20回目の春

指を切った。水で洗い流した。なのに、血が出続けてる。思ったより深い傷だったのか、滴る血を見ながら、ぼうっと「いつ死んでもいい」と思った。
ただ、死、というものについてはなんとなく霧が晴れない富士山を見つめるときに感じるような、何とも言えない不思議な感覚を持っているのも事実なのだ。1週間前に大切な友人であり、人生の先輩であるひとの投稿を見た。「死ぬ勇気が無いから生きてる」だなんてつぶやき。普段は馬鹿なふりをして、弱さを一切見せないあなたが言う台詞だからこそそのひと言がずっと脳裏にこびりついてどれだけ洗い流しても落ちてくれない。
野暮でしかないから、こんなことは生きてるうちに絶対に人に聞かないけど、仮に私が死んだとして、(あの世)に魂がわたるまでの間、取り残された家族や友人の姿を見れるとしたら、どれだけの人が私のことを思い出して泣いてくれるのだろう。私がいつか恋焦がれていたあの人は泣いてくれるのだろうか。憎しみをぶつけ合うように生きた父親は私がいなくなって清々するのかな。何度も同じ音楽とともに踊り明かした友人たちは。
たとえ話をした時、無人島に持っていくなら何?の次の話題になるであろう、「明日世界が終わるなら?」そんな時に私と時間を過ごしたいなんて最高にクレイジーだ。(私はあなたと時間を過ごしたい、なんてキザな台詞、人生に一度は言われてみたくないわけでも無いけど)
こんなふうに考える時、わたしの頭のなかでは愛おしい人たちの綻んだ表情がスライドショーのように次の人へ、また次の人へ、と止めどなく流れつづけているから、私の「いつ死んでもいい」は決して諦めだけで構成されているわけではなく、大部分が心置きなく人生を楽しめているよという無意識下の、深層心理の、無抵抗のこころの素直さからくるものだろうと思う。

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