ガールズバンドクライは”ロック”だ
ガルクラの感想ではロックンロールの『反社会性』と『オルタナティブ性』の2つが強調されていたように感じる。
前者は『パンク・ロック』として、後者は『オルタナティブ・ロック』としてジャンルとして確立されている通りにそれらがロックンロールを成立させる要素であるのは間違いない。
では、社会に迎合し、大衆路線の活動に舵を切った『パンク』でも『オルタナティブ』でも無いダイアモンドダストはロックンロールではないのか?
家族と和解した仁奈はロックンロールではないのか?
負けたくないと言っておきながらダイヤモンドダストに負けて終わったトゲナシトゲアリはロックンロールではないのか?
いや、それらもロックとして描いていたのが『ガルクラ』だろう。
つまり、ガールズバンドクライが表現したロックンロールは既知のロックンロールを当てはめるだけでは足りない、あるいはその根幹を表現しているものと言えるだろう。
であれば、ガルクラがロックかどうかを決める前にまずは
作品内の要素から「ロックンロールとは何か?」を導き出すべきである。
道筋
この作品は桃香さんの音楽性を間違っていないと証明することを一貫させていた作品であり、ここが肝要になる。
まず根底に桃香の音楽があり、それに影響を受けた仁奈が現実に直面する中で桃香が失った”歌”として機能し、プロになりたいという紅ショウガの思想が合流してトゲナシトゲアリを形作っている。
すばるは本人が「後ろで元気を貰っています」という立場だと表明している事から役割的には最も身近で影響を受けている人物と言えるだろう。
そのようにトゲナシトゲアリの思想を導き出した後、それを貫き通すためにこの作品が伝えようとしたメッセージを明らかにし、この作品が伝えたかったロックンロールの精神が何であったのかを導き出す。そして、そこから小指のジェスチャーの意味を考察する。
作品の根底にある桃香の思想
1話から3話では桃香のファンに過ぎなかった仁奈が音楽の世界にハマっていく過程が描かれていた。その中で桃香自身がバンドについて、ロックについて語っている描写があるので、まずはそれを追っていく。
桃香の思想を抜き出していき、はっきりさせよう。
1話では仁奈が東京に来て桃香に出会い、一緒に中指立ててくださーい!
をして即席チームで演奏するところまでを描いていた。
この仁奈の叫びを聞いた桃香は2話で「心が良い」と評価している。
その2話では仁奈をバンドに誘い、桃香がバンド観を語る。
そして、仁奈がすばるにキレて、そんな自分にキレて逃げ出した後には「バカだな、1番大切なもん、持ってるのに」と呟く。
それこそが前述した仁奈の「心が良い」部分であり、その詳細は仁奈を改めてバンドに誘うシーンで明かされる。
続く3話、急遽ストリートライブを行うことになり、狼狽して逃げだそうとする仁奈を説得するセリフと、
可愛い服を着させられてステージに出ることに怖気づいてる仁奈を説得するセリフから。
ここで桃香の音楽性、思想をまとめよう。
まず、桃香はバンドを言いたいことが溜まりに溜まってるやつがやるもんだと言い、その内容をいくつか例に出しているが、要は言いたいことであれば何でも良いのだろう。それが本当に思っている事、本音であれば。
そして鬱屈して溜め込んだ、その言いたいこと(エネルギー)がロックであると語り、それを持っている仁奈をロックンロールだと表現している。
そして、そのロックの中でも仁奈が持っているロック(心)を「良い」と表現し、その後には「私の歌」とまで言っている。つまり、
間違っていないと固く信じ、負けたくないと考え、自分を絶対に曲げず、無茶苦茶我儘で無茶苦茶自分勝手な自分を貫き通す精神性が、河原木桃香と井芹仁奈のロックなのだ。
しかしながら、このように2人のロックは共通しているというのに、作中でこの2人は何度も衝突を繰り返す。何故なら河原木桃香は現実に直面し、諦めてしまっていたからだ。桃香は自分の主張では無く、現実を信用するようになってしまっている。
そこで井芹仁奈は自分を導いた河原木桃香のロックを実践しながら成長し、逆に自己を失った河原木桃香、迷いがあるスバル、停滞していたbeni-shougaを導いていく、というストーリーが展開される。
次はそのロックを貫いていくことをどのように描いていたのかを、1話ずつ見ていこう。
各話で表現されていた”ロック”
仁奈の1~3話の成長に関しては4話冒頭のセリフで語られている。
仁奈の気が弱くて、臆病な部分。
それを可愛い服を着せてライブさせることで荒療治するのが桃香の目的だったのだろう。「何もできない」という仁奈に、桃香はぶつかっていくしかないと答えていたが、それをさせたということになる。
仁奈は人の目を気にして逃げる方向に自分を貫き通すのではなく、立ち向かう方向に自分を貫き通すことを覚えたと言える。
そんな4話は「本当に思っている事、本音」の回だった。
この回では安和天童の演技ではない笑顔とダイダス時代の桃香の笑顔を比べたり、自分が選択を決断させたすばるに対して、熱い掌返しを行う描写があった。
この回で伝えたかったことは、今の桃香は本音を欠いているという問題の提起と、本音の重要性だろう。
何よりも本音が重要だということは度々描写される。
3話における仁奈とスバルの関係改善も互いの本音を知ることで生まれた結果だろう。
続く5話は過去を受け入れる話だ。
ここでは負けるという言葉の意味に踏み込んでいる。
この回では現実として、河原木桃香はダイダスを脱退した元ダイダスの桃香として扱われることが描かれていた。(ex.オーナー、バンドマンの男、客)
新しいメンバーでバンドを始めて、無関係を装いたくとも現実からは逃げることが出来ない。
その構図の中で、仁奈は桃香の本音を聞き出そうとする。
それに対して、桃香は答える。
仁奈の想いとは裏腹に、桃香は自分が悪くて、向こうが正しいと納得していた。負けてほしくない桃香さんが、負けたと思っていたのだ。
それでも、桃香が、桃香の歌が好きで、あの時のダイヤモンドダスト(桃香さん)に心を動かされた仁奈は納得が出来なかった。
何故なら二人の是非を考える理屈が違っているからだ。
桃香は自分の主張を失い、ダイヤモンドダストの理由(絶対に辞めない)で是非を考えているが、仁奈はその河原木桃香の主張で是非を考えている。
仁奈の考え(桃香の主張)では自分を曲げない為に脱退した河原木桃香は間違っていないし、河原木桃香の歌を信じてイジメに介入し、不登校になり、こんなところでこんなことをしている自分は間違っていないのである。
だから、自分を曲げない為の行動で伴った結果(脱退、不登校、嘘つき)を背負ってライブを行うのだ。怒りも喜びも悲しさも全部エネルギーにして、今の自分は自分そのものだと、過去の行動は間違っていなかった、その結果の自分は間違っていない、負けていないという事を現実に証明する為に。
beni-shougaが本格加入する6話、この回では桃香のロックが間違っていないことを証明するための理屈と方法を明示している。
今の桃香には目標も狙いも無いことが入浴後のセリフから伺える。やはり、桃香の中で河原木桃香の歌は萎んでしまっているのだ。
その理由は桃香の音楽性では無くなった今のダイダスが売れている事が原因だ。プロになる時に自分の歌が通用しないと判断され、実際に路線変更したダイダスが通用していることが桃香の自信を無くさせている。
だから仁奈は今のダイダスに勝つことを拘り始める。まずは今のダイダスという桃香を萎えさせた現実に挑まない限り、河原木桃香の歌が間違っていない、負けていないという事を証明することは出来ないからだ。
その為の方法として、beni-shougaの二人、プロを目指すチームと合流して「武道館を目指す」という目標を設定する。
7話、桃香が脱退を、仁奈は予備校を辞めることを決意する回だった。
桃香がこのタイミングでバンドを辞める理由はミネさんの口から語られる。
対して仁奈は心配して来た姉、学校を辞めて家を出て一人で頑張っていく事を決意した智ちゃん、ミネさんが歌を仕事にしている理由を聞いて予備校を辞める決断をする。仁奈はイジメてきた奴ら、先生、父親に負けたくなくて大学を自力で受かろうとしていたが、その考えをここで改めたことになる。
東京に来て、ミネさんのライブを見て影響を受けた桃香と同じく、歌で闘うことを決意したということだろう。
ライブ前の仁奈の言葉はその歌で闘う宣言だろう。
これはそのまま、8話で桃香に伝えた内容にあるので割愛する。
続く8話、この回で桃香は自分のロックを取り戻した。
桃香はこれまで通りに自分が直面した現実を仁奈にぶつける。
その上で、退路を断ってしまった仁奈にやっと今の真意を語る。
対する仁奈も本音でぶつかっていく。
そしてダイダスメンバーの本音
応援とも挑発とも受け取れるこの発言を前に、仁奈は「私たちが正しかったって言いますから」と宣言する。
桃香はこの発言を聞いて奮起する。桃香も罪悪感はあれど、自分の選択を後悔しているわけでも、間違っていたとも思ってはいないからだ。諦めてしまっただけで、選択自体は正しかったと、ここで思い至ったのである。
だからダイダスの激励はそのまま桃香への挑発となり、苛つき、言い返した。その桃香の姿は仁奈が影響を受けた桃香そのものだ。
1話から3話では作品の根底になるロックを表現し、4話から8話ではそのロックを如何に貫いていくかを描いていた。
9話はここまでで表現されたロックの実践に加えて、beni-shougaのロックが描かれている。
智ちゃんは昔の仁奈と少し似ていると語られる。
言わば今の仁奈と昔の仁奈の対比によって、1~8話で何を得たのか、何をしてきたのかを答え合わせするような回だ。
ここまで描かれてきたのは、本音でぶつかっていくこと、過去(現実)を乗り越えて進んでいくこと、そして信じる事だった。
桃香とギターを弾きたいと思い、何を言われてもめげず、上達すると信じて進み続ける仁奈に対して、過去の経験から慎重で臆病になり、仲間を信じられず、本音を隠している智ちゃん。
そんな智ちゃんに対して、ルパが掛けた言葉、それこそが二人のロックだ。新川崎(仮)のロックに共鳴し、智ちゃんが諦めかけていた、beni-shougaのロックだろう。
今のトゲナシトゲアリはこの”本気”でステージに立つという想いで繋がっている。それが無かったから、智ちゃんのバンドは繋がりを失った。
9話では新川崎(仮)とbeni-shougaのロックがそれぞれ描かれ、つまり、トゲナシトゲアリのロックがどのようなものであるのかが示された。
10話は仁奈が主人公の家族回であり、9話で描かれたトゲナシトゲアリのロックの応用編である。
まずは不登校時代の父親と仁奈の動向を公開情報を元に記す。
不登校時代の父親
・いじめ問題で学校に貸しを作りたかった
(仁奈を推薦で良い大学に入れることが出来る)
・学校を辞める、上京する、自力で大学に入学すると言う仁奈に助力した
不登校時代の仁奈
・我慢しなくちゃいけないことに納得ができなかった
・その自分に父親が味方してくれなかったことを納得できなかった
・学校、イジメ加害者、父親に負けない為に家を飛び出した
これを踏まえて10話のセリフを見ていこう。
このセリフに対して、父親は行動に出る。
仁奈を学校に連れて行き、仁奈の前で学校にイジメがあったということを認めさせようとしたのだ。それは不登校時代の仁奈が父親に求めていたことで、父親は仁奈を想う気持ちを、行動で証明しようとしたということだ。
けれど仁奈はその父親の行動に「やめて」と言い、父親の「お前は被害者なんだから」というセリフにムっとまでしている。
その仁奈の心変わりに関しては5話と7話と次のセリフから読み取れる。
不登校を背負い、歌で闘う決意をした仁奈は、今の自分を「本当の私だ」と言う。だから今になって父親に「お前は被害者だ」と庇われても、その虐めは既に自分の正しい選択によって生じたものとして肯定的に受け入れた後であり、今はもう「自分は被害者だ」と認めることはしたくないのだ。それは虐めに負けたということになるのだから。
だから、この時点では父親と仁奈は解り合っていないことが解る。
仁奈が帰省した理由は歌で闘っていくことを認めて貰う為だからだ。
しかし、この二人のすれ違いは解消される。
仁奈は姉から父親の本音を知り、父親は歌から仁奈の本音を知ることで。
仁奈が実家を立ち去る時にトゲの演出を出しているのは、今までの父親の行動が全て自分を想っての事だと知ったからで、セリフにも表れている。
仁奈が歌で闘っていく決意を貫いていく限り、父親が娘への愛ゆえに将来を案じて取り計らう行動を受け入れてあげることが出来ず、更に父親は虐め問題で昔の仁奈がして欲しかったことをしてくれたのに、今の仁奈はそれすらも受け入れられないのだ。それは正に、我儘ばっかりの娘だ。
そんな今の仁奈が父親に返せるものは、身を案じる言葉だけ。
けれど仁奈が好きだという歌を聞いた父親は娘を応援することを決める。
「いってらっしゃい」
と声をかけ、アパートの鍵を渡す行為はその表れだろう。
だから、応援してくれる父親にこう返したのだ。
10話は自分を曲げない生き方を続ける限り、意見も生き方も衝突し、繋がりを失ってしまうという現実。
それに対して、人は想いで繋がれるという解決を示した。
最後のシーンでトゲナシトゲアリのメンバーが仁奈を待っていたのは、仁奈の想いを知っている皆は仁奈が必ず帰ってくると信じていたからで、もし帰ってこなかったとしてもトラックで迎えにいくという姿勢も含めて、この回はこれまで示してきたロックンロールの精神を描き切っている。
11話はそれぞれのキャラクターが自分達のロックを貫く回だ。
合わせてロックを魅せている回でもあるだろう。
それが解るセリフを抜き出そう。
まずは本番前日のシーン
そんな現実は関係ないと裸でぶつかってきたのがこの二人のロックだ。
ルパのこれまでのセリフの背景が解るシーン
ルパが「私にもロックが必要だという事です」と言っていた回があったが、それは智も同じで、どちらも事情を抱えて孤独になっている存在だ。
だから、想いを全てぶつけられるロックを通じて誰かと繋がっている。
続いてそれぞれが「なんで歌うのか」を語るところから
ほぼ答え合わせになっている。
智に関しては考察になってしまうが、彼女は生きる為にロックが必要だったキャラクターで、だから”理由じゃない”という事かもしれない。
重要なのは仁奈の「思いたいから」の部分だろう。
仁奈の「負けたくない」は「間違っていないと思う」こと。
自分が自分で間違っていないと思っている限り、負けはない。
それが自分を貫く仁奈のロックだ。
すばると仁奈の会話シーン
セリフの通り、すばるは1番身近でロックの影響を受けた人物だろう。
自分が本当にやりたいこと(バンド)を言い出せないキャラクターであったすばるが、それを伝えてバンドに専念し、本名で活動するようになる。
ガルクラはすばるというキャラクターの変化を通じて、ロックという精神性の魅力を描いたのだろう。
ダイダスがライブをした後のシーン
8話でダイダスの本音が語られた時に彼女達は「わたしたち忘れないから!」とも言っていた。
彼女達は全員、河原木桃香のロックに影響を受けた人物だ。
それを彼女達のライブを見て、桃香自身が1番理解したのだろう。
12話はプロの現実に直面することになる。
11話と同じく、ロックを魅せているセリフを抜き出していく。
プロ契約記念パーティー前のシーン
ロックの精神は現実を切り開いていくことが出来る。
神社を参拝するシーン
ここは信じる事→物語を創ること→夢を見ていくこと→ロックの神様がいると思うんですよね、と繋がっている。
つまり、ロックの神様が居ることを自力で証明するということだ。
信じて、物語を創っていくことが夢を見ることで、もし夢が叶えばロックの神様が居たという事になる。
仁奈はそういう証明を、歌を信じた5人で、やっていきたい。
信じて物語を創り続けたら夢が叶うというサクセスストーリーをやっていきたいと語り、桃香はダイダスとのライブに勝つことを信じることにした。
桃香さんの歌は通用する、やってみないと分からない。
そう信じてやってきたのだから、ダイダスとのライブに勝てる。
しかし、信じて、現実に裏切られた。
そういう時にどうすればいいのか。
それをガールズバンドクライは最後に描いている。
自分達も、三浦さんも中田さんもあんなに褒めていた曲が全然再生されていないという現実に直面し、ダイダスとのライブに勝てないことが確定してしまったところから始まる13話。
名前は広がっているのに曲が伸びないということは歌に問題がある。
自分達だけが良い曲だと思っていても、人は情報に流されてしまう。みんなが良いって言っているものは興味なくとも見るし、誰も見向きもしないものは自分も見ないだろうと。
しかし、そういうものに負けたわけじゃない。関係無いと言う。
けれどヒナはそれを関係あるんじゃないかと仁奈を挑発する。
ダイダスのメンバーは桃香を引き留める時に、「いつか自分たちのやりたいことが出来るようになる」という想いで引き留めていた。
つまり、ダイダスのアイドル路線という世間が求めている形で活動をしたり、イジメに立ち向かうのではなく順応したりすることが、いつか自分が本当にやりたいことに繋がるという考え方をしている。
だから売れるためにまずダイダスと両日開催にして、とにかく曲を聴いてもらおうという考えはダイダスの考えでは間違っていないから、トゲトゲがそうしたいというのであればそうしてもいいと言ってきているのだ。
しかしそのダイダスの方針と真逆の方針をやってきたのがトゲトゲだ。自分たちのやりたいことで成功していきたいと、していけると信じてきた。
だからこのシーンで描かれていたものは「そうしてもいいけど、トゲトゲは、仁奈はそうじゃないでしょ?どうするんだ?」という激励の挑発だ。
それがプロとしてでは無く、トゲトゲらしくやっていこうとするシーンに繋がる。ダイダスの提案(企業としての三浦さんの選択)に乗って「ダメージを少なくする」のでは無く、ちっぽけで傷つくことが解っていたとしても、爪痕を残す為に「全てを曝け出して生きていく」ことを選択するのだ。
チケットがキャパの3割しか売れていない、そういう状況も受け入れて進んでいくのがトゲトゲのロックだからだ。
続くシーンで描かれているのは、そういう方針の違い、何を正しいとして何を間違っているとするのかの違いがあったとしても、それでも想いで繋がることが出来るという事だ。仁奈の家族のシーンでもそうだっただろう。
・仁奈と智ちゃん
・トゲトゲと三浦さん、中田さん
・5人全員
信じ続けるという誓いを立てて、今度こそ、全員が諦めずにやっていこうと約束するのだ。ロックの神様が居ると証明しようとするように。
ここでは川崎のことを、笑ったり泣いたりしてくれる仲間と出会えたから好きだといっている。これは桃香の歌に影響され、イジメにぶつかり、実家を飛び出し、川崎に来てしまった選択を間違っていないと思っていることの表れだろう。そうやってきたから、仲間と出会えた。それこそが自分の運命であったと。
この作品は最後にライブをすることで締めくくられる。
ここで描かれていることこそ、この作品が伝えたかった事の集大成だ。
現実が厳しいし、簡単じゃないのは当たり前のことだ。
けれど、それを1番気にしていなかった仁奈だからこそ、間違ってないって貫いてくることが出来た。
現実は切り開いていく事が出来る、諦めない限り、想いは伝えることが出来るし、一生かかったってまともにならないと言われたギターだって弾けるようになる。
そして最後のライブ直前
最後になって仁奈は気づく。ダイヤモンドダストにも桃香の歌が届いていて、自分と同じく強く生きているという事を。
そんなダイヤモンドダストとのチケットの売り上げと動員人数で勝負をつける対決の結果が目の前のお客さんだ。
負け戦の企画であっても挑んだ。その自分達を信じて、チケットを買いライブを見に来てくれたお客さんが居て、想いは伝わっている。
だから、負けてないし間違えても無いのだ。
そして、どんな困難であろうともそう思い続ける限りは、その困難は終わりなのでは無く、もう1度そこからやっていく始まりになる。
ガルクラが表現したロックとは
ガルクラが表現したロックは自分の心を貫いていく精神性だ。
ダイダスのメンバーはアイドル路線としてやっていくことを決めたが、それがいつか本当にやりたいことが出来るようになるということを信じて、後悔せず、間違いだと思わず、懸命に生きていた。
仁奈はその心を曝け出して、自身の本音でぶつかっていくことを選択した。他人とか、社会に心を縛られず、諦めずに自分自身の心を、歌を武器に闘っていく事に決めたのだ。
世間で言われる「反社会性」や「オルタナティブ性」というのは、その結果とした表彰したものに過ぎない。
パンクでオルタナティブだからロックなのでは無くて、ロックだからパンクにもオルタナティブにもなれるのだ。
そしてそのような本気の姿勢は能力だとか、内容だとかの現実的な問題を関係無いと吹き飛ばしていく。自分自身が自分の心を最優先にして、そういうものを関係無いとやっていくのだから、逆に関係してくるのは心そのものになってくる。
心を最優先にして考えるのだから、方針が違うダイヤモンドダストや父親のことを心で理解して、その想いで繋がることが出来たのだ。
ロックミュージックが人と人とを結ぶミュージックで特にアウトサイダーを結ぶようなものだと思われている理由はそこにある。
小指ジェスチャーの意味
この作品において、中指を指したくなった時に小指を指すというジェスチャーはその意味を離れて様々な場面、様々な用途で使われていた。
それこそ中指のジェスチャーと同じ意味の時、
宣戦布告する時、
いってきます!と親に伝える時、
仲間同士で約束をする時、
円陣の代わりとして、仲間と結束する時、
ロックの神様を信じる時、
感謝の気持ちを伝える時、
小指のジェスチャーの意味を知らない人物に対しても関係なく使われていたし、敵対していたダイダスさえもこのジェスチャーを使っていた。
だからこのジェスチャーは相手が意味を知っているかどうかとか、どのような用途で使うのかは関係ないのだ。
大事なのは中指を指したくなった時に小指を指すというような過程。どんな状況に即しても、中指を指したくなった時に小指を指すというような自分らしさで、自分の本音で道を選択するということだろう。
だから小指を指すというのは
自分の本気の気持ち、本音を示すジェスチャーだ。
色々な事情は全て関係無く、ただ自分の本気の想いを示す通す。そしてその想いで繋がっていく。それはこの作品で描いてきたロックそのものだろう。
終わりに
今回の記事はセリフという、アニメにおいて最も解釈が揺れず、作品が表現したかった事が明確に表れる表現方法に着目して執筆した。
作中の要素として散りばめられた要素の意味、映像演出の意味、劇中歌の歌詞やロックバンドの楽曲を元にしたサブタイトルの意味、名前に込められた意味まで考えれば更に深い考察ができるだろう。
しかしながら、それらは小指のハンドサインのように意味が明確に説明されているものではないので、解釈の為に情報を拾ってくる必要が生じる。
そこで関係ないところから、例えば世間でロックンロールがどういうものかといった情報で解釈しようとすれば、その解釈は作品の遺志を離れてしまう。それこそ再生数や人気など他人の物差しによる決めつけだ。
本記事はその選択の決定を極力作品内の情報だけに絞り、ガールズバンドクライという作品が何を表現しようとしていたのかを明らかにし、それが作品語りの一助になって欲しいと思い執筆している。
それは手前勝手な価値観で作品を解釈する人間への冷笑的な態度でもあるということを、最後に明記しておく。
これだけ全ての要素に意味が込められている思えるアニメは滅多にない。
だから、こんなにも熱意を込めて作られた作品の中に込められた遺志を、作品内に散りばめられた意味を無視して、自分のロックンロールや世間のロックンロールから解釈してしまうのはとても勿体ないことだと思う。
ガールズバンドクライの評価を確定してしまった人も、良くわからなかったという人も、この記事を通してもう1度向き合ってみてほしい。
その後に、俺が触れなかったもの、ルパさんのことやヒナのこと、映像演出やタイトルの意味、歌詞の意味を読みとって欲しいし、俺の触れた解釈が間違ってると反論してもいい。
そして最後に、自分が思うロックンロールでガールズバンドクライがロックであったか、ロックでは無かったかを語りあおう。
ガールズバンドクライは想いをぶつける側の事を描いてきた作品であったが、そこにはその想いをぶつけられる側も存在していた。
ならばガールズバンドクライの想いをぶつけられる側だった存在がやるべきことはなんだろうか。それは先に関係ない情報で想いを決めつけずそのままの想いを聴き、その後にその想いに想いで答える事なんじゃないだろうか。
それこそがロックなコミュニケーションだろう。