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まれ天サンプル(第38回)、『今親鸞』

函館競馬場

まれに天使のいる場所(第38回)『今親鸞』

草薙 渉

「2番、2番逃げろ。そのまま、そのままだ!」
 函館競馬場の一階スタンド。場内テレビに向かって法衣の坊さんが絶叫していた。海老反りになって、顔を真っ赤にして叫んでいた。「よーし、3番も7番も来るな。そのままだ。2番、行けぇーー!」
 周りの客が呆れ顔をしている。冷笑しながら、テレビと坊さんを交互に見ている。なりふりかまわず絶叫する坊さんの後ろで、石丸正義は何とも面白くなかった。「3番、差せーー! 2番、たれろーー!」と、石丸が思わず怒鳴った。
「やかましい!」
 坊さんがテレビを凝視したまま、一喝した。「てめえ3番、差したらブッ飛ばすぞ!」
 場内放送が、興奮した声で馬名を並べていた。スタンドがどよめいて、馬たちがゴール板を過ぎるのが映し出された。2番がぎりぎり逃げ切って、坊さんがガッツポーズであたりかまわず高笑いしていた。

「気にいらねえ」
 競馬場の出口に近いベンチで、石丸が苦い顔で言った。「テツ、おまえここへは毎週来てるんだろう。さっきのあの生臭坊主、いったい何者なんだ?」
「ナントカ寺っていう山寺の住職なんスが、変わり者で有名なんスよ。競馬の開催日には、ああやって山から下りてきて大騒ぎするクソ坊主で」と、テツと呼ばれた白髪職人刈りの男が答える。
「仏に仕える僧侶が、博打やってどうするんだ。ようし、おれが意見してやる」
「いやいや兄貴、おれたちはもう立派な実業家なんだって、そう言ったのは兄貴じゃねえですかい」
「うるせえ。おッ、いやがった」と石丸が立ち上がった。最終レースが終わって出口に向かう人々がぞろぞろと流れていた。その中で法衣に白足袋雪駄履きの坊さんは、いかにも異質だった。

「おい」
 駐輪場で古いバイクを出そうとしていた坊さんに、石丸がドスのきいた声をかけた。テツは石丸に言われたとおり、すこし離れた場所から眺めていた。
 二言三言、言い合って、坊さんがニッと笑ったとき、いきなり石丸の右腕が伸びた。凄まじいそのストレートを首だけひょいと交わして、坊さんが石丸の右肘を下から突き上げた。ほんの一瞬だった。古木の折れるような鈍い音がテツの耳まで聞こえた。
 元東日本ウエルター級三位の右を、あんなに簡単に、とテツは目を見張った。石丸が右腕を抱えて崩れたとき、どこから現れたのか二人の若者が走り寄るのが見えた。

 大門横丁に、間口三間の焼鳥屋をはじめて、もう十年になる、とテツは思った。『急患室』と書かれた部屋の中で、石丸が折れた右腕の処置を受けていた。テツは灯っている『手術中』のランプを見上げ、小さなため息をついた。
 東京の池袋で、石丸の兄貴とやんちゃしていたころは、人に言えないあれこれも随分とやった。が、もうそんなのはたくさんだ。おれは焼鳥屋の親父で、ひっそりと生きていきたい。一匹狼の高利貸しで凌いできた兄貴は、いまはたいそう羽振りがいい。だがこの十年の半分は、傷害恐喝で刑務所暮らしだったはずだ。おれは、もう老いた。昔みたいに面白おかしくやろうと言われても……。
「治療費は、もう一名の者が手配していますので」と、リノリウムの長い廊下を歩いてきた目の大きな若者が言った。
「あんた達は、いったい何者なんだ」
 テツは硬い長椅子に座って、立ったままの若者に尋ねた。
「あのお上人さまに師事したいと、熱望している者でございます。お許しはまだいただけませんが」と、若者は澄んだ声で答えた。
「弟子志願? あの坊さんは、そんなに偉いのか?」
「真宗ではごく少数派ですが、今親鸞と、そうお呼びになるお方もおります」
「なんだか知らねえが、坊さんが博打するってのは、おれにはわからねえ」「『歎異抄(たんにしょう)』にもありますが『煩悩具足(ぼんのうぐそく)』と申しまして、浄土真宗においては肉食妻帯ともども、親鸞聖人以来容認されております。そしてあのお上人さまは、念仏の極楽往生以上の解釈、つまり、この世の今を極楽として生きることを実践なさっているお方で、お上人さまのそのお人柄にふれ、影響を受けた人は数知れません」と若者の目がことさら輝いたとき、『手術中』のランプがふっと消えた。
「ふーん、今親鸞ねえ」とつぶやきながら、テツが立ち上がった。

「許せねえ」とベッドの石丸は言った。「おれが3番から馬単で六十万も流してるのに、あの坊主2番の単勝百円であんなに大騒ぎしやがって、おれを怒鳴りつけやがった。しかもおれの右を交わして肘までへし折られたんじゃ、おれの今までの人生を全否定されたようなもんだ」
 真っ白なギプスが異様だった。
「しかし兄貴、あの坊さんはフツーじゃねえみたいスよ」
「そりゃあそうだ。おれの右があたらねえとは。で、あの現場にいた二人の若造は何者なんだ?」
「兄貴の手術までは一緒にいたんスが、あの坊さんの付き人というか、そんなあたりで」
「まあ、なんでもいい。テツ、とりあえずあの坊主の寺を調べとけ」
 怒りに燃える石丸の目に、テツは黙ってうなずくだけだった。

 翌日病院に行くと、二、三日の入院を言われていた石丸のベッドが空になっていた。病室で首をかしげていたテツの携帯電話が鳴って、「寺の場所はわかったか?」と、石丸の低い声が聞こえた。調べた住所を告げると、「そうか、おれは札幌でチャカを調達してくる。また電話する」と、あっさりと切られた。
 うーん、とテツが眉にしわを寄せて振り返ったとき、「どうも」と昨日の若者が大きな花束を手に立っていた。
 勝手に退院しちまったようだ、とテツは告げた。拳銃を調達しに行ったとは、とても言えなかった。「それであの坊さん、武術は相当なものに見えたが」
「若いころのご経歴は謎ですが、われわれは、命に代えてもお守りする覚悟でございます」
「しかし昨日のあんたの話。どうにも釈然としねえなあ」と、テツはベッドに腰掛けた。「煩悩や喜怒哀楽はそのままで、念仏だけ唱えてりゃいいってのは、なんともなあ。しかも悪人優先で極楽へ行けるっていうのなら、おれや兄貴なんかヴィップ待遇だ。そういうことなら、世間の人間は誰だって悪行三昧になる」
「ですから、それは『本願ぼこり』と言ってきつく戒められております。善悪には宗教生活上の解釈と、社会生活上のそれがあって、同じものではないのです」
「うーん」
「そもそも、阿弥陀仏四十八願の第十八番目の願いは、本願といわれております。自分に救いを求める者すべてを極楽往生させよう、それができなければ自分は仏ではない、という阿弥陀仏の本願を、念仏を唱えて全身で信じることこそが、われわれの宗教生活なのです」
「まあいいや。よくわからねえ」と、テツは面倒くさそうに首を振った。

 翌日、テツは久々に喪服を着た。
 二軒隣の居酒屋の娘が、昨晩亡くなったという回覧板が回っていた。わずか三歳なのに、生まれてからずっと病院暮らしの生涯だったと聞いている。
 テツは喪服のポケットに携帯電話を入れて店を出た。石丸の携帯電話は、掛けるとき以外は常にオフにしているので、いま何処にいて何をしているのか、こちらからは知りようもない。
 ここで,石丸の兄貴が事件を起こしたら、当然おれも警察に呼ばれるだろう、と重い気分で雨の街を葬儀場へ向かった。

 パイプ椅子に座って、読経している坊さんの後姿を見ているとき、おやッと思った。読経が終わって、親戚の方からご焼香を、と振り返った坊さんは、正にあの競馬場の坊さんだった。同時に、テツは嫌な予感がした。もしこの場に、石丸の兄貴が拳銃を手に現れたら、おれはどうすればいいんだ。
 型どおり焼香を終えて、参列の人々を確認しながら帰りかけたとき、出口のあたりにあの二人の若者がたたずんでいた。
「身辺警護、ごくろうさん」と、テツは二人の若者の隣で煙草をくわえた。若者二人が黙礼した。その口元が四六時中わずかに動いていて、テツはそれが気になった。
「独り言か?」
「いえ、吸う息、吐く息で念仏を唱えております」と目の大きな青年が答えたとき、背後で異様な声がした。
 くわえ煙草のまま振り返ると、遺影の前の坊さんが絞るように号泣していた。遺族の手をとって、子供のように身も世もなく泣き放っていた。
「お亡くなりになった娘さんのお話を聞いて、深く感情移入なされているのでしょう」と、目の大きな青年が言った。「喜怒哀楽。お上人さまはご器量、感情量ともに壮大なお方ですから、その生き様に感化され、人生が根底から覆る方も少なくありません」
 あたりかまわず号泣している坊さんを見つめて、テツは煙草に火をつけるのも忘れていた。

 あれから一週間がたつのに、テツの携帯電話は鳴らない。毎日恐る恐る開く新聞にも、息を殺して見つめるテレビのニュースにも、石丸のイの字も出てこない。どうなっているのか? まだ事件は起っていないようだが、まあここで心配していても埒があかない。テツは店の下ごしらえを済ませ、いつもの土曜日のように競馬場へ向かった。
 正門から入って一階スタンドを歩いていくと、長髪を後ろに束ね、革ジャンにロングブーツの中年男とすれ違った。その左手の甲に大きな星のタトゥーがあって、もう若くはないのに、いまだにやんちゃしている奴もいる、と小さく笑った。とそのとき、ふと視線を感じた。あの坊さんに師事熱望している目の大きな青年が、柱を背にたたずんでこっちを見ていた。
 近づくと、「とても、とても羨ましいです」と言って視線を走らせた。その視線をたどると、あの坊さんが、今親鸞が先週と同じテレビに向かって、「6番行けー、逃げろー」と絶叫していた。そのすぐ隣に、右腕ギプスの石丸がいた。
 なんと青々と頭を丸めた石丸が、「そうだ、そのまま行けーー」と、坊さんと同じように体を海老反りに絶叫していた。(了)


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