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断髪小説 最後の自由 (20世紀の情景)


私は産んだ親のことを覚えていない。
物心ついた頃には祖母と2人で大きな街で生活していた。
その祖母も小学校に上がる前に重い病を患って遠縁にあたる尼僧の姉妹に私のことを頼んで死んでしまった。

都会から離れた町の寺で生活することになった当時の私はおてんばだった。
山の麓に住むユウタと毎日泥んこになって遊んでいた。
大きくなると泥んこになって遊ぶことはなくなったが、人前でも恥ずかしがらずに歌を歌う活発な女の子として育った。

歌うことが大好きで流行りの歌や庵主さんの好きな演歌をよく歌っていた。
毎日一緒にお経を読んでいるからか音程をとるのも抑揚をつけるのも上手いと褒められていた。
大きくなったら歌手になりたかった。
あの頃の私はテレビの中の華やかな世界に憧れるごく普通の女の子だったんだ。

だけど
中学に上がる前、庵主さんから「18になったら尼さんになって修行しながら大学に行きなさい」と言われた。
私に自由はない。
未来には変えようのないレールが敷かれていたことに気づいた。
すごくショックだった。

卒業アルバムで将来の夢を書く時には手が震えた。
「歌手になりたい」という自分の夢を偽り「尼さんになってお寺を継ぐ」と書いた。
年老いた庵主さんたちは喜んでくれたけど気持ちは複雑だった。

中学生になった。
多感な思春期で周りの友だちは校則を破ったり親に反抗していた。
私にはそんな気力がなかった。反抗する親もいないのだ。
「青春」や「自由」を謳歌したいとも思えなかった。歌を歌うこともやめてしまった。
流行歌よりも一昔前のロックを聴くようになった。
めちゃくちゃに愛や自由を叫ぶ昔の清志郎が好きだった。
歌番組も見なくなり、深夜のラジオを聞くようになった。

高校生になった私。
残された自由な時間はあと少しなのに、恋愛はもちろん友だちと遊んだりすることもなかった。
人生の自由な時間を楽しむことなんて諦めていた。
若い時代を謳歌しない私を庵主さんが憐れんだ。
「何かやりたいことがないか」と聞かれたから私は「原付バイクに乗りたい」と言った。高一の夏休みに免許を取ると檀家の人からバイクを譲ってもらった。
バイクに乗って風を感じるとスッキリした気分になった。
このままどこかに旅立ちたい、自由になりたいという気持ちにもなったけど、できなかった。

女の子がヘルメットを被ってバイクに乗っていると髪型が気になるだろうが、私は気にしなかった。
いつも背中の真ん中まである長い髪をきつく2つの三つ編みにして過ごしていたからだ。
周りの女子たちは時間をかけてドライヤーでセットして通学していた。

「妙恵ちゃんは美人なのにおしゃれしないのは勿体無い」と言ってくる子もいた。
でもどうせ私は高校を卒業したら髪を剃って仏門に入るのだ。
将来へのあきらめと、本当は美しさに憧れているがゆえの尻込みで、おしゃれをすることをしなかった。
高校に入ると視力が落ちたけど、コンタクトレンズも入れず太い縁の分厚いレンズのメガネをかけて過ごした。
周りからは根暗でいけてない子だと思われているだろうが、そんなことどうでもよかった。

高校3年生になった時、庵主さんに
「夏休みは尼僧道場に行って修行しなさい」と言われた。
ついにこの時が来た。
私は終業式が終わったらすぐに得度をすることになった。

終業式の日。
学校が終わると私は帰り道とは真反対の方角へバイクをかっ飛ばした。
三つ編みをほどいて、制服のままでヘルメットも被らずに、長い髪を靡かせてフルスロットルでバイクを走らせた。
学校やお巡りさんに怒られてもいいや。

これが私にできる精一杯の反抗であり自らの解放の方法だった。
理由なんかはなくて、とにかく遠くの海までバイクで行きたかった。
時々、好きな歌を叫ぶように歌いながら海を目指した。

後ろにビュンビュンと靡く髪は信号で停まると正気に戻ったように垂れ下がってきた。
その時顔に張り付く髪を後ろにやって耳に引っ掛け直し、走り出すと再びバイクをかっ飛ばすことを繰り返していると、なんだか束の間の自由でいる実感が湧いてちょっとだけ楽しくなった。

それから何時間もバイクを走らせて海に着いた。
水着も持っていないし、そんなにお金があるわけでもない。
ガソリンも空っぽだから入れないとダメだ。
私は適当な場所にバイクを停めて砂浜の端っこの人気のない場所にそのまま寝転んで、ウォークマンで音楽を聴いた。
汗で濡れた肌や髪に砂がたくさん付くけど気にしない。

日が暮れて夜になって周りが静かになっても帰りたくなかった。
イヤホンを外すとザーザーと波の音だけが聞こえる。
時々急に寂しくなって、不安になって、何度も「ワーーーーー」と海や星に向かって叫んで泣いた。

だけど運命は変えられない。
私はお寺に戻ることにした。

お寺に着いた頃には夜中の0時を回っていた。
庵主さんは私を咎めなかった。
「おかえり」と優しく迎えてくれた。
ぬるくなったお風呂で汗と砂で汚れた身体や髪をきれいに洗った。

あさってには髪がなくなる。
シャンプーが終わって濡れた髪を後ろに掻き上げてみた。
丸坊主になった私を想像しようとするけど、まったくイメージがわかない。
今までの私じゃなくなってしまうことがだんだんと怖くなってきた。

次の日
朝のお勤めをした後、畑仕事を手伝った。
長い髪も明日でお別れだと思うときつく縛るのがかわいそうな気がして、畑仕事の邪魔になるけど三つ編みにしなかった。
お昼ご飯に素麺を茹でて食べていると庵主さんが不意に
「妙恵ちゃん。これからフジイさんのところで明日の準備をしてきなさい」と言ってきた。

「えっ?」

フジイさんとは山のふもとにある理容室のことだ。
そこに行けということはつまり今日髪を剃れということだ。
心の準備ができてなくて不意を突かれた気分だ。

「明日の朝は儀式だけよ。きれいに頭を剃ってあげる自信もないし、2時から予約をしておいたから今から行ってきなさいね」

「はい…」

急展開に頭がついていかないけど、私はそう返事せざるを得なかった。
ご飯を済ませて部屋に戻ってTシャツとジーパンに着替えて、畑仕事で汗だらけになっている長い髪を優しくコームで梳かしていつもの三つ編みにした。

時間稼ぎもあるが、やっぱり最後は慣れた髪型で長い髪とお別れすることにした。
手に持ったこのコームも家に帰ってきた時には必要なくなってしまう。
そう考えるとやっぱり辛くなった。

そろそろ2時だ。
私は山道を下りて、バイクに乗ってフジイさんの店に行った。
フジイさんの理容室は古くて近所のお年寄りくらいしか利用していない。
バイクを停めて、重たいドアを開けると年老いたおじさんが私を迎えてくれた。

「妙恵ちゃん。よく来たね」
いつも来る時は店の奥にある居間に上がって仏壇を拝むのだけど、今日はこのお店のお客さんだ。
おじさんは私を大きな理髪椅子に案内した。
フカフカしてお尻が落ち着かない。
目の前の鏡には大きな眼鏡をかけた胸の下まで垂れた三つ編み姿のいつもの私。

嗚呼、今度この椅子から立ち上がる時には私の髪が全部なくなってしまっているのか。
緊張で胸がドキドキして、手のひらや脇の下からたくさん汗が出てきて、薄いグレーのTシャツの脇の部分が濡れている。
おじさんは私を椅子に座らせた後、タオルと椅子の横に引っ掛けていた酸っぱい臭いがする水色のケープを私の首に巻きつけて、そっと両手を肩の上に置いた。

「気持ちの準備ができたら言ってね」おじさんは私を憐れむような目をしながら鏡越しに語りかけた。

「はい…」

ケープも巻かれてもう逃げることはできない。
私はケープから手を出して、長い三つ編みを労わるように撫でてあげた。
そしてケープの中に手をしまって、1分ほど鏡に映る有髪の最後の姿を目に焼き付けると、コクリと首を1回縦に振った。

それを合図におじさんは大きなハサミを手に取って動き出した。
私の右の三つ編みを左手で掴んで鏡に映るように持ち上げると
「いくよ」と声をかけてきた。

そして…

ザクリザクリ、ザクリザクリ…

首筋の三つ編みの根本にハサミが入った

軋むような音とハサミから伝わる振動が首筋の骨に伝わってきた。
三つ編みが解かれずに根本からいきなり切られると思っていなかった私は頭が真っ白になった。
きつめに編んだ太い私の三つ編みをおじさんは容易く私の身体から切り離してしまった。

「切っちゃったよ」おじさんは私の長い三つ編みを目の前で見せて用意していた鏡の前のトレイに置いた。
右半分だけ短くなった髪がハラリと耳の上に被さってきた。

おじさんはすぐに左の三つ編みの切断に取り掛かった。


ザクリザクリ、ザクリザクリ…

首筋にさっきと同じ振動が伝わってきて、あっという間にトレイの上に2本目の三つ編みが横たわった。

「髪、持って帰るよね」

おじさんが私に話しかけてきたが、うまく答えられないでいる。
たった今まで身体の一部だった髪がこれほどまであっけなくなくなるなんて…。
あごのあたりの長さで不揃いに垂れたショートカットの自分を見て、完全に思考が停止している。

おじさんは大きなハサミをトレイの上に戻すと、今度はヘアゴムを持ってきて頭頂部の髪を少し櫛でとりわけて縛っていく。
小さな子どもがするような変な格好だ。

これから一気に丸坊主にされるのかと覚悟していたのに、何が始まるのか訳がわからない。
おじさんは髪を縛ると後ろから大きな電気バリカンを取り出して椅子の下のコンセントに挿した。

ヒュイイイイイン…カタカタカタ…という音を立ててバリカンが動き出す。
おじさんは機械油を刃につけると私のおでこの真ん中からバリカンを入れた。

バサバサとバリカンの刃は私の前髪を奪ったが、ゴムで止めている頭頂部までしか進まない。

(えっ…なんで?)

バリカンは再びおでこから上に私の前髪の部分だけを淡々と刈りとっていく。
太いメガネの縁に前髪が引っかかって、レンズに髪がくっついた。

「メガネを取っちゃうよ」
おじさんはバリカンのスイッチを一旦止めて私からメガネを取り上げる。
視界がボヤけてしまうが、クーラーの涼しい風が、刈られた頭の部分に当たるから現実を思い知る。

おじさんはこめかみの部分から額の方にバリカンを当てていく。
バサバサと目の前にあった髪が落ちて黒かった頭がどんどん白く、丸っこくなって、てっぺんで縛っている髪だけが残っている。
もみあげから耳の周りの髪から上に上にと髪が刈られていく。
右耳の周りから髪が完全になくなると、おじさんは立っている位置を変えて左耳の周り髪もあっという間にすべて刈り落とした。
なにかここまであまりにも急で感情も追いつかなくて、泣くこともできない。

もう坊主になるしかないとわかっているんだけど、まだ緊張が続いている。

後ろに残った髪が上に持ち上げられながら首筋からバリカンで刈り落とされていく。

バリカンは躊躇なく首筋から頭のてっぺんまで一気に進んでいく。
きっと後ろ頭はすごいことになっているんだろうけど、見えないからよくわからない。
だけど後ろ頭の頭皮にもひんやりとしたクーラーの風が感じられるようになっている。
頭の真ん中で留めた一部を除いて私の髪は失くなった。
メガネを外しているから視界がボヤけて、ここまでのボンヤリとしか変貌の様子は見えなかった。
見えない方が傷つかなくて良かったのかもしれない。

おじさんは何度も丁寧に私の頭をバリカンで剃り上げていく。

少し冷静になってきた私。
なんでひと思いに丸坊主にしないんだろうという疑問が湧いてきた。
結局、おじさんは頭の上で束ねた髪を残した状態でバリカンのスイッチを切ると、鏡の前に置いたメガネを「お疲れ様」と言いながら渡してくれた。

メガネをかけてボヤけてよくわからなかった自分を鏡で確認する

(えぇ…本当にこれで終わっちゃうの?なんでこんなみっともない頭なの?)

日焼けした顔と対照的な白々とした丸い頭皮が剥き出しの坊主頭に、申し訳程度に頭頂部で残された一束の髪。なにこれ?状況がよく理解できない。

おじさんはバリカンのコンセントを外して後ろにしまった後、頭の上で縛っていた髪を解いた。
とうもろこしの毛のようにチョロチョロとした長い髪が情けなく頭の上に広がったけど、おじさんはその髪をチョキチョキ3センチくらいの長さに切って首に巻いていたケープを外した。

「あとはカミソリで頭を剃るからね」
おじさんはそういうと、また私からメガネを取り上げて頭にタオルを何枚も巻くように載せて蒸らしていく。

そして頭全体に白いシャボン塗りたくってカミソリで私の頭を剃り上げていった。

ジリッ…ジリッ…ジリッ…
痛みは全く感じない。
頭皮が指で引っ張られるように広げられながら、時間をかけて何度も頭全体がカミソリで剃られていく。

ジリッ…ジリッ…
肩の上に載せられたスポンジの上に泡に混じった短い髪屑が擦りつけられている。

ジリッ…ジリッ…
ジリッ…ジリッ…ジリッ…ジリッ…

指で細かく泡を付け直されながら少しづつ丁寧に剃られていく。

剃られたばかりの頭の皮膚がクーラーで冷える。
だけどその上にまた温かいシャボンがペタペタと塗られて、それからまた剃られての繰り返しだ。

ジリッ…ジリッ…
ジリッ…ジリッ…ジリッ…ジリッ…

頭に残されている髪が3つの丸い小さな島のような形に残されて剃られている。

何十分もかけて剃髪が終わると、椅子が倒されて顔剃りだ。
頭とは違い産毛しか生えていないからカミソリが通ってもチリチリと小さな音しかしない。

最後に鏡の下のシャンプー台に頭を突っ込むような姿勢で頭を洗われる。
トニックシャンプーで剃られたばかりの頭を洗われると、妙な涼しさとヒリヒリした痛みを感じる。だけど強い力でゴシゴシを頭の皮膚を擦られる感触は少し気持ちが良かった。
頭を起こしてタオルで頭を磨かれるように拭かれて

「終わったよ。修行頑張ってね」とメガネを渡された。

「あぁ…」

メガネをかけ、くっきりと剃髪後の自分の姿を見て、私は絶句した。
剃り上げられた丸くて白い頭。
髪がなくなっても今まで露出していていた額と髪があった部分は肌の色ではっきりと分かれているし、真ん中で作っていた分け目の部分だけ茶色くなっている。

そして頭の上にハエが止まったようにチョロリと丸く残った3つの髪。

「明日、そこの部分だけはおばあちゃんに剃ってもらうんだよ」

これは「周羅髪」と言って得度で剃り落としてもらうものらしい。

明日までこんな恥ずかしい頭で過ごすのか。
いっそのこと全部きれいに剃り上げてくれた方がよかったのに。

生まれてはじめて、髪のない頭に手のひらを当ててみた。
ヒタリとした感触の中に本当にほんのちょっとだけ髪がある感触がある。
両手で鏡を見ながら頭を撫ぜてみる。
視覚でも触覚でも剃髪された自分をまざまざと思い知らされる。

長い髪の私は今日死んだ。これからはずっと坊主頭でいなければいけないと思うと、ここでようやくわっと涙が出て、止まらなくなった。

おじさんは慌てて私に「大丈夫?ごめんね。辛いよね」と必死に謝ってきた。
もちろんおじさんは悪くない。わかっているんだけど私は返事ができずに、すっかり軽くなってしまった頭を何度も縦に振りながら、散髪椅子の上で泣き続けた。

どれくらい泣いただろうか。

おじさんは困り果てて居間にいたおばさんを呼び出して必死に慰めてくれた。
泣き止むと落ち着くようにと冷たい麦茶を飲ませてくれた。
帰りにおばさんが2つの三つ編みを紙袋に入れて渡してくれた。
バイクのヘルメットを取り出して、紙袋を座席の下の収納に入れた。
ヘルメットを被ると、中の綿が剃りたての頭皮に触れてちょっと変な感触がした。

こんな頭で道草なんかできるわけもなく一目散に家路につく。
いつもバイクを停めているユウタの家に近づいた。
普段は裏庭までバイクを走らせるが、とにかく今は誰にも会いたくない。
音がしないように家の手前でエンジンを切り、帰ってきたことを気づかれないようにバイクを押して停めて、逃げるように立ち去った。
ヘルメットを被ったまま、三つ編みが入った紙袋を手に掴んで全力で石段を駆け上り、誰にも会わないまま自分の部屋まで駆け込むと、ベッドで三つ編みの髪を抱きしめてまた泣いた。

次の日の朝早く、お風呂で身を清めたあと私の得度式が厳かに執り行われた。
触覚のように頭に残っていた髪がここで剃り落とされて、頭からすっかり髪がなくなった。
寂しいという気持ちはすでになく、剃り落とされてせいせいした気分だった。

夕方、庭の掃き掃除のついでに寺に植えてある桜の木の根本を掘り、ブリキ缶に三つ編みやコームや髪留めを入れて埋めた。
さようなら私の髪。私の夢。自由に生きることをあきらめた自分を弔うつもりで髪を埋めて手を合わせた。

庭を掃いているとユウタとおばあさんが私に気がついて近づいてきた。
私の頭を見てユウタのおばあさんは感心していたが、全然うれしくなかった。
ユウタは私を見ても何も言わなかった。変わり果てた私の姿を見て何を言っていいのかわからなかったんだろう。当たり前だ。私だってどうしていいかわからない。
恥ずかしいからそれからは手拭いで頭を隠した。

数日後に京都で尼僧道場の修行が始まる。
その夜、私はウォークマンを片手に寺を抜け出して、もう一度海を目指してバイクを走らせた。
あの海からはきれいに日の出が見えるはずだ。
最後の自由な時間を過ごすために私は真夜中の道をバイクで走り続けたのだった。


※「短編小説 9月1日」の本編なります。
また「尼僧道場」とも繋がっています。合わせてお読みいただければうれしいです。
リクエストがありましたのでお応えする形で作りましたがいかがでしたでしょうか。
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