑かな夏の閑かに夏の


作:上篠翔
玲瓏所属。粘菌歌会主宰。二〇一八年、第二回石井僚一短歌賞受賞。二〇二一年、『エモーショナルきりん大全』(書肆侃侃房)刊行。インターネットをやっています。

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