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「ない」という事実が「ある」ということ

この記事を開いてくれたあなたに、よかったら教えてほしいことがあります。


あなたの記憶の中で、一番古い記憶は何歳のものですか?


なぜこんな質問をしたかというと、私自身が小さい頃の記憶をあまり覚えていないため、他の人はどれくらい覚えているのか気になったからです。

今日はこの「記憶」の話を書きたいと思います。


記憶は断片的、感情はほとんど思い出せない

私が覚えている一番古い記憶は、幼稚園の年中(4~5歳)の頃のもので、覚えているといっても印象的な出来事の記憶のみです。

では、それ以降の記憶は鮮明に覚えているかと聞かれるとそんなことはなく、小学生、中学生時代の記憶も断片的にしか覚えていません。

「小学校3年生の7月は何していた?」なんて聞かれたら答えられませんし、「あの出来事は小学校高学年くらいのことだっけ?」という程度で思い出すのがやっとです。

高校生以降の記憶は、割と覚えているように感じますが、詳細に覚えているかと聞かれると、あまり自信がないというのが本音です。


なぜ急に記憶の話をはじめたかというと、脳トレの個人コンサルで過去について聞かれることがあったからです。

コンサルの時には、今感じているのと同じ感情を過去にも感じたことがあるはずだから、その時のことを思い出して感情を感じ切ってくださいといわれました。

私の場合は、「無価値観」でした。

小さいころに「私なんて生きている意味ない」って思ったことがありますかと聞かれ、一生懸命過去を振り返ってみたのですが、致命的な出来事ってないんですよね。
「私には価値がない」「生きていても意味がない」と思ったことはもちろんたくさんあります。なので、「何度もありますよ」と回答しましたが、そういうことではなく、「無価値観」の根源となる出来事があるはずでそれはかなり小さい頃の話だと思うから親子関係ではないかとアドバイスをいただきました。
なので、ひたすら過去を振り返ってみましたが本当にわからず、私はコンサルの最中に黙りこくってしまいました。

その日のコンサルはそれ以上進むことはなく終わってしまい、あまり有意義なものに感じられずしばらく悶々としていました。

その日から、過去のことを一生懸命思い出そうとしているのですが、冒頭のとおりあまり覚えておらず、その当時の感情なんてもちろん覚えていないんですよね。

手がかりとなるのはいただいたアドバイスの「親子関係」というキーワードだけでした。
なので、両親との記憶を辿っていったんですが、両親に「あなたには価値がない」なんて言われたこともなく、小さなころは病気がちだったため「生きていてくれるだけでいい」と過保護な両親に守られて育ったので無価値観を感じたことなんてない気がするんです。

結果として、まったく見当もつかず呆けてしまいました。


「ない」という事実が「ある」

呆けてから数か月たち、最近やっと自分の中でしっくりくる見解にたどり着くことができました。

ずっと「無価値観の根源」が「ない」ということが私の悩みだったのですが、「ない」なら「ない」でよいと気づきました。
「ない」という事実が「ある」ということです。

個人的な見解は、両親が根源ではなく、両親以外の人から「あなたが存在してくれるだけでいい」と存在を肯定されたことが「ない」からというものです。

この「両親以外の人」にはもちろん自身を含みます。

今まで「生きててよかった」「私に生まれてよかった」と思ったことがありません。いつも「なんで私は生きているんだろう」「他の誰かに生まれたかった」と思っています。

なんでそんなことを考えているかというと、多分もともと「私」がないからです。
これも少し前に気づきました。

「私」という存在は実は中身が何もなくって、なんとか私を形づくろうといろんな理想や憧れから要素をひっぱってきてとりつくろっている生き物です。簡単にいうと張りボテです。
(張りボテの話をすると長くなるのでそれはまたいつか書けたらいいなと思います。)

なので、小さい頃の感情があまり思い出せないのも、「私」で生きていたのではなく、「張りボテ」が動いていたからなのかなと思います。

じゃあ私として生きるってなんなのか、それが今の私のテーマだなと思います。

「ない」ということにずっと悩んでいたのですが、「ない」という事実が「ある」ということに気づけてからはとても心が晴れました。

もしあなたも「ない」ということに悩んだりつまずいていたら、「ない」という事実を受け入れてみてはどうでしょうか。

きっと新しい発見があるかもしれません。


長くなりましたがここまでお付き合いくださりありがとうございました。


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