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人を信じるとかいう無理ゲー

今年もよろしくお願いします。全くおめでたくない日が続いてますが。粛々と自分ができることをしてます。

表題の件に関しまして、年明けてからずっと考えているんだけど、なかなかまとまらなくて書いたり消したりを繰り返している。このノートも2週前くらいから書いてるんだけど全く書き終わらない。
が、もうこのままだと終わらないから一旦そのまま出すことにした。所々気持ち悪い文があるけど、脳にしこりとして残り続けることのうざさが勝っている。
この先の文章は同じ日に書いてなくて、ちょろちょろ気が向いた時に書いてる。という但し書きです。以下本文です。ご査収のほど宜しくお願い致します。



人に期待する、人を信じる。尊くもあり、愚かな行為でもあると思う。

人は自分の思った通りには動かないし、期待したことがなされないことのほうが多い。
この人とずっと働きたいとか。この人とずっといたい。この人の人間性を信じてみよう。等々の感情をこれまで何度も感じていたが、そんな願いが現在進行系で叶っていることなんてほとんどない。大抵の人が自分の都合でどこか遠くに行ってしまうか、信じた方向とは別の方向に進んでしまう。自分の責任ももちろんあると思うけど、ほとんどのケースが自分のコントロール外。これは主観の話だけど、誰かから見た自分もきっとそう見えていると思う。

そもそも人を自分の期待通りにコントロールしたいとも思っていないし、できるとも思ってない。自分すらちゃんと理解できないのに、他人のことを理解するなんて無理難題だと思う。それはパートナーだろうが、中高からつるんでいる友達だろうが、母親だろうが例外はない。本当は何考えているかなんて誰もわかんない。

と考えていくと、どんどん自分のために生きるように脳みそがシフトしていく。というか、人に期待するのではなくて、信じられるのは自分だけ、みたいな思想になる。自分のために仕事をするし、いる場所も付き合う人も、どんどん「自分のために」という理由で選ぶようになる。だけど、その選択にも余裕で限界がある。そんな思想は虚しさと隣り合わせ。そう思わない人もいると思うけど。

信じるという行為には拠り所的な効果もあると思っている。だけどそもそも自分のことをそこまで信じていないので、自分のためにやっているんだという行動は自分にとって拠り所にならない。結果、不安定になる。言葉は強いけどどこかで破綻する。

何が最適解なのか、このバランス感の答えを探して、人生の中で揺られている。

いままでなんで人を信じていたのか。きっと自分だけでは頼りないから拠り所として活用させてもらっていたんだろうなとここで気づく。自分だけでは立っていられないから、人に寄りかからせてもらいながら歩いていたんだろう。なんとも利己的な話。

信じるが寄りかかるになると、自分がしんどくなる。かといって、自分で歩き続けてと言われると、どっかで立てなくなるし、歩みを止めざるを得なくなるときがくる。この絶妙で繊細な均衡点を模索していかないと行けないんだろうなと思う。

とはいえこれが難しい。信じて未来に期待とかしてしまうと、もう寄りかかりまくってしまう。だから信じるけど期待はしていない、位のバランス感がちょうどいいのかもしれない。むず過ぎる。そんなむずいことさせられるなら、杉の木とかに生まれて花粉を撒き散らして生きていたかった。

気が狂いだしそうな夜は人知れず
1人で昇華 要はloser
ナメられたら負け ナメたら負け
人に期待しない 下手な芝居

唾奇の街から街のリリック。しんどいときに寄りかからないで1人で昇華する姿が想像できるけど、彼が仲間といないかと聞かれるとそんなことはないと思う。寄りかかりたくなる時こそ、寄りかかってはいけないということだろうか。

人という漢字の成り立ちへの違和感を感じている。人と人とが支え合って〜、というのが彼の論調だけど、支え合うだとまだ言葉不足なのではないかと思う。
きっと、その人と人は、寄りかかるでも離れるでもなく、絶妙なバランス感で均衡を保っているんだと思う。それを支え合うと抽象化している気がしていて、、と思っている。あと支えてるにしては主従関係を感じ取ってしまうフォルムをしてる感じなのも気に食わない。

寄りかかるという言葉が抽象的だから、じゃあどうやって人と向き合う?と言われると困ってしまう。この寄りかかりをもっと考えないといけない。

とか思っていますが、結局難しく考えすぎてよくわかんないな〜という結論に達した。

この間、このことを話してる時に、芦田愛菜の話になった。芦田愛菜が、裏切られたのではなくて知らない面があっただけ、というようなニュアンスの話をしてたという話。まぁそうだなと思うけど、じゃあ自分がそんなにスパッと割り切れるかというとそんな自信はない。それなりに落ち込むと思う。

だから、仮に期待を裏切られることがあっても、落ち込みつつ、最終的にそれでもいいか〜と思えるように人に向き合い続けられればなと思う。信じた自分が悪かったとか、相手が悪いとかそういう話じゃなくて、それも込みで良かったかもね〜と思えるような結論へ向かっていたい。
期待したり信じることは愚かな側面もあるかもしれないし、自分の願いに沿わないこともあるかも知れないけど、まぁそれでも信じたいしさ〜。本当に大事なところの舵取りは自分で責任持ちながら、適度に期待をしたり信じたりしながら生きていきたいなと思っている。

こんなこと、思うのは簡単なんですけどね。

前です。

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