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眠くなるまでの雑多な思考


高校の頃の女同級生からのDMにはもう3週間も返信していない。大学の卒論に必要だといって私に協力を求め私の友達にアンケートを配布させようとしてくるが、はっきり言って面倒だ。最初こそ部分的に協力していたものの、ノルマの大部分を私に委託してくるようになってから返信する手が止まった。誰の卒論なのだ。貴様だ。私ではない。私だって忙しいのだ。タスクが既に飽和状態にある。すっかり、返信が滞ってしまった。

このようないわば「私の人脈を利用しようとする」人、他にも居た。とある花火大会の主催人物であるが、学生ボランティアが足りない、もっと欲しいと言ってこちらをアイデアを求めてきた事があった。私は例えばシャトルバスのダイヤ案を具体的に提示して、これなら学生が集まりやすい、という案を出したが、向こうの意図はそれではなかったようだ。結局アイデアを求めたにも関わらず私のアイデアを無下にし、「友達に声かけて人集めてくれない?」という話になってしまった。全く呆れた。人の人脈を、人の友達をなんだと思っているのか。私は協力をせず、今やこの人物との関わりは凍結させた。

人の人脈を、人の友達を、利用するなよ。
自分でやれ。



…優しくないね。自分。






最近すっかり、涙脆くなったと思う。
何を見ても、何を聴いても、何を考えても泣きそうになる。一部普通に泣く。
どうしたことやら。


最近は大学が忙しい。課題が、レポートが、一日が、忙しい。興味も無いことに頭を使うのも、疲労が溜まる。勉学に向かうならば仕方のないことであるが、嫌なものは嫌である。ほどほどにこなしている。

最近大切な人ができた。
浮かれた発言を避ける為言及はここまでである。


最近よく振りかざす思考がある。「死にはしない」である。大学の課題やバイトなど、日々振ってくるタスクに対して、使用する。「この程度手を抜いても死にはしない」「この程度の失敗では死にはしない」。つまり程々に手を抜きながら、大真面目に取り組むのではなく効率を求めながら、程よくこなすことが多い。1回くらい欠席したって、1回くらいお金を使いすぎたって、1回くらい問題が解けなくたって、死にはしない。興味のないことに全力を注ぐのは勿体無い、いや、その気が起きない。程よく、「これくらいなら大丈夫」というラインを見つけながらテキトーに生きている。"適当"に。死にはしない。


「死にはしない」というフレーズで思い出した。
我々は希死観念を持つ人に対し、けっこう簡単に、死ぬ事を止めたがる。ビルの屋上で自殺しようとする人を止めるレスキュー隊のビデオ、他人の自殺を止めた高校生に対して自治体から感謝状が送られたニュース、さまざまなものを目にする。それが公共事業として正しいかどうかという議論はしない(正しいに決まってる、正しいと言うしかない)。ただ我々の、一般の人間の感情として、なぜ自殺を止めることを自然に志望し、実際に自殺を止める事に感動を覚えるのだろうかという話である。「"女子高生の自殺"と"居酒屋で酒飲むおっさん"」は同じだという、とても不完全な論を以前考えたことがある。どちらも現実逃避という目的は同じであって、その先の行動が少し違うだけなんだと、そういう論である。女子高生の方が、選択肢が少ない。お酒も、タバコも、パチンコも、自由に使えるお金の額も、おっさんとは違くて制限が多い。1番手っ取り早いのが自殺である。でも、酔っ払いおじさんとの差なんてそれだけなのである。制限が多いから、自然と死の選択が為される確率は高い。ならば「お酒は20歳から」という制限にも少し突っかかりたくなるが…
とにかく、「自殺する女子高生」が特別視されるだけで、本質的には「酔っ払いおじさん」と変わらないのではないか、なんて考える。つまり、特別視する必要がないのではないかということ。ここで言う「酔っ払いおじさん」とは、「毎日のようにそこら辺に居る人」と変換してよい。自殺する女子高生を特別視する必要なんかない。もっと言えば、死にたがりの人、希死観念を持つ人を特別視する必要なんかないのではないかと思う。でも我々は面白いことに、死にたがりの人間を前にすると、心配しだし、優しい声をかけ、死を止める方向に持っていこうとする。不思議なことだと思う。これは不思議なことである〜という着地をしたいわけではない。無責任な事を言って止めるべきではないと考えている。死を選ぶ、確かに人によっては、というか多くの人とってはハードルの高い事である。しかしその高いハードルを乗り越えたくなるほど、高いハードルを飛び越えたくなるほど、人生に深く強く残酷に追いやられているんだと考えてみる。そこまで考慮して、死を止める事ができるのだろうか。その人の逃げ道を無くすなんて大層なこと、簡単にしていいものなのか。「死んじゃダメ!」なんて、その人の救いを真っ向から否定する言葉をかける勇気を我々は果たして持ち合わせているのだろうか。"我々"という広すぎる主語を使ってしまったので反省するが、少なくとも"私"は持ち合わせていない。

死にたがりの人、私の周りにも複数居る。
必ず私は「死にたくなったら死ねばいい」的な、そんな感じの言葉をかけている。希死観念を否定しない。上の文章に基づけば「死ねばいい」という言葉は、私にはずいぶん合理的な言葉に思えるが、面白いことに、とても面白いことに、酷く冷酷な言葉に見える。
























 






心の底では、「死んで欲しくない」って

思ってるからだろうね。



…優しくないね。自分。



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