言葉にできないことについて

「普通」とか「幸せ」とか。普遍的な言葉で語られることの様々。自分をわかってもらうため、そして誰かをわかるため、言葉はとても重要である。
でも、あなたの「普通」とわたしの「普通」は一緒だろうか。あなたが目指す「幸せ」とわたしの「幸せ」は同じレベルだろうか。ちょっと聞くけど、レベル1ってどのくらい?

普遍的な意味はわかるとしても、本質的な意味は違うことがある。そしてそれはしばしば問題になり、「こうだと思っていたのに」「だってこう言ったじゃないか」という論争が起きる。言葉にしたって100%は伝わっているはずなんてないのに。20数年、違う場所で別々に生きてきた人が、全く同じ意味を持つ言語を使っているなんて、奇跡じゃあるまいし。
感情を心から取り出して見せることができないかわりに、言葉というツールを使ってわたしたちは生きているのだ。

でも、まず言葉にしなければ伝わらない。そんなのわかっている。言葉にしてアウトプットしなければ、わたしのこの感情だってないことになっていく。誰にも伝わらず、誰の心にも残らず、わたしのなかでも薄れて、いつしか消えていく。
だからわたしはこうして白い画面に文字を打ち込んで、世の中に歌がたくさん生まれ、映画に音がついたのである。

でも、言葉にできないことも、言葉にならないことも、全部さ。ぎゅっと抱きしめておくことができないんだろうか。
なんだか、うまく言葉にできないのだけれど、この感情をずっとあるものにしておくことはできないのだろうか。

わたしの心を冷凍して、少しずつ舐めて暮らすことはできないのだろうか。いつしか言葉になるそのときまで、持っておくことはできないのだろうか。

わたしの「幸せ」は、まだ言葉にできない。輪郭はあるけれど、見えているけれど、まだ「幸せ」なんて普遍的で曖昧な言葉で語ることができない。この感情に名前をつけて、そしてあなたに伝えることができるまで、わたしはこの感情をぎゅっと抱きしめておくことにした。

言葉が大切だと知っているからこそ、言葉にできないことを抱きしめて生きていたい。

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