なぜアスペとカサンドラ(定型)はすれ違うのか ~「アスペッペの宇宙人たちってなにかんがえてるの?」

※筆者の立場については前回の記事
https://note.com/9_dokumamo/n/nf38751c26aa3
の序文に書いてあります。
 また、前回記事をお読みいただくことで、ASD自認者のおおよその内心を理解する一助になるかと思います。

【ここから本文】

 ツイッターにてカサンドラ界隈の方より、
『ASD配偶者とかみ合わなかったエピソード』と、
『どうすれば話が通じたのかという問題提起』が挙げられていました。

エピソード

問題提起

 これについて、ASD傾向を自認する者として思い当たるところがあり、それをいわゆる定型発達の方にも理解しやすい形に解説することができればエモいだろうな、と思いました。
 そこで、この食い違い現象が起きている原因を考察・文章化していきたいと思います。

 まず結論から言ってしまえば、この現象には
言語の食い違い
こだわりの食い違い
 という2つが同時に発生しています。
 そこを1つの食い違いしかないと思い込む先入観が、この問題の理解を阻んでいる、というのがぼくの考えです。


①言語の食い違い

定型側「イライラしないで」
アスペ「イライラは俺の感情だからそういわれても無理」
 このやりとりの文意を見ていきましょう。

「イライラしないで」という言葉からは2つのニュアンスが読み取れます。

1.「イライラを表に出さないで」
2.「感情をコントロールして」

 実際にどちらのニュアンスで発言されたのかというのは、前後の状況などを見なければわかりませんが、どちらも別に不自然ではないでしょう。
 ニュアンスをさらに言い換えてみます。

1.人間関係や場の雰囲気を壊さないように、言動だけでもこちらに寄り添ってほしい
2.そもそもそんなに怒るようなことではないのだから、イライラそのものをさっと水に流してほしい

 べつにどちらだとしても、変なことを言っているわけではないですね。
 ただ、言葉が正確かというとそうではない。だって2つの意味に解釈できてしまうのですから。

 アスペの特徴として、「会話が回りくどい」というのは、これを避けようとしているからだと思われます。

 定型の人は「言葉だけでなく雰囲気などをくみ取って、相手の意図を察することができる」と言われていますが、これは実は正確ではありません。
 実際には「意図を察した」と「自分で思い込んでいる」だけです。
 定型同士の会話であっても「相手が言っていることを理解した」と思っていても、実は食い違っていたことが後から分かることが往々にしてありますよね。
 もしも本当に「意図を察する能力がある」のであれば、その食い違いはもっとこの世に少ないはずです。
(渡部の倫理観はともかく、アンジャッシュの勘違いネタのコントっておもしろいよね)

 定型同士の会話ですら意図を食い違えているのですから、定型とアスペの会話ではこの食い違いはさらに頻繁に発生しています。そして定型は「意図を察した」と「自分で思い込む」のでそこに気づかず、アスペにはそういう性質は備わっていないので「あ、意図を勘違いされたな」という経験を蓄積していきます。
(恨み言をいうと、この食い違いの時にだいたい悪いのはアスペ側ということにされるし、大勢vs一人でこちらのコミュニケーション不備を糾弾されるので、そこは正直めっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっちゃくちゃムカついてるよ)

 アスペはこの経験により、なるべく言葉をたくさん尽くして「雰囲気の問題ではなく、明確な言葉で」相手に意図が伝わるように訓練・努力します。
 しかし、アスペが雰囲気や前後の文脈で意図をなんとなく察せないのと反対に、定型側も「言葉を尽くされてもよくわかんなくなるし、なんでそれが大事なのか理解できない」のです。
 だってそれで困ったことないし、訓練・努力を積んでいないから。

 人間は自分の心しか覗くことができません。だから『相手の心を類推する』ときに、自分の心をもとにして考えるしかないのです。
(っていうか、本当は自分の心すら「わかったつもり」になってるだけなんだけどね)
 その時にどうしても、相手と自分は同じ形の心を持っていると考えてしまう。
「厳密に言葉にしなくたって分かるだろ」
「厳密に伝え合わなきゃ、あとから食い違ってお互いに損をする」

「「相手だって、同じことを考えているはずだ」」と。

消化酵素が違う』という喩えが個人的にはしっくりくるでしょうか。
 日本人が牛乳を分解するのが苦手でおなかを壊すように。
 外国人が海藻を分解するのが苦手でおなかを壊すように。
 お互いにどうしても自分の中に取り込めないものというのはあるのです。
 しかしそれを知らなければ、よかれと思って日本人に自分たちと同じ感覚でガブガブと牛乳を飲ませようとしたり、外国人をおにぎりや手巻き寿司でもてなしたりしてしまうでしょう。

 さて、『言語の食い違い』について大まかに説明したところで、エピソードの例に戻ってみましょう。

定型側「イライラしないで」
アスペ「イライラは俺の感情だからそういわれても無理」

 ここでは仮に、定型側が「イライラを表に出さないで」の文意で言っていたとします。
 アスペはこれをどう受け取るでしょうか。
 もうお分かりですね。「厳密に意図を伝え合うのが普通」だと思っているんだから、「イライラしないで」と言われたら、「イライラ(感情のうごき)しないで」という意味に捉えるのです。
 もしも自分が相手に同じ文意を伝えたかったら、その時は「イライラを表に出さないで」という意図を必ず添えて伝えるし、『それを言わないのは相手の表現力のミスだ』と思っているのです。
 あなたが『それぐらい汲み取ってよ』と思っているのと、まあだいたい同じぐらいの強さには。

 アスペに現代文国語だけは異様に得意なやつが多い理由が見えてきましたね(ヘイトスピーチ)。
 アスペは日常会話でセンター現国の読解練習をやっているのです特大ヘイトスピーチ)。

 ちなみに訓練によってアスペにも、少し立ち止まって相手の文意がどちらなのかを読み取る能力は多少身に付きます。ただしそれをやろうとすると少し時間を要する(外から見ると、急にフリーズしたように見える)でしょうし、本人にとっては強いストレスがかかります。

 エピソードの例では、まあ無理でしょ。だってもう最初の時点でイライラしてるんですもん。イライラして判断能力が普段よりも落ちているアスペが、さらに相手の文意を立ち止まって読み取るとか無理。

 というわけで、定型発達のみなさんの側からアスペ側に寄り添っていただけるのであれば、アスペ=ヒトに擬態した国語のテストの答案用紙だと思って接するのが一番よいのではないかと思います。
 まあそれは冗談だけど。多少のフリーズを「意味を咀嚼してるんだな」と思って見守ったり、回りくどい話に「エイリアンの言葉わかんな~い」みたいな顔をしないだけでも、だいぶこちらからそちらへの印象は変わるんじゃないでしょうか。しらんけど。

「アスペの不器用な言い回しをネタにしてひと笑い取って集団に馴染ませてあげる」みたいなのは、目的が『融和』ならマジでやめておいた方がいいです。『公開処刑』とかが目的なら超効果的ですが。
本人も笑ってるからいいでしょみたいなのは、そういう擬態をしているか、自尊心を折られすぎて家畜の安寧に身をゆだねる去勢された豚みたいになっているか、ほぼ間違いなくどちらかです。


②こだわりの食い違い

 では、そろそろもう一つのアレをアレしていきたいと思います。
 再度エピソード内の会話を振り返ってみましょう。

定型側「イライラしないで」
アスペ「イライラは俺の感情だからそういわれても無理」

 こういう会話があった時に、定型側が
2.「感情をコントロールして」
 こちらの文意で話している場合、べつに言語の食い違いは発生してませんよね?
「やれよ」「は? 無理」
 っていう、実に単純なやりとりをしてて、でも定型側からするとアスペは、なんかどうでもいい話にめちゃくちゃキレ散らかしている人に見えるし、なんだか納得いかなくてお互いに不愉快な気持ちになってるはずです。

 前提として、感情のコントロールというものは可能でしょうか?
 実感としては、「ある程度なら可」でしょう。
 子どものちょっとしたいたずらに「まあ、子どものしたことだからな」と思うとか。人のちょっとしたミスを「誰でも同じようなミスするもん、仕方ないよ」と流すとか。
 これは自然と怒りが収まったり、相手が子供だから表に出さないとかってだけではなく、『自覚的に感情をコントロールしている』はずです。

 さきほどまで散々、アスペは文意の正確性にこだわるという話をしておいて申し訳ないのですが、エピソードにあるASD側の「イライラは俺の感情だからそういわれても無理」はおそらく国語のテストでは不正解、よくて△です。
 正確に表現するなら、「今感じているイライラは、俺のコントロールできる限界を超えているから無理」でしょう。アスペ大学入学試験不合格です。

 ただ、そこの表現を正確にしても、まだ引っかかるものを覚える方もいるかと思います。実際に直してみたとして、たぶん続く言葉は

定型側「イライラしないで」
アスペ「今感じているイライラは、俺のコントロールできる限界を超えているから無理」
定型側「え、こんなことで?

 こうですよね。意味わかんないですよね。なんでそんな小さいことでキレてるの? ですよね。
 ここで出てくるのが②こだわりの食い違いです。

 たとえば、あなたが貸したものを友達が失くしてしまったとします。
 あなたはそれを許せるでしょうか?
 ものや状況による、としか言えませんよね。(あなたが神さまに遣わされた人類愛の使徒とかじゃないかぎり)

 100均で買ったペンとかなら許せるでしょう。大好きな親族の形見としてもらった万年筆とかなら、たぶん怒るのでは?
 たかが筆記具ひとつ失くしただけで怒りをぶつけてくるあなたに、友人は驚くでしょう。あなたはそのルーツを言葉によって語り、いかに大事なものであるかを友人に理解させることができます。

 あなたが「大したことないでしょ」と切り捨てることのできるものは、アスペにとっての逆鱗である可能性があります。きれいな宝物であったり、恩師からの教えであったり、これまでの人生のすべてを使って作り上げた思考の型であったりするかもしれません。

 しかもそれはあなたの万年筆のように、「なぜ大事なのか」を明確に語ることのできるエピソードがあるとは限りません。
 内的な体験によって形作られた、『これだけは譲れない』というこだわりは言語化が難しいものですし、そもそも定型とアスペの間には、先に挙げたような言語の食い違いが頻繁に発生するものです。

 ただ我々アスペからすると、このような『理解しがたいこだわり』『踏んではいけない逆鱗』というのは定型の方々も持っています。

 これは非常に主観的な印象、あてずっぽうの話なのですが、定型発達者、特にカサンドラ界隈の方の傾向として『周囲の目を気にする』という傾向が非常に強く、『常識』『社会のレール』『一体感』のようなものに沿わないことに対して非常に強い憤りをもつように感じます。

 ここからの話は、人によってはかなり驚かれるかもしれません。

 全員がそうとは言いませんが、アスペはおそらく傾向的に、一部はかなり自覚的に、『常識』『社会のレール』『一体感』などに対する忌避感のようなものを抱いています。
 なぜそうなのかについては、まあ「空気を読む」などによる見えない恩恵を得る機会が少なく、逆に苦痛を味わってきた恨みからとか、『常識』などが自分の中の『こだわり』と衝突しているだとか、明文化されていないルールが存在することで感覚過敏な部分を攻撃されているだとかいろいろ考えられますが。そこの機序は今考えても仕方がないでしょう。

 これは別に、アスペは社会を憎んでいるので人間を殺害してその生き血をすするのが大好き! みたいな話ではありません。
 一般的な倫理観に対して、『そうするのが当たり前だから』ではなく『自分が納得しているから』従うのです。

 人を殺してはならないのはなぜか。
『自分や自分の大切な人が殺されても文句を言えないから』
『お互いに殺し合いになって社会が回らなくなるから』
『そもそも本能的に忌避感を持つから』
『実は法の上では禁止されてないが、やったら裁かれる。それはいやだ』
 こういった既存の解釈を知ったり、あるいは自分なりに整合性とれた理屈を自作したりして、ようやく『納得』してそれに従うのです。

 アスペが忌避感を抱いているというのは、『それが当たり前で、常識だから』という深掘りしない態度を取ることに対してです。

「人を殺してはいけないのは、そう決められているから」
「先生がそう言っていたから」
 みたいなやつに対して、なんでそんな大事な話をフワフワした理由で済ませられるんだよ、という、不信感や不誠実を感じているのでしょう。

 こんな場面はないでしょうか。
 アスペの配偶者が家のことをまるで手伝わない。定型が「家族として、親として、〇〇するのが当たり前だろ!?」と怒っているのに、アスペにはまるで響いていない。

 まあ僕個人としてそういう奴はホンマにカスだと思うんですが(おれはたぶん一生結婚しないからしらんけど)、一方でなぜアスペにそれが響かないのかというのはなんとなく想像がつきます。こうです。

「結婚したのってお互いに好き合ったからじゃないの? 『家族だから』『親だから』やらなきゃいけないって、それ結婚する時の「好きだ」って言葉は嘘で、キミは常識に従って動くご奉仕ロボが欲しかったの? は?」
 こういう思考です。

 まあこういうクッソめんどくさいやつに合わせるのもなんなんですが、たぶんここでアスペの逆鱗を踏まないための言葉を選ぶとしたらこうです。

「好き合って結婚した相手が困ってるのに、なんで助けてくんないんだよ」
 です。『家族だから』とか『親だから』みたいな言葉を出すよりはたぶん効くんじゃないんですか。効かなかったら知らん。


【いかがでしたでしょうか】

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 長々とした文章になってしまいましたが、結局これは日常生活で感じたことがある齟齬の言語化をしているだけで、『使っている言語が違う』『こだわりが違う』みたいな話には「知ってた」「薄々は思ってた」ってなったんじゃないでしょうか。

 ただ面白いのは、たぶんそれぐらい言葉としては分かっていたつもりの人たちでも、実際のコミュニケーション場面においては『何言ってるかわからない』『通訳がほしい』みたいな心情になっているということですね。

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 これはたぶん、今回のnoteのようにアスペの内心を言葉にしたものを見る機会が少ないことや、序盤に持論として書いたように、『食い違いの理由が1つしかないと思い込む先入観』によって原因が理解しにくくなっていることなどが理由ではないかと考えます。

 もっとも、大元をたどればそもそも『言語の食い違い』『こだわりの食い違い』は両方『こだわりの強さ』に、
 『こだわりの強さ』も脳のなにかに原因を辿っていくのではないかという気はしますが、科学的な知見を持たない筆者にはよくわかりませんでした(笑)

 このようなインターネット場末の酒場の酔っ払いの妄言よりも、検証に基づいた脳科学的な解明を待ちたいところですね!

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P.S. アスペとか定型とか関係なくカスなやつっているんで、「カスがたまたまアスペでもあった」みたいな話までアスペ特性のせいにされたら、それはマジで差別の文脈とやってること全く同じなのでクソムカつくな、みたいなのは思います。

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