尼僧道場 第三話(20世紀の情景)
第3章 連帯責任
風呂から戻ってこなかった寿慶が変わり果てた姿で帰ってきた。
長い髪がなくなって尖った頭の形が丸出しのツルツル頭。その上、後ろ頭やおでこの上には血の滲んだ絆創膏がペタペタと貼られている。
「寿慶さん。どうしたんですか?」私は驚いて理由を聞き出そうとするが
「いやぁ…面目ない。決まりを破ったのがバレて頭を剃られちゃった」と恥ずかしそうに頭をさすりながら答える。
「さっき外歩いてたらやけに頭が涼しくて。髪がなくなったら風邪ひいちゃいそうだわ」寿慶さんはそれ以上多くを語りたがらず、そそくさと頭にタオルを巻いて洗濯をしに部屋から出て行った。
これで有髪で残ったのは、私(鏡水)と妹の鏡海、そして高校生の桂月の3人だけになってしまった。
寿慶の坊主頭を見て、桂月は「もうイヤだ」とメソメソと泣き始めた。
お風呂さえ満足に入れない現状は限界なんだろう。
私は理不尽な差別に嫌気がさしていて、さっさと降伏して剃髪したいと思っている。
だけど妹や桂月は裏切れない。
消灯時間になり、電気を消すとあっという間に眠りについてしまった。
翌朝
頭にタオルを巻いた寿慶が私を揺さぶって起こした。
「大変よ。桂月ちゃんがいないの」
えっ?
彼女が寝ていたはずの場所を見るといない。
トイレや宿坊の周りに行って見たけどいない。
もしかして逃げちゃったの?
押入れに入っていた彼女のボストンバッグも無くなっているし、靴箱に入っていた黒いスニーカーもない。
( 仕方がないよね )
ここはひどい場所だ。探し出して連れ戻すという気にもなれず、むしろよかったとさえ思う。
桂月はまだ17歳だ。厳しい修行に耐えられるわけがない。
私たちは身支度を整えて山へ上がり桂月がいなくなったことを先輩たちに伝えた。
恵久たち先輩尼は激昂した。
「なんでそんなに落ち着いているのよ!すぐに駅に行って連れ戻しなさい!」
怒鳴られて私たちは山を下り早朝の門前町まで走った。
始発の電車は5時20分だからもう発車しているが、修行中は財布を寺に預けている。お金を隠し持っていなければ脱出もできないはずだ。
果たして桂月はまだ駅にいるのか。
無人の改札を潜って短いホームを端から端まで歩いて探す。
(やっぱりいないな…)
朝早くは駅員がいないので、お金がなくても飛び乗れたのかもしれない。
念のため街の中や、ふもとにつながる道路も途中まで歩いて探したけどいなかった。
正直ホッとした。もし連れ戻すようなことがあったら、彼女はすごく怒られて、罰として頭を剃られるだろう。そんな姿を私は見たくない。
7時半を回った頃、寺に戻り庭で待っていた恵久たちに報告をした。
「そうなの…」妙真はあきらめた様な表情をしてボソリと呟くように言った。
恵久は相変わらずカッカとした表情をして黙っている。
照華は「何かあったら私たちも罰があるんだからね」と不満気だ。
(仕方がないでしょ。あんたたちがいじめてたんだから)心の中で私は彼女たちを責めた。
「とりあえず私らで寺には報告しとくから。朝ご飯を食べたら3人ともここにまた戻っておいで」妙真はそういうと一旦私たちを解放した。
食堂で朝ご飯を食べて先ほどの場所に戻ると、3人の尼たちは庭先で何やらゴソゴソしていた。
(何をしているんだろう…)
近づいて見ると妙真がパイプ椅子に座り、恵久によって眉毛を剃り落とされていた。
すでに恵久と照華は眉毛を剃り落としている。
眉がなくなってプロレスラーのような迫力になった照華が私たちを見つけて
「おい。何がおかしいんだ?お前らもこれから桂月が逃げた責任をとって眉毛全剃りだからな。あと鏡水と鏡海は今から坊主になってもらうからそこで待ってろ」
ああ。ついにこの時が来てしまった…。
正直私は坊主になってもいいと思っているけど鏡海はどうなんだろ…。
妙真の眉剃りが終わると照華が「おい。エロガッパ。お前から眉毛剃ってやるからここに座れ」と寿慶に命令した。
今まで反抗的な態度を見せていた寿慶だったのに、今朝は「エロガッパ」と呼ばれても素直に言うことを聞いて椅子に座るとタオルを首に掛けた。
恵久は寿慶の太い眉を洗面器に貯めた水で濡らしながら、あっという間にジョリジョリと剃りあげてしまった。
美人な寿慶でも髪も眉もなくなると不気味な妖怪のような風貌になってしまう。
寿慶は首からタオルを外して立ち上がり、剃られた眉や頭を両手で触りながらくちびるを噛み締めている。
そりゃそうだろう。秋には結婚式をするはずなのに、あんな姿にされたらもうどうしていいかわからないに決まっている。
そして…
「さてと。あとはあなたたちきょうだいね。どっちから先に頭を剃るか決めた?」
眉毛がなくなって表情がわかりにくくなった絶壁頭の恵久が私たちに尋ねてきた。
隣にいる鏡海は束ねた髪を前に持ってきてギュッと手で握りしめている。
「私が先でお願いします」
意を決して私はパイプ椅子に座り、髪を束ねていたゴムを外して断髪を受け入れる準備をする。
髪をほどいた時に頭を左右に振ると長い前髪から生乾きの酸っぱい臭いがした。
昨日、頭を久しぶりに洗ったけどちゃんと乾かせていないし、不潔になっている。
今まで大事にしてきた髪だけどもう邪魔でしかない存在だ。
さっさと剃り落としてもらって楽になろう。
「よーし。よく言った」
照華はそう言うと、私の首に白いケープをきつく巻き付けて部屋から延ばしてきた延長コードにバリカンのコンセントを差し込んだ。
カチッ ヒューーーン
美鈴や千花の髪を剃り上げた大きなバリカンの音が耳の近くで響いた。
( やっぱりイヤかも… )
いざ剃髪されるとなると、覚悟ができていたはずなのに怖くなってきた。
酸っぱい臭いがする長い前髪がガバリと持ち上げられた。
いよいよ髪が無くなっちゃうと心臓がバクバクしている時のことだ。
なぜか照華はバリカンのスイッチを切って私の膝の上に置いた。
(えっなんで?)
何を企んでいるのかという不安と、もしかしたら剃髪を免れたかもしれないという希望が頭の中で交叉した。
膝の上に載せられた古いバリカンは意外にずっしりする。
「おい。妹!お前が姉貴の頭を刈ってやれ」と照華は鏡海に声をかけた。
「えっ?私がですか?」鏡海は裏返った声で聞き返している。
「そうだよ。お前ら姉妹で頭を刈り合いっこしろ。寺の娘ならバリカンの使い方くらいは知っているだろ?私たちは講義が始まるから行かなきいけないんだ。恵久だけはここに残していくから。早く終わらせて来いよ。」
そう言うと照華は寿慶たちを連れてその場を去ってしまった。
残ったのは、ケープを巻いて座っている私と鏡海、そして恵久の3人。
「お姉ちゃん…私どうしよう…」妹は困り果てて私に聞いてきた。
「仕方ないわ。ガーッとここから一気にやっちゃってよ。恨まないから」
私はバリカンを持って額の真ん中から頭を刈る真似をしながら手渡した。
追い打ちをかけるように「あんたたちなんでもいいから早くやってよ」と恵久が後ろから声をかけてきた。
カチッ ヒューーーーーン
ついに妹がバリカンのスイッチを入れて、不慣れな手つきで私の前髪をかきあげた。
「お姉ちゃん。ごめん!」私も怖くなって目を閉じた。
モーター音がどんどん顔に近づき、そしてついに
ザザザザザザ…
ジャリジャリジャリ…
大きな音とともに、額の上から頭の上にぬるい金属の板が滑っていく感触がした。
まったく痛みは感じない。あれ?髪切られているよね?
一瞬まだ髪があるんじゃないかと思ったけど、次の瞬間にパサパサと刈られた前髪が目の前に落ちてきた。
(ああ…やっぱりか)
髪と別れを告げたことを思い知らされた。
目を開くと妹は怯えた表情をしながら恐る恐る髪を剃り上げていく。
二度、三度、四度…繰り返し額から右左へバリカンが額から頭の上に駆け上がっていく。髪が無くなったのだろう。頭の皮膚に夏の太陽が当たる感触がする。
耳の周りの髪が落とされていくと肩のあたりに見えていた髪も視界から消え、地面へと溜まっていく。
最初はショックを受けたけど、私はすぐに何も考えられなくなり、ボーッとバリカンを受けいれるだけになった。
美鈴のように鏡を持たされて落ち武者のような惨めな姿を見なくていいからだろうか。それとも意地悪な先輩じゃなくて妹が髪を剃り落としているからだろうか。
私は美鈴のように人目も憚らずに泣き叫ぶこともなく、ただただ頭の上で響くモーターの音が止むのを待つ。
斜め前にいる恵久さんと目が合った。気のせいだろうか意地悪な表情ではなく少し同情しているような顔をしている気がする。
髪が刈られる音に混じってセミの声を聞き分けている自分。
一旦気持ちが落ち着いたんだろう。不思議な感じだ。
数分後…
妹は手こずっているのか何度も繰り返し私の頭にバリカンを当てていたが、ようやくバリカンを頭から離してスイッチを切った。
(ようやく終わったか…)
フワフワするくらい軽くなっている頭を上下左右に振り髪がなくなったことを実感する。
すると「まだ上手に刈れてないわよ」と恵久が私に近づいて、刈り残した部分があるのか何回も頭にバリカンをあてて、「ついでに眉毛も剃っちゃうわ」と石鹸水を眉に擦り付けてジョリジョリと剃り上げてしまった。
「はい。お姉さんはこれで終わりね」
暑い中、体を覆っていたケープが外されて、少し蒸れた体に外気が通った。
足元には大量の長い髪が落ちている。肩に届くくらいの長さの髪だったけど根本から剃り落とされているから想像していた以上に長い。
頭を触って確かめると、汗で湿った頭皮が直に手のひらに当たる初めての感触…。
0.5ミリにされた髪は手のひらに僅かに存在を感じとれるほどしかない。
(うわぁ…)
鏡がないから視覚で確認できないけど、ここで私は剃髪したことを思い知らされ、涙が出てしまった。
「泣いている暇なんかないわよ。今度はあなたが妹の頭を剃るんだから。さっさと準備をしなさい」
涙を拭いているうちに恵久は鏡海を椅子に座らせ、私の髪がたくさんくっついているタオルとケープを首に巻きつけた。
これで彼女も逃げることはできない。
妹の髪は私よりも長くて胸に届くほど伸びている。成人式に向けて伸ばしているのだ。
修行が終わったら、綺麗な振り袖を着て記念写真を撮る予定だった。
だけど振袖なんかよりも墨染めの衣と袈裟が似合う坊主頭にこれからされてしまう。
きつく後ろに束ねていた髪をほどくと妹の髪は自然とセンター分けのようになる。
長い間分け目を変えてこなかったから、頭の真ん中に通っている分け目が少し広く、そこから覗く地肌が少し茶色く変色している。
そしてまだ染めたこともない真っ直ぐな髪。
これを全て剃り落とさなければならないなんて複雑な思いだ。
手ぐしで髪をなでつけながら、妹の頭に少し顔を近づけてみると、私といっしょでムッとするような汗と生乾きのような臭いがしている。
恵久がバリカンを手渡してきた。
機械油の臭いがする刃の部分には細かい髪がくっついている。きっと私の髪だろう。
この道場で使われてきたこのバリカンは、一体何人の女から黒髪を奪ったのだろうか。胴体の部分をひねってスイッチを入れた。
ヒューーーンとモーターのけたたましい音と一緒に細かい振動が手に伝わってきた。
目の前にはギュッと目を瞑って下を向いた妹がいる。
「いくわよ」
声をかけると私は額からではなく、うなじをかきあげて首筋からバリカンを入れた。
正面からバリカンを入れるとかわいそうに思えるし、途中でやめてと言われたらやめてあげようと思ったからだ。
ザザザザ…ザザザザ…
首筋から後頭部を一直線にバリカンを進めた。
髪は一旦根本が持ち上がるように浮き上がると、ドサドサと剥がれ地面に落ちていき、バリカンが通ったあとの妹の後頭部は見事なまでに禿げ上がっている。
しまった。これだけ頭の上まで刈ってしまえば後戻りできるわけがない。
「あぁーん」
妹は小さくそう呻くと、下を向いたまま泣き始めた。
仕方がない。肩を震わせている妹の後頭部を私は刈り残しがないようにバリカンで何度も剃り上げていく。
ザザザザ…
ザザザザ…
ザザザザ…
長い黒髪に覆われていた真っ白な頭皮と髪に隠れていた細い首筋が一気に浮かび上がる。
すでに妹の膝の上や足元には大量の髪が落ち、その髪を見ながら妹は悔しそうにボタボタと涙を垂らしいる。
ごめんね。本当に心が痛む。
後ろ頭を耳の裏側まで刈り残しがないようにすべて刈ってしまうと、肩をポンと叩いて頭を上げてもらった。
そしてまだ手付かずで残された前半分の髪をこれから剃り上げていく。
覚悟を決めて額の真ん中で左右に分かれた髪の真ん中めがけて私はバリカンを入れた。
ザザザザザザ…
ザザザザザザ…
額からの一本の白い線が後ろ頭と繋がった。
もう妹の号泣は止まらない。
肩を震わせながら顔を真っ赤にして泣いている。
「ごめんね」私はその言葉を繰り返しながら、一心不乱にバリカンを動かして妹の頭を刈っていく。妹の草履を履いた素足に長い髪が落ちた。彼女は足を持ち上げて髪を地面に落としている。悔しいだろうな。辛いだろうな。
最後に両サイド残った髪を手で持ち上げながら刈っていく。
頭から離れ私の手の中にある髪をどうすればいいのか扱いに困る。
地面にそのまま落とすのか、それとも妹の膝の上に置いてあげるか。
結局、最後のお別れをしてほしいから膝の上に置いてあげると、妹はケープ越しに名残りを惜しむように触っていた。
ひと通り頭を刈り終えたけど、均一に0.5ミリには刈れていない。
坊主頭になった後も、何度もいろんな方向からムラがないようにバリカンを当て続ける。妹はシクシク泣きながらただ完成を待っている。早く終わらせてあげたい気持ちときれいに仕上げてあげたい気持ちで気持ちが焦る。
その時は自分も惨めな眉なしの坊主頭にされていることなど忘れていた。
ようやくきれいに刈り終えた。
バリカンのスイッチを切って、酸っぱい臭いと機械油がの混じったおじさんのような臭いの妹の頭から細かい髪を頭から払ってあげた。
すると私たちの断髪の様子をじっと見ていた恵久さんが「お姉ちゃんの方はなかなか上手じゃないの」と言いながら近づいてきて、私からバリカンを取り上げると再びスイッチを入れて耳の周りやこめかみの上あたりの刈り残しをきれいに処理をした。
そして、妹の眉も指で濡らしながらゾリゾリと眉毛を剃り落としてしまった。
「よし。これで終わりかな。あんたたちあそこにホウキとチリトリがあるからここをきれいに掃除して裏の焼却炉に捨ててきな。私は先に講堂行くから終わったらお風呂に行って頭を流しておいで」と言い残して立ち去ってしまった。
地面に落ちた姉妹2人の髪は小さめのチリトリでは一度に収まらないほどの量だ。
ホウキで掃き集める前に拾い集めてはみたものの、記念に持っておこうという気持ちにはならなかった。こうなってしまった以上は修行をやり遂げて家に帰るしかないのだ。
まだ泣きながら、髪を拾い集める妹を励ましながら私は髪を掃き集めた。
風呂場に行くと、脱衣所には真新しい道着とタオルが2人分置いてあった。
恵久さんが置いておいてくれたらしい。
脱衣場にある鏡で初めて自分の剃髪姿を見て、あまりにの変貌に驚いてしまった。
これまでの修行で日に焼けた顔や首筋とは対照的な白い頭。加えて眉のない化け物みたいな顔。妹や寿慶さんの姿を見てもそれほど衝撃を受けなかったけど、自分自身の髪なし・眉なしの姿をみるとさすがにショックは大きかった。
妹もきっとそうだったんだろう。せっかく泣き止んでいたのに、頭を抱えながらしゃがみ込んでまた泣き出した。
私も悲しくなって妹に抱きついて泣いてしまった。
何分泣いたことだろう。私たち姉妹は泣きやむと頭を洗い流して講堂に入った。
授業中の尼たちは何も喋りかけてこなかったけど、皆私たちの変わりように一瞬驚いたような表情をしていた。
修行が始まった頃は髪の長い尼が多数を占めていた講堂に坊主頭がズラリと揃うことになった。
「切り替えよう」私はそう思うしかなかった。
窓の外からはセミの声が聞こえてくる。
そして先生のありがたい話が今までよりくっきりと聞こえる凛とした気持ちに今はなっている。
⭐︎いつもお読みいただきありがとうございます。この作品を気に入っていただけたなら「スキ」のクリック、シェアなどをお願いします。
また過去作品もぜひ読んでください。
次回は3月10日ごろにアップできればと考えていますが、体調が良くないためお約束 はできません。何卒ご容赦ください。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?