心臓と花(新)



「生きろ。」と云ったのは誰だったのだろう。自分にとってそれは特別な表現だった気がする。最後に笑ったのも、それが自分の表現の中で一番美しかったからだ。おかしくなったわけでも、開き直ったわけでもない。ただ、全てを尽くした感覚が自分を包み込み、枯れていくような感じだった。振り絞った言葉は届かず、嘘のように美しく広まる。その問に対しても、僕は答えを出した。美しさを追い求めて。

朝の忙しい電車に乗っている十九歳の僕。向かう先は大学だ。最近の思考を整理しようと考えにふける。まず言っておくが、芸術大学には色んな人がいる。自分なんかよりも優れた人間は幾らでもいる。自分には無い視点、自分では描けない作品。美大という範囲では、それが普通だと思っている。

最近よく見かけるのはハラスメントの話題だ。世の中の凡人が力をつけて暴走するのは危険だと痛感している。被害者と加害者が存在し、その対立を裁判でしか止められないのだろうか。裁判すら操れる権利を持つ人間がいるなら、それはそれで滑稽だ。オッペンハイマーのような物理学者が原子爆弾を創造したことを罪に問われるとしたら、誰が実際に責任を取るべきなのだろうか。美大生なら単純に創造物として捉えるかもしれないが、倫理もやってはならないことも理解している。自分ならどうするだろうか。追い求めて、それと心中する覚悟で生きられるだろうか。

心中と言えば、最近ネットで「心中少女」と題した絵を見た。それに妙に惹かれたのは事実だ。その翌日、その絵は話題になり、美大の中でも噂になった。作者はイジマという名前だけで正体は不明だったが、僕はその絵を携帯に保存した。その絵の模写を試みたが、不可能に近かった。美大生の自分でも難解な作品だった。それでも模写をしてみて、完成したものに「心中少女re」とだけ書いて、イジマに返信した。

大学に着くまでの間に携帯を見ると、SNSの通知欄にイジマの名前があった。イジマは僕の模写を引用し、評価してくれた。その引用は数百万も観覧され、一瞬でインターネット上の話題となった。僕のアカウント名は摂取零°で、トレンドにイジマの名前が並んだ。そこには天才絵師や心中少女、17歳の女性などの詳細がバレていて、イジマの正体が少しずつ明らかになった。

美大生でもないのに描ける人がいるのだと驚き、目で追ってしまうのは自然な感覚だった。創造物を追い求める自分にとって、それは普通のことだった。

ーー
孤独を癒せるのかと問われたことが有った。
御前にあの人間の孤独を癒せるのかという意味だったと思う。その言葉を発した人はもうこの世にはいなくて、当時の僕には、鮮烈に残った言葉だった。自分に、そんな力は無い。それなのにどうして、その人はそんなことを言ったのだろうか。ふと意識を戻すと、自分の部屋にいた。写真立てに視線を配る。笑う女性と目が合うと、思い出すのは鮮明な赤色。ヴィヴィッドな少女、
「心中少女。」
「御前に孤独が癒せるのか。」
僕自身が、其れを諦めたなら、あとは何が残るのか。居場所なんて最初からここにしかない。だから、しがみついた。諦めたら、生きられないと。その問いかけで、十分な程に、伝えていたのは、その鮮明な赤色じゃないか。
「生きろ。御前は、生きろ。」
私が居なくなっても、世界は回る。私は誰かの一部にはなりたくは無いと、謙遜したんじゃない。最初から、世界とも、人とも離れ離れだ。でも、御前は違う。だから、生きろ。

御前に孤独は癒せたのか。

ーー
「孤独」は純粋さを汚す為の一つの概念である。でも彼女は、言葉通りの人だ。当時の僕は、小学生かそこらで、知識も乏しく、その人間を、絵を書く人間、そう認識していた。彼女は十九歳。常に、絵を描いていた。青いカーテンによく合う白い窓の部屋の中で、いつも絵を描いてた。吹き抜ける階段を上がると彼女の部屋に辿り着く。隣にいつもいたのは村上と呼ばれる有名な画家だった。僕の家には、他の家庭には無いもの、その概念も個人的な「感覚」だけれど、普通の人なら必要ない物や、経験や、道具や、知識も沢山あった。どれも、生きてく上で「選択」を、すると、到底無くてもいい様な「付属物」だ。でも他者が、趣味の範囲で生きられる様に、完結するような世界では、無かった。「付属物」という言葉は要するに主たる物の機能を高める為にある言葉なんだけど、その付属物が、主になった様な生活だったのだ。女性の名前は葵と呼ばれてる。誰かが云ったのだ。その生活が基礎となるなら、全てを捨てろと。それは画家の村上先生も圧迫のように彼女に伝えた。
「言葉、生活、総てを捨てる様な覚悟が無ければ生きられない。」当時の僕にはその感覚が解らずに、不透明のまま飲み込んでしまった節がある。それでもその言葉に臆病な彼女は、意味を頷いて、理解していた。
「この世にないような物を創ると言うのは、最後まで、完成させるということだ。」
応えるように、葵と呼ばれる彼女は、必死で、絵を描いていた。寝る間も惜しんで、絵を描き続けた。今のように気軽にSNSが出来る時代でも無かった。晒せる場所なんて、無かった。評価は、先生か、家族だった。作品は沢山産まれて、当時の僕の住まいの一軒家に飾られて、両親は、それを
「綺麗、綺麗だね。」と心地よく受け止めたのだ。村上先生以外は。
ーー
「葵、また描いたの。」と幼かった手で僕は絵を触ろうとする。
「触ったら駄目だよ。」と葵は、優しく笑う。
「それは、なんの絵。」
「○○○○○。」記憶だけが曖昧で、思い出せないのだ。でも彼女は最後に云った。僕に大して「御前は生きろ。」と。それが問われる数時間前にも、彼女は生きていた。何の変哲もない「孤独」の姿のままで、でも何かが違ったのは確かだ。普段とは違う。「決意」が入った。僕はそれに気が付くことも無く、愛想良く、村上先生に絵を教わった。画家は怒って、椅子を蹴った。
「御前には価値もセンスもない。」と飲み込んだ言葉に、息を吐いて、葵を思い浮かべた。この様な先生と対面してたのだと、はっきりと、葵の横顔や、絵の感覚を思い浮かべた。絵は幼い僕からしたら、どれも、素晴らしくて、そして儚くて、美しかった。幼さゆえの無知で、そう思っただけだけど。椅子の音で、葵は、部屋から出て、階段から下を眺めた。やり取りを伺ってるのに気がついた。視線を向けると、葵は部屋に戻っていた。笑ってたような気がするけれど。
葵について説明しよう。葵は、病気がちだった。年の離れた、姉だった。僕が生まれてから、葵は、家族とか、僕自身とかに、距離を置くようになった。その代わりと呼べる、絵を、憶えた。絵を友達にしていた。僕の家庭には、普通とは呼ばない人が沢山来たし、その分、普通とは違う感性や感覚もあった。だからあの男が、教師としてやって来たのだ。ムラカミと呼ばれるアーティストは、既に名前も有名だ。絵の取引の価値なら、破格の価値がつく。要するに、葵は、それを目指す様に教育されていた。でも過度な教育は、本当に総てを奪った。自由や時間や、生きる覚悟も、無くなったら生きられない。葵の臆病な神経は、そこから産まれた様なものだと思っていた。
ーー
僕はまた意識を取り戻した。部屋の中の写真立てに飾れる同い年の少女を眺めていた。



「生きろ。」と伝えたのは、その子に自分の代わりになれと言いたかったからだろうか。違う。ただ孤独に蝕まれていただけだ。多分、それも違う。ただそこに在ったのは、「生きる」という意思だけだった。

私は何に対しても拒む勇気がなかった。何をしても美しくなれず、煩わしいだけだった。負け続けて、価値のない自分が神様に問うた。すると、また価値がついた。一千万円ほどだろうか。それでも、なぜ最後に問うたのか。

「お前にあの人間の孤独が癒せるのか。」

淘汰されてゆくことが怖かった。それなのに、なぜ最後まで他人のことばかり考えたのだろう。自分のことではなくて。それを言った途端、体良く名前のついた「孤独」は、私のことではなく、誰かのことになってしまうのに。最後に「あの子」にすがって、「自分の代わりになれ」なんて伝えたら、生きる理由になってくれるかなんて、分かることでもないのに。

私は、私のままで、死んでゆくんだ。生きることだって自由だ。村上先生ならまた絵を売りに出して、一千万円の価値がついた。売れっ子のアーティストだ。でもあの先生は厳しい。価値観を押し付けてくる。私は、応えるだけで「付属物」になれた気がして、「役割」になれる気がして。でも最近、限界だと感じている。それでも良ければと頭を下げたのは、両親だ。両親は「感性」という言葉に踊らされている。その「感性」は「普通」だと駄目みたいだ。だから、生きる術を与えようとした。その期待に応えるように私は描いた。先生がやってくるまでは自己満足に生きて行けた。でもそこには「価値」がついた。「価値」がついたから、私の「術」になった。与えられた環境に文句を言わずに、生きたのかと問われるなら、生きたと応えるしかない。術だから。私は「孤独」で、心配した親が絵を与えて、それと共に死にゆく。綺麗な話でしょう。何も知らないのであれば。

ねぇ、「生きろ。」と伝えたのは決して、自分の代わりになってと伝えたわけじゃないよ。最後まで自分のことを考えられなかったから、悪いんだ。頸動脈を切るなんて真似をして、都合よく部屋に来たあの子に。

「自分の真似をして。」と代わりに生きてほしかったのなら、「逃げる」ことを誤魔化せたのかもしれない。だけど、「自分」から逃れる手段なんて、知られたくもなかったからね。

ーー
心臓は美しいという概念すら、誰かに教わったことだと知るのだ。
「心臓は美しいから。」
「村上先生、なぜ、心臓なのでしょうか。」
「人間の生命器具そのものだからね。」と絶え間ない時間を過ごして、「彼」という存在を「認識」した。「彼」は、村上先生。「先生」だ。大学の教授、というより、個人的なレッスン。売れっ子アーティストの「覆面の弟子」と言えば、僕自身の存在を「表現」が出来るのだろうか。心臓は美しい、美しい。何時からか、心臓という普遍的な命をテーマにしている臓器に魅力を感じるようになった。孤独の姿のまま、僕に意志を最後に伝えた。「葵」が最後に描いた作品は、心臓に花が開いていたような気がする。やっぱり「僕」にはオリジナリティなんて「概念」は無い。模造品や、誰かの真似した意図。レプリカだ。僕は、葵のレプリカ、村上先生のレプリカ。でも今ある唯一の「事実」は、覆面の弟子の美大生ってだけだ。ふと大学の講義中に、携帯をみた。@Izimaから返信が来ていた。イジマと呼ばれる人間は、その後からもかなり長い間と言ってもいまもだけど、話題の中に潜んでいて、正体が掴めてきたところだ。僕はそのネットに画かれた「情報」だけを、勝手に知って、イジマと呼ばれる人物と接している。@Izima「青。」と通知が来た。画面を覗くと、青い水彩画で、天使の羽根が生えた人間が、「白い自販機」の上に座っている。
返信をした。

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「天使じゃないの。」とだけ、僕は、講義に戻った。その天使じゃないのという返信だけで、騒ぎたいだけの「現在(いま)」世間の人達は、観覧数を増やして行った。帰り際に、携帯を見ると、イジマは「人間。」とだけ返して来た。イジマと言えば、イジマらしかった。独創的だ。「天使」を描くのではなくて、羽の生えた「人間」なのだ。創造性だけを読み取れば、「普遍的」かもしれないが、絵を描くのだけは、誰でも出来る事では無い。青とだけの返信したその絵にはとても天使の羽が描かれて、白い自販機で、背景なら青色が点々として、斑で、「独創的」なのだから。イジマは何かを呟いていた。「青は特別な色だ。」青は特別な色。「解る気がする。」と独り言を呟いた。イジマにSNS上で、聞いてみることにした。心臓って美しいと思うかを。数分後に「普遍的。」とだけ描かれた文字を読んだ。
ーー僕はそれまで、心臓に魅力を感じていなかったのだろう。僕の前に「題材」が現れるまでは。

青が特別な色だと感じるのは、傍に「青。」が在ったからなのだろう。「青」は私のことを理解してくれる唯一の明白な事実だった。青は、弱くても、事実を知っている。本質的に捉えることの出来る唯一の「人間」だった。私はSNSに言葉を載せた。
“貴方が青く居るまでは、針は逆側に進む。それでも貴方は私を拒む。何時か言ったでしょう。間違うことで、解り合えることも、青を拭ってしまえば、総てが台無しになってしまうこだと、それでもあなたは「作品」で、誰かの「芸術」“
青に応えることが出来ることだけが、私たちの「特権」だと。

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