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まれ天サンプル(第44回)、『ピンクのケータイ』

札幌競馬場、『ピンクのケータイ』

 草薙 渉

 無数の背中や後頭部。JR桑園駅から、同じような風体の男たちが同じ方向に流れていく。この一人一人が全部、一個一個の人生や事情を抱えているのだ。
 そしてそれはまた全部途中で、その場その場の一瞬でしかない。そんなとりどりに様々な人生が集合し交錯する場所、などと、とりとめのない思いにひたりながら、谷は無数の背中や後頭部を見やった。

 それにしても、明日でいよいよ三十か、と谷はため息をつく。群れの中の一匹。いつでも取り換えの利く歯車の一個。
 二十のとき三十と聞くと、はるかに落ち着いた大人に思えた。だけどなってみると、何も変わっていない。大学を出て十年で人生のおおよそが決まるというが、それもあと三年か。
 あぁ、何かやりがいのある、大きな仕事がしたい。だけど、ここから三年で劇的に進展するとも思えないし、僕の人生もこのままずるずるとじり貧に流されて行くのか。

 正門から入った札幌競馬場は、まだ第一レースには時間があって人影もまばらだった。谷はベンチに座ってウマ新聞をひろげた。眼前を真っ黒なシャツにサングラスの男が通って、少し後をまるで尾行しているように、目つきの鋭い二人の男が通り過ぎた。その後ろの男が上司の黒川課長に似ていて、谷はにわかに不愉快になった。
 それにしても、黒川課長のあの性格の悪さはどういうことだ。まったくもって思い出すと腹が立つ、と込みあげて来た怒りに眉をひそめた。

「おまえ、この会社に入って何年だ?」
「八年です」
「二千九百二十日。七万八十時間」と、黒川課長は叩いた電卓の数字を見せた。「これだけかかって、おまえは企画書の様式ひとつわかってない。やり直し!」と、僕が三日がかりで書き上げたA4三十八頁の企画書を投げ返した。構想半年。新製品販売拡張の渾身の企画だった。
「わかりました」と、か細い声で答えながら、限りなく殺意に近い感情を抑えた。様式? そんな些細な形式の瑕疵よりも、大事なのは中身だろう。ったく、ろくに内容を読みもしないで印象と気分だけで突っ返した。部長とか役員にはへつらい、下にはコーヒー一杯おごったこともない黒川。だったら内容のある企画書、自分で書いてみろ。

 開いている馬新聞が少しも頭に入らず、とりあえずコーヒーでも、と谷は立ち上がった。
 そのとき、踵に何かが当たった。見ると、足元にピンクの携帯電話が落ちている。拾いあげると、シンプルな二つ折。だがそのピンク色が、気のせいか薄く発光しているように見える。まぁ、場内案内かどこかへ届けるか、と谷は歩きだした。
 スタンドに入って場内案内を探していると、手に持ったケータイがいきなり震えだした。同時に、聴いたことのない着信音が流れた。一瞬躊躇して谷はケータイをオンにした。

「あんた。あたしのケータイ拾った人だよね」
 クリアな女性の声だった。
「えーと、そうですが」
「いま大通公園にいるんだけど、そっちに戻るからそのケータイ持ってて」
「あッ、でも場内案内とかに届けたほうが」
「ちゃんとお礼はするからさ。それとね、ついでと言っちゃあなんだけど、ひとつ頼まれてよ」
「なにを?」
「これからタクシー飛ばしてもギリギリだし、第一レースの馬券、買っておいて欲しいんだよ」
「えーと、それは幾らくらい?」
 ちょっとむっとしながら谷は聞き返した。
「そうだねえ、十万と言いたいけど、あんた持ってる?」
「いえいえ。そんなには」
 馬鹿言ってるんじゃないよ。こちとらタネ銭は日に三万と決まってるんだ。それも、午前中は三千円までと強くいましめている。
「しょうがないねえ。じゃあ一万でいいや。馬単の2―3に一万」
「いやいや、三千円までにしてくれませんか。そこまでなら何とか」
 なんで僕がお願いしなくてはならないんだ、と思いながら谷は言った。
「ビンボー人にケータイ拾われたのも、運だねえ。まぁいいや、じゃ三千円。競馬場に着いたらまた電話するから」
「わかりました」と答えた自分がみじめだった。なんで朝からこんな理不尽な目に遭うのか。馬単の2―3て、何だよ万馬券じゃないか、と新聞を見つめた。

 第一レースの馬がゴール板を過ぎて、谷は一般席から呆然とターフビジョンを見つめていた。ほんとに、2番3番の順で、入った。これが、なんと三、四十万の有価証券になった、と手の中の馬券を見つめた。その当たり馬券をじっと見つめているうちに、「貰っちまえよ」と内なる声がした。
 そうか、ピンクのケータイをゴミ箱に捨てちまえば、この有価証券は僕のものじゃないか。谷はそそくさと歩きだした。
 一階スタンドにゴミ箱を見つけてポケットのケータイを取り出したとき、まるで生き物のように震動が来た。同時に、先刻の着信音が流れる。鳴っているケータイをゴミ箱に捨てることもできず、谷はため息をつきながらケータイをオンにした。
「あんた、いまケータイを捨てようとしたでしょ」といきなり言われて、「いやいや、そんなことは」と谷は慌てた。
「右側の煙草の自販機を見てごらん」
「えッ」と顔を起こすと、ジーンズにデニムのシャツの女性が手を振っていた。四十から六十、そのどの数字を言われても納得できそうな年恰好の女性だった。
「やっぱり、ここにもいたんだねぇ」と女性は言った。
「僕ですか?」
「いやいや、半端天使(ハーフ・ブリード)のルシファーさ。堕天使だよ」「ダ天使?」何のこっちゃ。これは、アブナイおばさんかも知れない、と谷は緊張した。
「人の心にささやいて、悪さするやつさ。でもね、あたしの罠に引っ掛かってあんたにささやいたわけだから、当分はシュンとしてるさ」
「いったい何の話ですか?」
 ケータイを二つも持って、このおばさんはいったい何者なんだ、と思いながら谷が訊き返した。
「つまり、あたしの当り馬券を手にして、あんた、ケータイ捨ててネコババしようと思っただろうよ。あんたにそうささやいたのが、ルシファーさ」「僕に……」
 そう言えば、誰かにささやかれたような。
「じゃあ、ケータイと馬券」と女性が手を出した。
「あッ」と、谷はピンクのケータイと当たり馬券を彼女の手に載せた。
「とりあえず、立て替えてもらった三千円と、何かお礼をしなくちゃね。蕎麦でも食うかい?」
「そう、ですね」なんだ蕎麦かよ、と思いながらうなずいた。

 割り箸を割った女性が、蕎麦を啜っている谷をしげしげと見つめて、「なるほどねえ」とつぶやく。
「えッ、何が?」
「あんた、優柔不断そうだもんねえ」
「………」
 何を言っているんだ。大きなお世話だ、と谷は黙々と蕎麦を啜った。
「蕎麦だけじゃ何だし、次のレース教えようか」と女性が言った。すでに締切五分前を告げるアナウンスが流れていた。

「その、さっき言ってたダ天使って、何ですか?」
 スタンドに並んで立つと、第二レースの馬たちが輪乗りしているのが見えた。
「天使にもいろいろいるわけさ。あたしみたいな大物は、こうやってきちんと姿を現せるけど、下っ端は声だけでね。面白そうな人間や場面を見つけると、ささやいて遊んだりするんだよ」
「遊ぶ?」
 大物の天使って、これはやっぱりアブナイおばさんだ、と谷は確信した。「あんた、誰かのちょっとした一言で、にわかに凹んだことないかい?」「まぁ、そういうことも、あったかも……」
 そう言われて、昨日の黒川課長の顔が浮かんだ。ファンファーレが鳴って、各馬がゲート入りしていた。
「逆に、わけもなく勇気が湧いたとか、急に強気になっている自分にあらためて驚いたこととか?」
「うーん、そういうのも、あったような」
 何の根拠もなく、馬券購入でにわかに自信を持って1番の馬から流したり、もっと買い足してもいいと思ったり、たしかに、そんなときがあった。「それはね」と、女性は言った。「あんたの気持ちに、悪魔や天使がささやいたときなんだよ」
「僕の気持ちに?」
 いかんいかん、真剣に聞いてどうするんだ。
「そう。誰かの口を借りたり、あるいは風とか雨とかの森羅万象に託して、あんたの気持にダイレクトにささやくわけよ。そしてその反応を楽しむ」
「………」話の途中でスタートが切られて、ひとかたまりに向こう正面をいく馬群が見えた。
「あたしゃそういう、下っ端の悪さを取り締まりに来たわけさ」と、向こう正面を行く場群を見やりながら女性が言った。
「何処から、来たんですか?」
「だからぁ」と、女性が空を指さす。
「うーん、なんだかなぁ」
 歓声が湧いて、四コーナーを回った馬たちが眼前を通り過ぎて行った。「あんたちっとも信じていないようだけれど、あたしゃ天女なんだよ。上の世界じゃ大天使と呼ばれているんだ。もっと畏れ入って、尊敬してくれなきゃ」
「それにしちゃこのレース、全然違ってたしぃー」と、谷が手にした三連単の馬券をひらひらさせる。
「あんたねえ、えらそうに言うんじゃないよ。だれにだって間違いはあるだろう」と女性が開き直って逆ギレした。
「しかし三千円も行くんじゃなかった。第一レースがあれだったから、もしやと思ってついつい三千円も」
「そういう細かいこと言ってるから、あんたの人生、開けないんだよ」と彼女が言ったとき、あの着信音が響いて彼女がピンクのケータイを耳にあてた。
「そうなんだよ。昨日打ち合わせた通り、ゴルフ場へ向かってる爺さんにささやいていたから、十万突っ込むつもりの第一レース、三千円しか買えなかったんだよ。おかげで大損だよ」と何やら愚痴りながら、谷のポケットを指さす。
「えッ?」
 一拍置いて、指さされた谷のポケットのケータイが鳴りだした。着信は、二週間ぶりだった。
「もしもし」
「谷クン。統括部長の坂本です」
 統括部長から直接の電話など初めてで、「はい、谷です」と緊張して応えた。女性も、ピンクのケータイでまだ何やら話している。
「社長に呼び出されて、いま会社にいるんだ」と統括部長は言った。「ゴルフを取りやめて会社に寄った社長が、キミの机の上にあった企画書を読んで、急きょ呼び出されてね」
「休日出勤、ごくろうさまです」
 企画書? あの、黒川課長にボツにされたやつを? 社長が、読んで??「私も読んだが、社長が大絶賛でね。この企画を是非とも実行してみたいと言っている。ついては、起案者であるキミをチーフにして、プロジェクトチームを立ち上げたいと思う」
「ほッ、ほんとうですか」と谷の目が全開になった。
「もし市内にいるのなら、今から出社しないか。私も社長もしばらくいるから」
「すぐ行きます」と即答した。
 ケータイを閉じた女性が穏やかに微笑んでいた。不思議なことに、女性の向こうの風景がうっすらと見えているような、気がした。
 そのときになって初めて気がついた。女性の着ているデニムのシャツにジーンズ。天衣無縫というけれど、上から下まで、その何処にも縫い目がない。女性の姿が見る見る薄くなって、微笑みを残したまますうっと消えた。(了)


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