散歩論136 無能の証明
それは簡単に言うと有能だと思い込むことだと思います。
理解する
と
できる
この二つが違うことは容易にわかると思います。
けれど僕も含めてそれをごっちゃにしてしまいがちなのも確かなのかな、と。
人によって物事の理解レベルっていうのが様々であるのと同様に、できるレベルっていうのも様々だと思います。
で、理解ってなんなのかって言うと。
この理解をする対象っていうのは抽象的な概念とかだと思います。
なので、理解とは物事に対する抽象的な側面を知るっていうことなのかな。と。
だからそれをいかに自分の具体化された世界に落とし込めるか。
それが重要なんだって思います。
そして、その具体っていうのは抽象から分岐していくもので
すごく数が多いんですよね。
だから具体的なものが幾つできようが、抽象的なものに対してはできるなんて言えないのではないかって思うんです。
そして仮に例えば1万個ある具体のうち、100個できて、抽象をできるようになったとするならば
それがその人の限界値なのかな、と。
つまり、其の瞬間その世界においてそれ以上はない、無能だということになると思います。
ごくごく簡単な例を出すと
英語を理解している
と
英語ができる
英語を理解するのはある意味で難しく、ある意味で簡単と言えます。
文法、単語の背景、歴史とか。。。
そしてそれを理解して現実世界で話したり、聞いたり、書いたりするわけです。
じゃあ話したり聞いたり書けたりしたら英語ができると言えるのか?
それはその人のできるレベルによりけりなんだとは思いますが、僕は意志の疎通が難なくこなせて初めてできる、と言えるのかなと。
ここで問題なのができるレベルが人それぞれだ、ということです。
例えば
英語できる?と聞かれた時。
聞けて、話せる人は恐らくできるって答えるのかもしれません。
でも聞いた人は聞けて、話せて、書ける意味でできる?を使っているのかもしれない。
だとした時に、できるって答えた後にじゃあこの日本語英訳して文章に起こしておいてって言われたら困りますよね。笑
まぁ、それをできるようにしちゃうって言うのが早い話なんですが。
この例だとそれは簡単かもですね。
話を戻して。
だから結局人にできるっていう時はこれとこれは出来る、みたいに
自分のレベル感を把握しておく必要があるのかな、と。
ただただできる、というのはある意味脳死で。
無能の証明にしか僕は感じないんですよね。。。
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