2024年4月1日〜4月12日


4月1日

会社の後輩がメールで怒られていました。100万円ほどの損害を出したようでした。

金さえ払えば問題ないようで、何かしらで100万円分補填する運びとなり結局は解決。しかし先方は執拗にミスを詰め続け、「本当は手間賃でプラス10万くらい請求したいですけどね」などの嫌味をメールに添えていました。

僕の社会経験上ですが、この嫌味は反語表現だと捉えられます。「本当は手間賃でプラス10万くらい請求したいですけどね(まあ実際は請求しませんが)」と受け取るのが正しいはずです。

ではなぜ先方は、わざわざ実際は請求しない金額の話を持ち出してきたのでしょうか。


もしかしてこれは、噂に聞く「お気持ち表明」ではないでしょうか。


正直「お気持ち表明」というミーム自体はあまりに擦られすぎて本来の意味がぼやけています。とりあえず言っておけば皮肉屋を気取れる魔法のアイコンにすぎません。むしろ使ってる側の方がバカに見えます。しかし当該のメールにおける、結局は請求しない手間賃をチラつかせた部分は明確にお気持ち表明だと言い切れます。ビジネスに不要な感情論を、ご丁寧に金額に変換してまで密輸入。相手に実務以上の配慮・同情を求める幼児性は嘲笑われて当然でしょう。安いヨーグルトからホエーが滲み出るように、安い人間は仕事中でも感情を垂れ流すのです。社会的動物のブヨついた局部をCCから覗き見てしまいました。

ネットミームというのは総じて1番最初に使った人だけが面白くあとは金魚のフンです。でもあの瞬間の閃きは「お気持ち表明」発案者と100%共鳴するものだったと信じたいです。もしもこの世に「お気持ち表明」というミームがなかったら、きょう僕が「お気持ち表明」を発明していたに違いありません。それほどまでに「お気持ち」の不快感をダイレクトに浴びた日でした。雇われている以上僕たちは傭兵です。気持ちなどという悪性腫瘍は芽生え次第切除してください。


4月2日

好きなものって大人になってから増えるのでしょうか。

25歳の自分がいま好きなものは、大抵小学生くらいのときから好きだったものの延長にすぎません。あらゆる物事が初体験だった子供時代と今では日々の濃度が格段に違います。どれほど大人ぶろうが人生の重心は序章部分にあって、何をやっても最終的にはガキの自分にたどり着く感覚があります。

僕は小学生のころガキ使が好きで、友達3人くらいと勝手に「絶対に笑ってはいけない水曜日」をやっていました。毎週水曜日は何がなんでも笑ってはいけなくて、授業中でも遊びの時でも笑った瞬間にケツを蹴られるのです。一方的なものではなく笑わせ合いなので、今思うとドキュメンタルに近いものでした。

これを初めてから、水曜日以外はすべて友達を笑わせる準備に腐心していました。自分が得意だったのは、教科書や新聞の文章に落書きして、それを音読させる攻撃です。ボールペンで「ホワイトチョコ」を無理やり「ホワイトチンコ」に書き換えるなど低レベルな怪文書を量産していました。

25年を振り返ってもこれほどまでに楽しい日々はなかったのですが、この「ルール」と「テキスト」の面白さから自分は一生逃れられない気がします。妙な縛りのゲームと妙な文章にずっと触れていたいのです。

こうなってくると、ファッションやグルメやエクササイズの楽しさは永遠にわからないまま死ぬ気がします。第一幕にそれらが登場していないので仕方ありません。張ってない伏線は回収できないのです。

赤ちゃんの絶壁頭を治すためにヘルメットを被せて治療する親がいます。頭蓋骨が丸みを帯びている方が色々な髪型が楽しめるそうです。僕はケツを叩かれすぎたせいで、楽しめるアクティビティの幅が極端に狭くなってしまったようです。


4月3日

閉鎖的な村で酷い目に遭った主人公がボコボコに復讐する映画『ドッグヴィル』を見ました。



中でも好きだったのは、主人公が復讐の実行について葛藤するシーンです。主人公はどれほど残酷な仕打ちを受けようが、最終的には村人を赦そうとします。しかしあるキッカケで、「赦す」行為が「私は彼らより優れた倫理観を持っている」という傲慢さを前提にしていると気づきます。結局自分の気持ちに正直になり、暴力による復讐を決行します。

単なる復讐ではなく、「赦し」に関する問いを経由しているところが面白ポイントです。よく考えれば確かに「赦し」ほどのマウント行為はありません。年収マウントに対してさらなる年収マウントで返すのは、同じ土俵に立っている分相手を尊重してしまっています。「年収ごときに縛られているあなたを、それでも愛そう……」とか言ってる方が上から目線でしょう。

一方で、おそらく多くの人は赦しがマウントになりうるとは気付いていません。何をされても仏の顔で微笑んでいれば、ただ寛容な人と思われるだけで、むしろプラスなイメージを持たれるでしょう。ならば己のマウント欲は、全て赦しの形で発散すればよいのです。寛容さでマウントを取り合う社会に争いなど生まれません。必死で他人と競い合う人たちと、ただそれを包み込む人々、どちらが大人なのでしょうか。どうせ傲慢なら、赦しで他人を出し抜きたいものです。


4月5日


回復アイテム。


アッアッ


まあまあ


4月9日

電子書籍のサブスクであるKindle Unlimitedは、Kindle内にある書籍の一部が月額制で読み放題になるサービスです。そしてこの対象となっている書籍は、ぶっちゃけかなり当たり外れが大きいと思います。「20万冊が読み放題!」と謳いながら、その実スピリチュアル系やAIグラビア写真集などの俗悪本で数を稼いでいるのが現実です。

そんなゴミの海の中に宝物があったりするのでやめられないのですが、先日とんでもない異彩を放つ書物を見つけました。


売っていいのかどうかも怪しい表紙とタイトルです。まあ読み放題ではあったので、試しにダウンロードしてみました。

内容は名目通り引きこもりが世の中を呪ってるだけの手記で、前書きでは「まあこんなの凡人には理解できんやろw」と中二病全開のイキりをかましています。しかしいざフタを開けてみると非常に読みやすく、読み手ファーストの親切な文章に感じました。作者の情報もまったく分かりませんが、隠しきれない社会性が顔を出しているので、引きこもりの"テイ"で書かれているだけな気もします。


痛みが鼻から眼の奥、眼の奥から奥歯に、猫があくびをするような呑気な調子で、顔中にひろがり、私は鼻を覆いながら悶絶したが、痛みが徐々に──砂浜に潮が染みこんでいくように徐々に、引いたあと、私を怯えさせたのは、鼻の痛みではなく、母の足音だった。

—『ひきこもりの手記[1]: 凡庸な人間には到底理解できない書物 編纂されたわたしの歴史および理論と殺人の記録』MMM著
https://a.co/2RO5ewf



上記は著者が母親から虐待を受けている描写です。鼻を殴られた際の痛みを「猫があくびをするような呑気な調子」と例えるところは普通にスゲーと思いました。調子に乗ったのか痛みが引く様子まで「砂浜に潮が染みこんでいくよう」と例えてしまっており満腹感はありますが、それでもあの、鼻を打ったとき特有の痛みのうつろいがありありと浮かんできます。なんで鼻だけあんな感じがするんでしょうね。

こんな中二病全開の人ですら、いや、全開だからこそ紡げる美文があるのです。僕もすぐ死とか人生とかの話をしたがるので中二病罹患者になるのかもしれませんが、じゃあ何の話してたら大人なんだよ、投資か転職かマチアプの話しかしないだろう、そんなので酒が進む人になるくらいなら病人扱いでよいと感じます。一生トレンドだけ追って、気づいたら長生きしてろと思います。

本に限らず、僕はプロアマあまり区別せず作品を覗いてしまう方です。見てほしいんだか見てほしくないんだかよく分からない宣伝をしている友達のブログとか、恐らくほとんど読んでます。それはやっぱり、表現である以上その人なりの凄みがあるはずだと信じているからです。



この精神性に目覚めたきっかけは『夜露死苦現代詩』という本でした。貧しすぎて餓死した親子の日記や、暴走族が特攻服に刺繍していた文章など、市井に溢れるストリートな言葉が現代詩として紹介されています。

エンタメというか社会全体は基本退屈でつまらなく、もはやそのもので楽しむのは不可能ではないでしょうか。便所の落書きから詩を見つけ出す宝探しだと思わないとやってられません。


4月12日

最近世界史にハマっているのですが、昔の文化を知れば知るほど、今の常識ってひとつも当たり前じゃないなと気付かされます。これは、当たり前の世の中を作った先人に感謝……といった意味ではありません。自分の常識は相対的なものでしかなく、決して「正しい」わけではないという恐怖に近い感情です。仕事のモチベーションが金のためではなく「神に救われるため」だった時代もあります。ギロチンが見世物だった時代もあります。少年愛が当たり前に行われていた時代もあります。

でもそれは全て昔の話で、結局その文化がよくなかったから改善されてきのでは? とも考えられます。しかし今でも、人権や文化は相対的なものだと考えられています。


ここで、人権に対する2つの考え方が出てくる。第1は普遍主義 (universalism)と呼べるもので「人権は絶対的価値であり、各地域の文化を壊してでも世界中に普及させるべき」という考え方だ。第2は相対主義(relativism)と呼べるもので「人権は絶対的価値ではなく、各地域の文化を壊してまで普及させるべきではない」という考え方だ。

—『政治的に無価値なキミたちへ──早稲田大学政治入門講義コンテンツ』大田比路著
https://a.co/eXvlCM6


たとえば一夫多妻が主流となっている国に、それ不倫じゃん! 人権侵害だろ! とかズケズケ突っ込んでいっていいのでしょうか。西洋人が勝手に考えた人権概念を強制してしまっていいのでしょうか。もし殺人や殉死が文化的儀式の国があったら……? それぞれの「正しさ」にどこまで干渉できるかという問いは未だに解決されていません。常識とは実にフワフワした概念だと思います。

そして最近もっと衝撃を受けたのは、「時間」すら相対的なものであるという話です。


わたしたちの「現在」は、宇宙全体には広がらない。「現在」は、自分たちを囲む泡のようなものなのだ。  では、その泡にはどのくらいの広がりがあるのだろう。それは、時間を確定する際の精度によって決まる。ナノ秒単位で確定する場合の「現在」の範囲は、数メートル。ミリ秒単位なら、数キロメートル。わたしたち人間に識別できるのはかろうじて一〇分の一秒くらいで、これなら地球全体が一つの泡に含まれることになり、そこではみんながある瞬間を共有しているかのように、「現在」について語ることができる。だがそれより遠くには、「現在」はない。

—『時間は存在しない』カルロ・ロヴェッリ著
https://a.co/64F6Pka


「今!」と言ったときに「今」のタイミングを共有できるかどうかは、そこにいる人たちの距離で決まります。地球の中で生じる誤差なら大したことありませんが、宇宙規模で考えるともうこちらの時間感覚は通用しません。

地球からシリウスまでの距離は約8.7光年あるようですが、これだけ離れていると「現在」の概念は意味をなくします。望遠鏡でシリウスにいる宇宙飛行士を見た8.7年後が、宇宙飛行士にとっての「現在」になるのでしょうか。しかし、この8.7年の間になんらかの技術で地球に帰還できてしまうかもしれません。となると未来に「現在」が存在することになります。では、シリウスの「現在」はいつなのか? 絶対の「現在」などないので、考えても無駄なのです。

「絶対なんてない!」とは聞き飽きたクリシェですが、それを「全ては相対だ!」と言い換えると途端に腑に落ちる感覚があります。社会も文化も時間も、他と比べた結果浮き上がってきているだけ。そう考えると目の前の景色が歪んできませんか……? 変なキノコとかに頼らなくても現実を変えられるのが勉強の楽しさだと思います。もっと早く気づきたかったです。















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