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まれ天サンプル(第49回)『キューピットと馬券必勝法』

 この物語に登場する馬券必勝法は、競馬などやったことがない、という人にはぐちゃぐちゃでわかりにくいと思う。が、連載中の原稿を最初に読んだ月刊誌「優駿」の編集長は、実際に終わったレースで幾つかシミュレーションして、感心してくれた。この物語を書くときは、私も当時の福永騎手を想定して、前週の結果に擦り合わせてプロットを構築したものだった(結果論ながら、実行していれば、この物語のとおりの大儲けだったのに)。

草薙 渉

 世の中には絶対などというものは、ない。二十四年間生きてきて、そんなことは痛いほどよおわかっとる。だがじっくりと研究を重ねて来たこの方法は、絶対に近い。というか、ほとんど絶対と言い切ってもええ。
 第一回阪神競馬初日。陽介は競馬新聞を握り締め、確信に満ちた目で阪神競馬場の正門のど真ん中から入場した。そしていつものように、まずは馬頭観音へ直行した。
 まぁ、見とってや、と馬頭観音の賽銭箱に十円玉を二つ投げ込んで陽介は頭(こうべ)を垂れた。僕の考案したこの馬券必勝法が、研究通り大成功すること。それと、ついでに一階の売店の瞳の大きなあの娘と、メール交換が出来るようになること。この二つ、どうかどうか、叶えてください、と派手に拍手を打って手を合わせる。それにしても馬頭観音さん、毎週こうしてお願いしとるけど、いっこうに聞いてくれまへんなぁ。そやけど、今までのことはすべて水に流します。せやさかいに、ここからは、あんじょうたのんまっせ。今日はいつもの倍額の賽銭をきばったことやし、ほんまに、ショーミたよりにしてまっせ、と深々とまた頭を下げた。陽介の後ろに立っていた柿色のハンチングの老人が、待ちかねたように馬頭観音の前に進み出た。 

 馬頭観音の参拝を終えて鉤方の参道を曲がったとき、スペースキッズのほうから全速力で駆けて来た女の子が陽介にぶつかった。赤いスカートの女の子は小学三年生くらいか、陽介の腰のあたりに激突して派手に転んだ。
「大丈夫か?」
 陽介は女の子に駆け寄って抱き起こした。女の子は驚いた顔のまま、今にも泣き出しそうだった。しゃがんだ陽介が女の子を抱え起こして、短いスカートの土埃を払い落としてやる。そのとき、通りかかった臙脂色のカーディガンのおばさんがこっちを見ていた。泣いたらあかんよ、と陽介が女の子の乱れた髪を直してやっていると、そのおばさんが血相変えて走りよってきた。
「香奈ちゃんやないの。どないしたん? 何されたの?」と、おばさんが女の子を抱きかかえる。
「いやいや、そうやのうて」
 おばさんの勢いに気おされた陽介が、口ごもったままスタンドのほうへ行きかけると、「ちょっとあんた、逃げたらあかんよ」と、おばさんが素早く陽介の腕をつかんだ。
「に、逃げるて、そんな」
「あら、あんた、どこかで見たことあると思うたら、最近弁天池のマンションに越してきた人やろ」と、おばさんが目を三角にして言う。「あのマンションができたお陰で、うちは午後一時以降、ひとっつも日が当たらんようになったんや」
 女の子が、うつむいたまましきりにしゃくりあげていた。擦り剥いた膝に血がにじんでいる。
「あたしが通りかかったからよかったものの、あんた、今度こんなことしたらケーサツ呼ぶよ」と、おばさんがすごい目で睨みつける。
「こんなことって、いやいや、そうやないて言うとるのに」と、陽介は消え入るように言いながらスタンドへ歩いた。

 何でこうなるんや。まったく、朝からえらい災難や、といつものようにファーストフードコーナー裏の売店へ直行した。そしてカウンターの中にいる瞳の大きな娘に、「サンドイッチとコーヒー」と言った。
「今日はちょっと早いですね。本開催やからですか?」と、紙コップにコーヒーを入れながら瞳の大きな娘がそう言った。そういえば、会話らしい会話は初めてのことだった。
「あッ、そうかも知れんね」
 陽介は上気した声で答えるのがやっとだった。そうか、場外発売からずっと毎週通っとるから、僕のこと覚えてくれとるんや、と陽介は霊験新たかな馬頭観音に感謝した。それにしては、先刻の濡れ衣は、とまでは、考え及ばなかった。

 そして第一レース、陽介は昨晩決めたとおり3番の単勝を百円だけ買った。結果は惨敗の八着。第二レースも2番の単勝を百円だけ買った。結果は四着と馬券は外れた。まぁええんや、これも想定内やと、第三レースは9番の単勝を二百円買った。結果は差のない四着で、やはり馬券は有価証券に変わることはなかった。
 第四レースの障害はパスする予定だったので、また一階の同じ売店に行った。忙しげに立ち働いている瞳の大きな娘に、「洋風弁当とコーヒーくれる」と声をかけた。その眼前に、今までカウンターの向こうにかがんでいたおばさんがすっくと立ちあがった。
「あら、あんたさっきの」
 上にエプロンこそしているものの、臙脂色のカーディガンを着たあのおばさんだった。
「洋風弁当とコーヒーですね」と瞳の大きな娘がこっちを向く。睨みつけているおばさんを尻目に、陽介は代金を払って洋風弁当とコーヒーを受け取る。そしてそそくさと売店を後にした。振り返ると、おばさんがこっちを指差して瞳の大きな娘に何やらひそひそ話している。あかん、最悪や。これでもう、なんもかんも木っ端微塵コや、と陽介は頭を振った。
 
 第五レース、四百円買った単勝5番が二着以下を八馬身ちぎって圧勝した。しかも単勝は七・九倍つけて、トータルで二千三百六十円儲けた。よっしゃ、小さくても勝ちは勝ちや、と陽介は半分だけ願いを叶えてくれた馬頭観音に感謝した。もう今日は競馬だけに専念や。
 それからは一階のあの売店へは行けず、六、七、九~十二レースと陽介は立て続けに負けた。掛け金はわずかだったから、トータルでほんの少しの負けとなった。が、それでも陽介は納得していた。僕のあみ出したこの買い方。この必勝法は、理論的に間違いない。問題は明日や。明日は、この続きがある、と阪神競馬場を後にした。

 陽介の考案した馬券必勝法とは、要するに単勝の倍々買を工夫したものだった。まず気に入った騎手を決める。なるべく乗鞍が多く、単穴を開ける騎手がいい。騎手を決めたら、その単勝馬券をまず百円買う。負けたら次のレースも百円買う。三回目以降、その騎手が勝つまで二百円、四百円、八百円と倍々に投資していく。だからどこかでその騎手が一着になって、単勝が二倍以上のオッズならそれまでの投資金額を上回って儲かるという寸法だ。
 たしかに、資金が無限にあればこれは必勝法なのだが、陽介の経済事情から、最後の天井賭け金を十万二千四百円、トータル賭け金二十万四千八百円で、一ロットの負けの上限に設定した。
 つまり狙った騎手が十二回騎乗して、そのうち一回でも勝てば儲けで、そこからまた百円スタートするという方法だった。

 
 翌日の二日目。前日の六レース連続負けを継続した七レース目の三千二百円を、同時開催の中山第一レース、単勝15番にぶち込んだ。昨日買い続けた騎手が、日曜の今日は中山競馬場で騎乗しているからだ。
 だが場内テレビ中継で見た結果は、なんと15番は発走後競争中止。そして中山第三レースも結果は六着で、その後第四、六、九レースと負け続けた。
 うーん、いつかは勝ってしかるべきやのに、こうして負け続けると勝てるような気がせえへん。スタンド内を歩き回って疲れた陽介は、いつもの売店には昨日のおばさんがおるやろうし、と結局一度も行けなかった。

 そして中山の第十レース。投資額は上限の十万二千四百円。ここで勝ってくれな、一ロットが終了して二十万四千八百円の丸損や。今度こそたのむでぇと、単勝2番の馬券に震えながら十万二千四百円をぶち込んだ。そしてオッズを見ると、なんと絶望的な六番人気。陽介はいささかやけになって、気がつくとスタンド一階のいつもの売店の近くまで来ていた。
 
 と、なんと売店の中からあのおばさんが手招きしている。えッ、僕? と自分の鼻を指差しながら、陽介は引き寄せられるように売店へ歩いた。
「あんた、ごめんねぇ」と、おばさんは満面笑みで言った。「昨日帰ってから香奈ちゃんに聞いたんやけど、あんた転んだあの子をいたわってくれただけやったんやてなぁ。それにさっきも、柿色のハンチングのお客さんが来て、あんた昨日馬頭観音さんで、信心深い青年を犯人扱いしとったやろて、えらい叱られたわ。ほんま勘違いして、ほら、きょうびおかしな男がよおけおるから。ほんと、うたがったりしてごめんなぁ」
「おばちゃん、早トチリやしなぁ」と、後ろで瞳の大きな娘がころころと笑っていた。「この人は常連さんやし、悪い人やないと言うてるのに」
「そやかて、最近はおかしなのが多いし。この人サッカーの本多みたいな頭してるし」
「あら、わたし本多好きやよ」と、女の子があっけらかんと言った。
「よッ、洋風弁当とコーヒーくれる」と、陽介はいっぺんに陽が差してきた思いで言った。
「はい、いつものやつですね」と、瞳の大きな娘が元気よく応える。

 場内に歓声があがって、振り向くと中山競馬第十レースがテレビ中継されていた。あぁ、もう走っとるやないか。細めた陽介の目に、2番の馬が一着でゴールするのがチラリと見えた。おッ、おッ、2番って、ビンゴやないか。
「おおきに」と洋風弁当とコーヒーを受け取って、陽介はそそくさとテレビの下に張り付いた。スロービデオで見ても、2番の馬が明らかに一着だった。たしか六番人気やったし、うう、いったい幾らつくんやろと、心臓が喉元まで競りあがってきた。
 やがて単勝2番、一千三百十円のアナウンスがのどかな声で流れて、「ということは、十万二千四百円の投資やから、ひ、百三十四万……」と、陽介は思わずつぶやいた。手にした紙コップのコーヒーがこぼれそうだった。
 馬頭観音さん、おおきに、ホンマおおきに。こんなに勝ったんは、生まれて初めてや。それにあの瞳の大きな娘とも、にわかにええ感じになっとるし、そうか、あの赤いスカートの女の子は、馬頭観音さんが使わしたキューピットやったんか、と陽介は思わず売店を振り返った。
 カウンターの奥から、陽介の視線に気づいた瞳の大きな娘が、こっちに向かって小さく手を振るのが見えた。 (了)

(この必勝法は丁半博打で本当の馬好きにはお勧めできませんが、とりあえず、終わったレースでシミュレーションしてみて下さい。ただし馬券は、最初にロット数を決めてそこで負けたらスッパリやめること。馬券は自分が自分に試されるもので、すべて自己責任!)


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