聖悠紀先生について

昨年、聖悠紀先生が亡くなったことを知った。

すでに 数十年前から漫画事体をほぼ読まなくなってしまっており
少年KING以降の聖悠紀作品は知らない

ところがそれ以前の聖悠紀作品は、かなり持っているというか未だ持っている。ということは引っ越しを、その間数回繰り返しているので、その度に
聖悠紀作品は私とともに旅をしたことになる。
作画グループの頃の作品から、レアな特集本、アニメ雑誌に連載していた「黄金の戦士」や「スカイホークダンディ」
かなりレアなものでは「ハムレット」なども、私と旅をした。
少年KINGは処分してしまったが、旧家の自室に広げられた本をみて、父親が「キチガイ」と言った事件は未だ記憶に残っている。

先日、オタクの帝王と言われる方が、御厨さと美さんとともにYouTubeで取り上げていたさい最重要な作品「超人ロック」には一切触れず、
「ファルコン50」や アニメ作品のキャラクターデザインをしていたことを例にあげて「清潔感のある線」と言っていたことが印象的だった。

そう、清潔感のある線なんだよね。その表現は的をえている。

作画グループの合作作品の中で、聖悠紀先生の絵が飛び抜けていて表現がもう全然レベルが違うのに目を見張ったことがある。

それでも、少年キング以降はあまりメジャー紙ではないところで連載をしていたから、苦労も多かったのだろうか。
KINGで宇宙船を全部なくす、みたいなシリーズ(いまで言えば、環境のためにガソリン車や ガスコンロを全廃するみたいな思想を予言しているような作品)くらいから 受験期も重なって読まなくなった。

冬の惑星というシリーズの中で 亡くなった人物を合成したCG動画で「生きているかのように」演出し 時間稼ぎをするシーンがあって、今ツィッターでディープフェイク画像を見る度思い出す。予言的な作品。(だって、今から40年くらい前でその頃はまだワープロもDOSもまだまだ実用的に普及していなかった時代ですよ)

今思うと、超人ロックは、超能力者が自分で身体を再生し、1000年を生き続ける姿で
輪廻転生しつづける魂の姿 という世界観なのかもしれない。

だれもが、特別な存在として捉える「ロック」は
実は 私たち 一人一人の姿なんだとしたら


そんな風なことが、魂レベルではわかっていた人が、熱狂的にファンだったのかもしれないなあ、
なんて

妄想している。

ひじり先生は、永六輔に似てるなあ、と思ったんだけど、
同じようなことを感じた人はいませんか?

とくにオチはありません。


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