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萌えはなぜ衰退したのか 萌えはどうすれば再興するのか

我々は何故に言葉を用いるのか?
→言葉が必要になったからだ。

何故に言葉が必要になったのか?
→言葉でしか伝えられないものがあったからだ。

言葉でしか伝えられないものは何か?
→それはクオリアだ。
空の青さを、リンゴの赤さを、あらゆる物理的でないもの、個人が感じている『世界』を、個人のみが感じうる感覚を我々は言葉として共有し得るに至った。

コウモリであるとはどのようなことか」を我々は知る術無い。コウモリは言葉を持たないからだ。しかし我々は言葉を得た。

言葉は形のないものを言葉として存在させる。心に存在を与える。
0に意味を与え、それを1にする。心に意味を与え言葉にする。
我々は言葉があるからこそ己の感情を1として表すことが出来るのだ。

我々は言葉を通してのみ自分が観ている『世界』を伝えることが出来、他者が観ている『世界』を知ることが出来る。


はじめに

萌え=概念
”萌え”=感情
「萌え」=言葉

「萌え」という言葉は1980年代後半から1990年前半の間に生まれたとされ、ときめく感情を表す言葉として現代まで用いられてきた。時代の中で漠然と生まれた言葉であるために起源は諸説あり、今現在に至るまではっきりとしていない。そのような言葉であるからして言葉の用法を定める者は無く、議論はあれど決着していないのが現状だ。

しかしながら起源も用法もはっきりしない言葉である「萌え」はその様から己の感情を代替する言葉としての汎用性・利便性を持ち、広がり続けてきた。本来はオタクが美少女キャラクターに対して使っていた言葉はあらゆる意味を内包していき、今となってはその対象に人や廃墟などが含まれるまでに。

では「萌え」という言葉は何処でも使われる言葉になったのだろうか?「萌え」という言葉をSNSや大衆的な場所で見かけるだろうか?
少なくとも私は萌えを観測することは少なくなったと感じる。代わりに「尊い」「エモい」「推し」という言葉をよく見かけるようになった。

2023年、人は現状から萌えを衰退したと言う。「萌え」は死語であると言う。
しかし私の中には”萌え”の感情が、萌えへの想いが今なお残っている。

このまま何もしなければ私は、いや我々は萌えに対して何も決着をつけないままに、何故に萌えが衰退しているかも知らずに萌えという言葉を、文化を失ってしまうだろう。

だからこそ我々は今、能動的にならなければならない。

本記事の主目的は『決着』だ。萌えがどのように在るのか、どうして衰退しているかを熟考する。そしてオタクとして受動的に萌えを享受してきた我々は衰退する萌えに対して今後どのように向かい合っていくべきなのか、美少女オタクとしての在り方に決着をつけるのだ。

萌えはなぜ衰退したのか

萌えが衰退しているということを証明するのにデータを用意する必要はない。”萌え”と「萌え」が如何なる性質を持つのか、「萌え」がどのように用いられてきたかを突き詰めると自ずと衰退の理由が浮かび上がる。

結論から述べよう。萌えは萌えであるからにして衰退する


萌えは現代においてどのように認知されているのか。

2018年に広辞苑に俗語として収録された「萌え」は『〔俗〕ある人やものに対して激しく心をときめかすこと。』と記載されている。「ときめく」という言葉は『プラスの感情で胸がドキドキする』という意だ。つまり”萌え”を『胸がどきどきするようなプラスの感情』だと定義している。ここにおいて『何に』『何を』感じたかは指定されておらず、個人の解釈により決定されるものと考えてよいだろう。

実際に「萌え」という言葉は美少女キャラクターに対するプラスの形容し得ない感情を、"萌え"を「萌え」と言う他に適切な表現が見つからなかった為に生まれ、そう用いられてきた。それぞれが己の形容し得ない感情に対して意味を与えるために、その感情を代替的に「萌え」として置き換えてきたのだ。

つまり”萌え”は「萌え」という言葉を知っている観測者が在り、対象が在り、観測によって観測者の内に形容し得ないプラスの感情が発露した場合に生じる(芽生える)。観測者と対象の組み合わせの数だけの”萌え”が。

そして観測者と対象の組み合わせの数は「萌え」という言葉が広がれば広がるほど、対象であるコンテンツが増えれば増えるほどに増加する。オタク文化が広がると共に「萌え」は広がり一般化し、”萌え”は型を増やし、多様化した。

そのように萌えの有する増殖性が「萌え」の意味を拡大し続けた結果、「萌え」は対象に対する激しい心のときめきとは不釣り合いなほど意味が希釈してしまった。己を”萌え”足らしめた相手に対する感情の熱量は一般的な「萌え」という言葉から感じる熱量と乖離してしまったのだ。

仮に「萌え」という言葉で感情を伝えられても、その言葉から受け取れる情報は『"萌え"ている』という事実のみだ。だから「萌え」という言葉は己のクオリアを他者に伝える言葉として相応しくない。

それこそが萌えは萌えであるからにして衰退する理由であり、萌えの性質として"萌え"自体は個人個人の内に生じているにも関わらず、出力する際に「萌え」という言葉は使われない=萌えが衰退しているということなのだ。

萌えの有する増殖性と、形容できない感情を置き換えるという用法によって「萌え」は死語になり「萌え」が使われないことで萌えは衰退した。

私は「エモ」「推し」「尊い」が台頭してきた理由もここにあると考えている。本来はこの3つの言葉が持ち得る意味も「萌え」の中に含まれていたはずである。しかし、その感情を他者に伝える際には「萌え」よりも「エモ」「推し」「尊い」の方がより正しく伝わる。これらの意味を伝える際に、「萌え」という言葉を選択する必要はあえて用いるという場合を除いて存在しないのだ。広義的になりすぎた「萌え」は分解され、新しい言葉が生まれつつあるのかもしれない。

補足

ここまでを読んだ人の中には、「いや俺の周りで萌えは使われてるよ」と思われた方が居たかもしれない。その状況も萌えの在り方で説明が可能だ。

前述した通り、”萌え”は形容し得なかった感情である。しかしながらその不定の感情を"萌え"であると定めた時点で形容し得てしまっているのである。

つまり個人が「萌え」に与えた意味の中には既に”萌え”であると定めた感情も含まれてくるのだ。これが意味の乖離の正体であり、

一般的な「萌え」の意味=ときめく感情

個人的な「萌え」の意味=既に”萌え”であると定めた感情

であることを示している。前者と後者では感情の質も量も異なり、両者がイコールではない故に個人的な”萌え”を「萌え」と表現しないのだ。

では最初の「いや俺の周りで萌えは使われてるよ」はどのような状況であるかは一般的な「萌え」の意味と個人的な「萌え」の意味が乖離していない状態であるといえる。

具体的な状況は『萌え研究会』である。『萌え研究会』においては各々が「萌え」に与えた意味はアプリオリであり、またそれぞれの感情の質と量は近しいと言える。そのようにアプリオリに意味が限定された「萌え」が一般的な「萌え」の意味となり、個人的な「萌え」の意味との間で乖離が発生しない場合、「萌え」という言葉を用いて互いのクオリアを共有することができる。

つまり「萌え」の意味が限定されたミクロな空間では「萌え」の意味が限定されていないマクロな空間とは違い、「萌え」という言葉はクオリアを共有する言葉として相応しいのだ。故に「萌え」が用いられる。

萌えはどうすれば再興できるのか

ここでは萌えの復興を『萌えを永続的に存在させること』として語っていく。

私は萌え衰退の原因を『「萌え」の意味が希釈し「萌え」から意味が失われた結果、”萌え”を「萌え」で表さなくなった』と結論づけた。これを前提として萌えの再興をするならば以下のような方法が考えられる。

①萌えの在り方はそのままに話者を増やす
→カジュアルに「萌え」を用いることの追求

②萌えの在り方を変え、「萌え」の意味を取り戻す
→”萌え”を定義し「萌え」に意味を与え、その意味をアプリオリなものすることで"萌え"という感情を伝える際に「萌え」を用いる優位性を確立する

この2つを掲げたのは萌えの抱える大きな問題点による。

前述した通り、萌えの性質・運用自体に衰退性が存在してしまっている。

つまり今まで通りに「萌え」という言葉を用いる限り、萌えは衰退してしまうのだ。萌えの継続維持と萌えの再興はトレードオフの関係であり、今まで通りの意味がはっきりしない萌え=カジュアルな萌えを継続維持をしようとすれば「萌え」の意味が失われ言葉が使われない。萌えを再興させるために「萌え」に意味を与え、使用される言葉にしようとすれば本来的な萌えの性質・運用が失われ、”萌え”は限定されることになる。

これが萌えの抱える大きな問題点で、我々に究極の2択を強いる。仮に萌え復興の別解が存在するならば、この問題を解決するものとなるだろう。

ここで、この問題を打倒するべき存在として広く認知して貰う為に名前を付けたい。

分子を観測するだけでエントロピーを減少させることが出来てしまう問題を架空の存在にした『マクスウェルの悪魔』の如く、萌えを広げ続け「萌え」から意味と熱量を減少させている架空の存在———

———『萌え萌え悪魔ちゃん』

問題を前提とした具体的な萌えの再興方法

①あえて「萌え」を用いる話者を増やす

「萌え」が使われないなら「萌え」を使う人を増やしちまえばいいじゃんという発想だ。

そもそもとして”萌え”はオタク文化と密接な関係であるということは今更説明する必要がない程に明確な事実だろう。"萌え”は本来的にオタク固有の事象なのだ。だからこそ「萌え」をあえて用いるという行為は己がオタクであるということの証明になる。その行為は『オタクとしての在り方』そのものだ。我々は己をオタクであると表明するために、そしてオタクであり続けるために、例え「萌え」という言葉が意味を失い只の鳴き声として扱われようとも、あえて「萌え」を使い続けよう。それこそが萌えの再興になると信じて。

このようにして扇動し、「萌え」を使わせるのだ!

具体的には「萌え」を周知していくことになる。君のその感情は”萌え”だよ、だからトキメキを感じたら「萌え」を使おう!といった感じに。

「萌え」の話者は経験に基づく法則から”萌え”を「萌え」と表現している。かみ砕いて言うと『萌えの体験』から「萌え」の意味を推察しているのだ。つまり「萌え」の話者を増やす為には非萌えの話者に『萌えの体験』を積ませた上で「萌え」という言葉をあえて用いる意義を与える必要がある。

「萌え」を規定せず、意義のみを与え続けるのだ。

この方法では「萌え」の在り方は変わらず意味は衰退し続けることになるが、「萌え」の話者数が保たれることで萌えは永続的に存在し得る。

永遠の果てに「萌え」は意味を失い、マントラになる。
マントラとして永遠に存在し続ける。

萌え(真言)

②萌えを限定する

「萌え」という言葉が持つ意味、熱量を上げてしまおうという発想だ。

”萌え”とは何か、それは”愛”だ。

私はこのnoteを書く上で色々な”萌え”を調べたのだが、それによって観測したのは”好意”、”慈しみ”、”恋愛感”、”フェチズム”などの好意的な感情であった。それらの感情群を総合し表すならば、”愛”としか言いようがないだろう。

けれど残念なことに、おそらく最初に”萌え”を生み出した人間はその”愛”の感情をエラーであると判断してしまったのだろう。”愛”とは3次元に向ける感情であり、存在しない二次元のキャラクターに感じているこの激しい心のトキメキは愛ではないはずだと。だからその感情を「愛」ではなく「萌え」と表した。

我々は「愛」が持つ意味、熱量をアプリオリに知っている。”愛”は生来の資質だからだ。元からにして意味が普遍的であり、一般的な「愛」の意味と個人的な「愛」の意味が大きく乖離することはない。しかしその”愛”は”萌え”として置き換えられ、アポステリオリな感情になってしまった。それぞれが経験から「萌え」に意味を与えるようになってしまったのだ。

話を戻そう、萌えを限定するとは全員で萌えの本質を理解し運用しようという活動である。

"萌え"を美少女キャラクターに対する愛の感情であると限定する。美少女キャラクターに対する”愛”=”萌え”を「萌え」と表す。といったように言葉の意味と用法を限定する事で一般的な「萌え」の意味と個人的な「萌え」の意味が乖離しないように言葉を運用していくのだ。萌えを統一するのだ!

具体的には闘っていくことになる。この活動はマクロな意味をミクロな意味で塗り替える行いに他ならない。己らは限定した運用で「萌え」を扱う。そして己らの限定とは異なる「萌え」の運用をしている者たちに意味の乖離を感じさせ、「萌え」を使わせないようにする。
萌えバトルが各地で勃発し、萌え戦国時代が訪れる。

この方法では萌えの在り方が変わり、「萌え」の意味は限定されてしまうが言葉自体が持つ意味の熱量を取り戻し、用いる意義のある言葉として永続的に存在し得る。

永遠の果てに萌え戦国時代は終わりを告げる。
そこには萌えに対して最も真摯であった者のみが残された。
最後まで闘い抜くほど、萌えに情熱を捧げたものが限定した意味は…
『美少女キャラクターへの、愛の告白』だ。


①+②、バランスが大事だよね

萌えの言葉である「萌え」の話者だけを増やしすぎるのも、ひたすら萌えを限定するのもあまり良くはないよね。(萌えが真言になった世界線は面白いので見てみたい気はするけど)。萌えが受容性のあるものだったからこそ一時代を気づいたわけだし。であるからにして我々がしていくべきこと、本記事の『はじめに』で示した衰退する萌えに対して今後どのように向かい合っていくべきなのか、美少女オタクとしての在り方に決着をつけることとは①と②の方法のどちら寄りに己を在らせるのかに他ならない。

貴方はどちら寄りで萌えていきますか?私が本記事で伝えたかったのはこの言葉である。ご自身で考え、今後の在り方に決着をつけて、どうか萌えを復興させるために尽力してほしい。萌えは常に衰退の方向に向かっている。それを防ぐためには反対方向に力を加える、つまり萌えへの働きかけを行う必要があるのだ。だから自分なりの方法で働きかけていこう。

しかしながら私としては②寄りの在り方をオススメする。何故ならば今こそが萌えを統一する好機(チャンス)だからだ。萌えが衰退している今こそ、周りが弱小陣営しか居ない今こそが己の萌えを押し付け、萌えを統一する、またとない機会なのだ。

であるからにして一番槍は私が務めさせて頂く。8歳女児が参る!
萌え”とは美少女キャラクターへの愛であり、「萌え」は告白である!
どりゃどりゃどりゃどりゃどりゃどりゃどりゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!!

廃墟萌え!討ち取ったりぃぃぃぃ!!!!!

終わりに

この記事をここまで読んだ方は薄々察したかもしれないが、私は公平な立場でこの文章を書いてはいない。私こそが美少女オタクとして己の萌えを押し付け、萌えを征服しようとする者である。まだ気が付かないのか?
戦いは既に始まっている。

どりゃどりゃどりゃどりゃどりゃどりゃどりゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!!

カジュアル萌え勢!討ち取ったりぃぃぃぃ!!!!!
 
 

さて、真面目な話をするとしよう。
この記事のはじめにの前に変な文章があったことを覚えているだろうか。あの文章を挿入した理由は、言葉の意義が萌えの衰退に関係していると思ったからだ。

言葉を発する目的は『世界』の共有であり、つまり自分を知ってもらうこと、相手を知ることである。そして言葉はその為のものでなければならない。しかし「萌え」は個人の体験・経験による”萌え”を感じた際に発せられる言葉であり、「萌え」を交わしてもお互いを真に理解することは出来ない。己を理解させることも相手を理解することもできない。死語なのだ。

我々は「萌え」を無責任に用いてきた。「萌え~」と鳴いてきた。その結果として衰退してしまった。であるなら萌えを復興させようとする者はその態度を改めなければならないのではないだろうか?萌えの為にまだまだやっていけることがあるのではないだろうか?

今回のnoteはもえけん!!vol.2へのアンサーの意も込めている。

この時代に萌えを再復興させようと集まり、同人誌を発行した彼らに敬意を表そうと、貴方達の情熱の影響を受けて筆を執った人間がここにいるぞ!と伝えようとしたのだが結果としてさっきぶん殴ってしまった。殴り返してほしい。

この同人誌の参加者の中では『まつうら』氏の文章が1番好きでした。
彼は己を非アニメオタクと定義した上で萌えとアニメオタク対して客観的な文章を書いており、語られている内容は今現在萌えに対して受動的なもの達より実践的で最も萌えを理解しようと努めているようでした。このnoteも氏に影響を受けた部分があります。氏が考える「萌えをいかに語るか」を追っていきたいです。

そんな情熱溢れる彼らに水をかけてしまったし、vol.1の在庫が無く読めていないので見当違いなことを言ってしまっている可能性がある。その責任として、ここにある情報を置いておこうと思う。

私はこの同人誌をboothで購入したのだがその時に住所を間違え、『もえけん』さんにお手数をお掛けしてしまったのだ。
『もえけん』さん、その住所を間違えてたやつが私です。

今後の課題

今回のnoteは感情である"萌え"と言葉である「萌え」にのみ注目し、形としての『萌え』を扱わなかった。最初は何故に猫耳メイドから”萌え”を感じるのかといったことも考えていたのだが、”萌え”がそれぞれの経験により決定されると結論付けてしまった為、既に”萌え”てしまっている私は何故に猫耳メイドから”萌え”を感じるのかを正しく理解することが出来ないことが解ってしまった。

また、”萌え”は”愛”であるとも確定付けてしまった為に何故に猫耳メイドから”萌え”を感じるのか何故に猫耳メイドを愛するのかという疑問に転じてしまった。それはもはや人は何故に愛を感じるのかの議論であり完全に萌えの議論から逸脱してしまう。問いが壮大すぎるだろ。

しかしながら猫耳メイドや萌えキャラクターのような『萌え』を体現する萌えのカタチが存在する以上、そこにも萌え復興への足掛かりがあるような気がしてならない。猫耳メイドや萌えキャラクターは諸人の”萌え”をカタチにしたものであり、いわば萌えの化石なのだ。それを利用しない手は無いだろう。化石は残り続けるからだ。

後は萌えを復興させる第3の選択肢、つまり萌え萌え悪魔ちゃんを調伏する方法を考えていこうと思う。萌えとは人が生み出した概念である以上、人が扱い切れるはずなのだ。人が扱い切れない、人知を超えた存在であるならばそれはもう神である。俺は萌え萌え悪魔ちゃんに支配されるのではなく、萌え萌え悪魔ちゃんを支配したい…。永遠に…。


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