昨日のFacebook上にわたしが投稿した「れいわ一揆」鑑賞後のリモートでの原監督講演会の中で、氏が語られていた事。 今朝、この事なのかと初めて記事を見つけ納得しました。

なんとなく昨日のスレにリンクしたかったのですが、内容を読むと「作品の在り方」とは別物だと感じつつ、気になったので別で投稿する事にしました。

講演会の冒頭で原監督が発した「落胆」は凄く理解できる事で、1ファンとしてだけでなく、ネット社会の「膿」とも言える指摘であると理解した上での私見として書かせていただきます。

先ずは、リンクの記事を読んでいただく事をお勧めします。

その上で原監督が感じた「落胆」について…、
この記事が出た事で、山本太郎とれいわ新選組に対しての「違和感」という物が一部で指摘され「あらぬ方向」に炎上し始めてしまったと言う事です。

これは「作品」を見た人がそれぞれ感じた「感想」を踏まえつつ「作家」として描きたかった部分の「欠如」に対しての反省を踏まえて、原監督がインタビューに答えた記事ですが、ここにいつもの様に起こる「マスの宿命」が発生し「受け取った側」の「妄想」によってあらぬ方向にねじ曲がってしまった。

これは「作家」としては「不本意」だと感じます。

インタビューの中で原監督が伝えたかった「違和感」とは「作家」としての作品の理想系を追求する上で欲しかった「エッセンス」を撮影できなかった事であり、その事への不満がその様な言葉になったのだと思います。
「作家」としては当たり前の事だと思います。
そこを「マスの宿命」で咀嚼出来なかった「ライターの表現不足」または「作家の人間性を理解してない事」によって〝ねじ曲がった〟
本来、インタビューは、相手を理解している人が行うケースが多く、アーティストとの信頼関係を築ける付き合いのある人しか、その役目を担えないケースが多いです。
それは他の様々な分野の人を対象としたインタビューに関しても同じだと思います。
特に「突っ込んだ話」になれば尚更です。

いつもの事ですが「記事としての華」や「納めるべき枠」によって簡略化する「マス表現」
今の世の中「文節〝間〟を読む事」や「背景のイメージ」をして発信者の「意図を汲む」人は少ない。
そんな中でインパクトのある「表現」だけを「意思」として受け取ってしまう人が多いい。

その「感情面」無くして「文字面」を理解しようとするのが今のネットの「膿」であり、今回の炎上騒ぎの中心となったのも『Twitter』であったみたいです。
未だに思う事ですが『Twitter』と言うツールは『マスの宿命』の最たるモノであると同時に『高度』なツールであると感じます。

「発信者」の「感情面」「背景」「人間性』を最低限でも解っていないと理解が出来ない。
それを当たり前の様に『表面』だけで理解しようする程、現代人の「感受性は豊かで無い」と感じます。

その「表面」だけで繰り返されてしまう「不毛」が、結果的に「作品」が「投げかけた意図」をねじ曲げてしまう。
リンクの記事内で原監督が指摘している(先の参院選で起こった「れいわ新選組」という「動き」が世間に投げかけたモノはなんだったのか?)がこの「作品」の一番重要な事だからです。

「国政」という、国の羅針を決める機関に対しての「世間がもつ、疲弊と落胆」をこの動きを原動力として老若男女が関心を高めた。
確かに同じ様な事が過去にもあり、郵政解散した『小泉劇場』とも似ている感はあります。
ただ、それを同じと見るのではなく…「違い」を見定める機会として「れいわ一揆」という作品が「存在している」とわたしは感じますし、今回、原監督が題材として選んだ「主旨」なのではと感じます。
この事を、理解せずして『Twitter』で行われている『論争』の無意味な事。
嘆かわしいと感じます。

ネットに情報集約されている今日。
本当にその「情報」だけで、自身の「知性」が豊かになっているか?疑問に思う事は重要だと思います。

最近思うのは「アナログ」の良さです。
これは多くの書物、特に書籍の売り上げが減少し「本」を読む機会が少なくなった事。
わたしも日々に忙殺され「本」を読む事が少なくなりましたが、やはり「表現」には「文章力」が必要です。
書くだけでなく、言葉で発する内容にも影響があります。

やはり「不毛」な論争を時間を費やすので有れば「本」を読むべきと思いますね。
その様な「アナログ時間」の豊かさこそ、現代人には必要かと思います。

話がそれてしまいましたが、今回の「炎上」
受け取る側の「良心」が芽生える事を切に願うところです。

♯れいわ一揆
♯れいわ新選組
♯原一男
♯安富歩

https://twitter.com/anmintei/status/1306401126414131200?s=21

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