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アカデミー映画博物館④映画ができるまで〜「オズの魔法使」

次の部屋は「The Art of MovieMaking(映画制作の芸術)」がテーマです。

ハリウッドの黄金期に作られた1939年の名作「オズの魔法使」を例に、脚本作りやキャスティングといった撮影前の過程から、撮影時に関わる様々な専門スタッフたち、そして編集を経て宣伝されて劇場公開に至るまでのプロセスが取り上げられています。

展示室の入り口には、ドロシーをオズの国に誘ったあの「赤い靴」が….

ドロシーを演じたジュディ・ガーランドが撮影時に着用していた衣装のほか、勇気が欲しい臆病なライオンや「心」を持たないブリキ男、知恵が欲しいカカシといった主要な登場人物ゆかりのものが展示されています.

場内の説明書によると、MGMスタジオは主役のドロシーに当初天才子役として名を馳せたシャーリー・テンプルを起用しようと考えていました。

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西の悪い魔女ミス・ガルチを演じたマーガレット・ハミルトン(写真中央と右)。この役も当初は、ゲイル・ソンダガード(写真左)が演じるはずだったそうです。監督は「華やかな魔女」を想定していましたが、製作陣がメイクアップで魔女の顔を醜くしようとしたために彼女は去り、代わりにハミルトンが起用されたそうです。ちなみに第三の候補は、ユダヤ系のファニー・ブライスだったそう。

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こちらは衣装合わせの時の主要登場人物の写真でしょうか?

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怖がりのライオンVS西の魔女

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映画制作に関わる人々が平等に紹介されています。

監督の項目では、“最終的には隙のない作品に仕上がったが、「オズの魔法使」は合わせて6人の監督が指揮をとった。
子役の扱いに長けたノーマン・タウログは、初期のテスト映像を撮影した。
リチャード・ソープは制作の最初の2週間を監督したが、これは後に撮り直された。撮影が休止されている間に、ジョージ・キューカー(「フィラデルフィア物語」「ガス燈」「マイ・フェア・レディ」の監督)がアドバイザーとして参加し、ドロシーのブロンドのかつらと濃い化粧をやめて、カンザスの農場の少女に見えるようにしました。
撮影が再開されると、ヴィクター・フレミング(監督として「オズの魔法使」にクレジットされている)がこのプロジェクトの大部分を監督しました。
フレミングは『風と共に去りぬ』の撮影のために、キューカーに仕事を引き継ぎました。さらにキング・ヴィドーはドロシーがカンザスで「虹の彼方に」を歌う場面などを監督し、プロデューサーのメルヴィン・ルロイも繋ぎのシーンを監督していたのである”

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ちなみに中継ぎの監督として大いに貢献したキューカーは、その後1954年に、ジュディ・ガーランドを主演に「スタア誕生」のリメイク版を監督します。薬物依存や離婚などで荒んだ生活を送っていたジュディの再起のきっかけとなります。

コスチュームデザイン」。ちなみに次の部屋には、衣装とメイクアップの歴史の展示があります。

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音響」“この映画では、サウンドデザインに創意工夫が必要とされました。寒々しい風の音はエオロフォンを使い、キャラクターの声は録音速度を変えることで独特の音程を実現しました。マンチキンたちののコーラスでは、アレンジャーのケン・ダービーが率いるプロの歌手たちが通常より遅い速度で演奏し、再生時に高音に聞こえるようにしました。ポストプロダクションでは、「色の違う馬」のクリップ音が邪魔になるなどの問題に対処するため、生音源を取り除き、台詞や別撮りの効果音を入れる作業がおこわれました。MGMの音響部門の責任者であるダグラス・シアラーは、A.アーノルド・ギレスピーとともにアカデミー賞の特殊効果部門にノミネートされた“

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セットの様子。オズの国に行って、マンチキンに出迎えられる場面ですかね。

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映画会社の重役たち、つまり映画についての諸々の決定権をもつ「エグゼクティブ」の項目は興味深いです。下の写真では、ジュディとミッキー・ルーニーを慈愛を持って包み込むMGMスタジオトップのルイス・Bメイヤーがいますが、いかにも「やらせ」な写真です。

レニ・セルヴィガーデがジュディ・ガーランドを演じた「ジュディ 虹の彼方へ」でも触れられていましたが、ジュディは子供の頃から周りの大人たちから過激な体調管理、ダイエットを強いられていました。

展示の説明書も皮肉たっぷりです。アカデミー博物館の展示にある説明は、単なる事実の羅列ではなく、展示を担当する学芸員?の分析や今の時代から見て当時がどうだったかといったツッコミもあり、とても興味深いです。が、全部読むととても一日では読みきれない量でもあります…。

“1924年の創業時から1951年までメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)の経営に携わった伝説の映画王ルイス・B・メイヤーは、創作、資金、配役などを通じて数百本の映画の製作と配給を指揮し、その権力は絶大なものであった。
ジュディ・ガーランドを含むハリウッドのクラシック期の最も人気のあるスターを起用した大予算の映画を作って、MGMの評判を確立した。メイヤーはスターたちに対して非常に厳しく、スタジオはガーランドにダイエットを強いて薬物を飲ませるなどして監視下に置いていた。ガーランドは後に「何年にもわたりメイヤーから嫌がらせを受けていた」と書いたが、この写真の中のメイヤーはまるで慈悲深い家長であるかのように演じている“

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編集」のコーナーの展示は尊敬の念が込められています(笑)

 「オズの魔法使」を編集したブランチ・スウェル(1898-1949) の功績が紹介されています。ウォルト・ディズニーの義理の妹だそうです

“1920年代から1949年に亡くなるまで、スウェルはMGMの編集部で働きました。彼女は、ヴィオラ・ローレンスの指導のもと、ネガカットの仕事から映画編集者へと出世していきました。プロデューサーのマーヴィン・ルロイは、スウェルを『オズの魔法使』の編集に抜擢した理由として「情景を完璧に把握し、適切なテンポと気質を生み出す映画的テンポに対する直感的な能力がある」と絶賛しています。最初に編集されたバージョンは2時間でした。(注:上映時には101分に)削除されたシーンには、カカシのダンス、ジッターバグの歌、ジュディが「虹の彼方に」を再度歌うシーンなどがあります“

スウェルは50歳で亡くなる直前まで精力的に働いたそうです。ハリウッドの女性映画人のパイオニアの1人ですね。 

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映画をどう観客に届けるかも重要です。観客層は?誰にどうアピールするかといった戦略を練って、見たい人に届ける「宣伝」の仕事についても触れられていました。

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ちなみに私は、2021年の9月30日にアカデミー映画博物館のメインシアターの柿落としである「オズの魔法使」フルオーケストラ付き上映を鑑賞しました。

こちらがそのシアター、赤がとても印象的です

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この上映に立ち会えたこと、子供の頃から大好きだった映画を映画の都ハリウッドの記念すべき日に鑑賞できて本当に幸せでした。

博物館では毎日のように映画を上映しています。シアターの話は後日。。。気長に待っていただけると幸いです。

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