希望への恐れ
氣づきが深まってきたからこその恐れがあると思ってる。
彼女は、子どもの頃に願っていた幸せを創造している。叶えてしまったのだ。まさに彼女自身がそこに自分を連れてきたのだ。それは間違いない。
遡ること、13年ほど前に彼女と出逢った。ひょんな出逢いだったが、とても印象的だった。というのも、私は、彼女のことについて何も知らなかったし、何も聞かなかった。お会いして、ご挨拶はしたと思うけど、ほとんど話をしなかったと思う。
震災後のイベントでゲストと一緒に来仙して、2、3日一緒に活動したけれど、彼女は黒子のように裏方に徹していた。そして、氣づくと彼女はずっと泣いていた。何か感じているのだろうと思って、そういう時ほど、私は何にも触れない。自分と触れ合っている時間を邪魔したくない。
きっと彼女自身、どうして泣いているのか、わからなかったと思う。
ずっと、ずっと後になって
「あの時は、わからなかったけど、
今のままでは(我慢していては)自分の思い描く幸せにたどり着けないと思った」
と話してくれた。
私たちの活動や雰囲気に触れて、そう思ったという。彼女の感性が素晴らしい。
「何も言わずに伝えられるBeing(存在感)」の真髄を受け取ってくれたと、とても嬉しかったことを思い出す。
そこからの激変の折々を思い出しながら、「希望が見えたことの恐れ」という彼女の底力にまた痺れる。
もう充分、思い描いた以上に幸せ。だからこそ、怖い。
離婚前後の「幸せになる!」というパワーはすごかったと思う。
「もういや!幸せになってやるー!」
「この際、地獄へ落ちてやるー!」
大変なことが起こっている時は、どうあれ、何を選ぶかに関して、パワーが働きやすい。天国へも地獄へも、パワフルに行けるのだ。
果たして、彼女は幸せを選んだ。
それでも更にチャレンジは続く。氣づいたからこその、チャレンジがある。
だけど、そのチャンレンジは超えてもいいし、超えなくても幸せは変わらないからスルーもできないことはない。
折り合いをつければいいという話。。。のようで、そんな話ではないという側面もあるw
もう自分が氣づいたことを無視できない。
自分をとことん幸せにするという世界が見えてしまうのだから。
本当にそれでいいの?
本当はどうしたいの?
という声が聴こえちゃうから、心がヒリヒリするのだ。
どうあれ、ここまで来たら、どうすればいいかは、自分の内側から導きがある。しかも、現実的に自分を大切にしてくれるサポートメンバーが惜しみない愛をくれる。それもまた彼女が創造(選択)したものだ。
のんびり「これどうなっていくんだろう?」としばらくモヤモヤ、ヒリヒリしていてもいいところ、もう希望を受け入れているところが早いw
私の会のすごいところ(!)は、参加者が相互に自分の過去や未来を別の次元で体験してこれるみたいなところ。意識的にも、無意識的にも。
集まる参加者の皆さんのおかげであり、多次元話法の妙かと思っている。
最後に大切なことを。
「氣づいたら、氣づかなかった頃に戻れない」
これは真実だと思う。
ところが!
彼女も言う「希望への恐れ」はかなり大きい。
知っているパターンに入って、まあまあの世界に戻る方が安全だと感じてしまう。
でも、知ってしまったことは知らなかったことにできるはずもなく。
知らないフリや希望なんてウソだ、そんなはずがあってはならないと、そこに全力で戻ろうとするパワーはまた激しい。
逆行を厭わず、過去に戻ろうとする人は消耗し、老け込む。
これは自分の恐れと自分を信じる学びに入ったということだと私は思っている。
難しく考えなくていい。
もっと、自分に素直でいいのだと私は思う。
答えはきっと自分の中にある。
私はそう思っている。
そうとしか思えない。
というわけで、私は、彼女の底力に痺れているのだ。
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