2024年1月23日〜2月2日


1月23日

日テレのバラエティ番組『有吉の壁』には『ブレイク芸人選手権』というコーナーがある。ちゃんとコントや漫才で評価されている人が、あえて一発屋っぽいネタを披露し、テレビでのブレイクを目指す企画である。

もちろんこの「テレビでのブレイクを目指す」とは建前で、本当は「概念としての一発屋をパロディしてバカにする」みたいな目的があったと思う。「こういうしょうもない一発屋芸人いますよね」といった共感笑いを狙っていて、まっすぐそのネタで評価されようとはしてない。

しかし、このコーナーからチョコプラの扮するTT兄弟が本当にブレイクしてしまい、建前の部分はいつしか崩壊してしまった。メタがベタになったのである。いつしか、お笑い芸人が本気でキャラや武器を増やしに行くコーナーになった。

メタっぽい娯楽から文脈が奪われてベタになる現象って恐ろしいと思う。オトナブルーとかもあえて昭和っぽい価値観の歌詞と曲調をやりに行ってる気がするが、そういうレイヤーって全然伝わってないんじゃないか。まっすぐ「女子高生みたいな人が売春みたいな歌歌ってて最高!!」と思ってる層も絶対いる。

この話題で1番怖いと思うのは「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教(以下スパモン教)」である。



これは、キリスト教的な反進化論が理科の教科書に載ったことをイジるメタ宗教だ。「キリストが世界を作った話を教科書に載せるなら、スパゲッティモンスターが世界を作ったという主張があればそれも教科書に載るのかい?」という皮肉である。一応教義もあるが、「祈るとき、アーメンの代わりにラーメンと言う」「信者は常にザルをかぶる」とか完全にふざけている。

しかし、スパモン教も徐々に文脈を剥ぎ取られ、「そういう宗教」として認可されつつある。アメリカでは免許証撮影の際帽子の着用は許されていないが、"宗教上の理由"でザルをかぶることは認可された。

なんか……そこまで行ったら、つまらなくないか……?

スパモン教が公共性を得ていく過程は、「コミュニティの一生」における「凡人が集まってくる」を体現しすぎていて気持ちが悪い。面白い人はメタをメタのまま楽しみ、凡人はその文脈を理解せずベタにしようとするので違いもわかりやすい。 




スパモン教はあくまでもジョークなので、本当に政治に絡ませだすのは違うだろう。それを「スパモン教が公式になったってよ(笑)」でウケてるのは、選挙の投票用紙に野獣先輩とか書いてる人たちと同じで、ああ、凡人が居場所を主張し始めたなあとしか思わない。

30-1グランプリのマジメニマフィンのように、メタな面白さは構造上どうしたって大衆性は得られない。それを理解していても、メタの文脈がバリバリ剥がされてつまらない人のおもちゃになっていく過程は切ない。メタはメタのままいてほしいし、それが楽しめる場所は守られていてほしい。ラーメン。


1月24日

「暴走族」ってネーミング、バカみたいでいいと思う。「暴走族」の響きがカッコ良すぎるので「珍走団」に言い換えようみたいな動きが昔あったが、「暴走族」で十分ダサいだろう。だって「暴走」って、ジジイがアクセルとブレーキ踏み間違えてコンビニに突っ込んだりするときにも使う言葉ではないか。正しく世界を認知できてない人にあてがわれるレッテルなのでひとつもカッコよくないし、暴走族の個性をよく表している。他人と違うことをして目立とうと考えるのは悪くないが、その結果思いついた手法が「大音量のバイクで街中を走る」って、あまりにも認知が歪みすぎている。

「暴力団」ってネーミングも面白すぎる。自分はデスクワーク中心の仕事をしているが、自分たちを「パソコン団」と呼ばれたらめちゃくちゃムカつくと思う。犯罪者に対してあまりにもダサいレッテルを貼っているのが素晴らしい。

ただ、暴走族に比べて暴力団にはカッコいいイメージがついていがちだ。犯罪でメシを食ってる人なんか頭からつま先までダサ貫いてるし、何より「暴力団」とか名付けられている人たちなのに、ドラマや映画ではむしろイケオジの集まりみたいに描かれてないか。あんな、何がしたいのかもよく分からない威嚇だけしてる人たちがカッコいいわけないですからね。

これらに比べて「マフィア」というネーミングは少しかっこよすぎる。暴力団の海外バージョンでしかないのに、こんなネーミングでは憧れの念が生じてしまう。「チンポ」とかでいいのではないか。

ここで「マフィア」の語源を調べてみると、アラビア語で「空威張り」を意味するマヒアス(Mā Hias)から来たという記述を見つけた。諸説あるらしいがこれが1番ダサかったのでこれであってほしい。日本語的にはかっこいい響きだけど、空威張り呼ばわりされてるならまあ許せる。

よく考えたら暴力団も暴走族も、やってることは「空威張り」でしかない。こうなったら日本語でも「威張り団」とか「虚栄族」に改名したらさらにダサくなっていいのではないか。指定威張り団山口組。


1月25日

生まれながらにして人権をもっているなんて虚構だと言う半可通がいる。何を言っとるのやら。あたりまえじゃないか。人権概念は発明品つまり人工物なのだから。人は心臓をもっているように人権をもつわけではない。もつと考える人々がいる限りにおいて、もつことができる。たしかにフィクションだが、われわれの生存に役立つ貴重なフィクションである。だから、この概念に磨きをかけて、ときには修正しながら、ときにはそれを骨抜きにしようとする者たちと闘いながら、次世代に手渡していくことが大切なんだ。

—『教養の書』戸田山和久著
https://a.co/5U7GFMK


当たり前すぎて普段は気づかないが、人権ってサンタさんと同じで、みんながついてるから本当になってるだけのウソである。今の自分の安寧な生活は、後付けで作られただけのフィクションに支えられている事実はかなり恐ろしい。

たとえば今は掃除も皿洗いも工場作業も機械がやるようになっている。それはもちろん技術が発達したからなのだが、もっと前提を考えると「人間にやらせるわけにはいかないから」なのだろう。だって別に、わざわざロボットを作らなくたって、そういう作業をする専用の性別とか人種がいればいいですよね。ロボットは停電したら終わりだけど、人間は柔軟に対応できるし、命令のニュアンスとかも理解してくれるじゃないですか。まあ耐久性はないですけど、なんか脳の、疲労とか痛みを感じる部分を除去すればいいんじゃないですか? と考えられはする。

上記のような思考回路は明らかに人権的にアウトだが、アウトだと思うのはこっちの感想でしかない。人権概念を次世代に手渡していくなかで、伝言ゲームみたいに徐々に齟齬が生じていって、本気で上記みたいな発想に辿り着く人がいてもおかしくない。1000年後とかには僕らが習ったような歴史は全部忘れ去られていて、「え、今AIがやってる作業ってさ、一部は人間にアウトソーシングした方が安全じゃない!? それをどの人間に任せるかはまあ、遺伝子とかで決めれば?」みたいに、イチから奴隷のシステムが誕生してしまうかもしれない。

だからそうならないように歴史教育が必要なんですよ、という話ではあるが、子供の頃はそんなの全然理解してなかったな。勉強なんか自分がいい職に就くためだけの手段だと思っていた。もっと大いなる目的の、マッドサイエンティスト阻止みたいな側面には大人になってから気づいた。歴史の授業の一発目にこういう話をするのはどうですか? いや、そんなのとっくにしてて僕が聞いてなかっただけかもしれませんが……。

1月27日

何かコンテンツを見て泣くことが基本ないのだが、人生で3回だけ号泣したことがある。

1回目は映画『ライフ・イズ・ビューティフル』を見た時。

しょうもないジョークばっか言ってる高田純二みたいなお父さんとその家族がナチスの収容所に送り込まれ、そこから脱出を計る話だった。

お父さんは小さい息子に今の状況を悟らせまいと、テキトーな嘘をついてその場を切り抜けまくる。見つかったら殺されるような場面で「今からかくれんぼするぞ〜」とか言って息子を守る。このとびきり幼稚で優しい嘘が胸を打ったのだった。

2回目はM-1でマヂカルラブリーが優勝した時。

自分がお笑い好きになったきっかけはマヂカルラブリーの「天然おバカさんキャラ」というネタで、初見時は、ああ、世界にはこんな最高な人間がいるのかと感動すら覚えていた。その翌年にM-1決勝進出して最下位取って上沼恵美子にめちゃくちゃ怒られるのだが、もう勝手に自分が怒られてる気分になってメチャクチャ不快だった。

しかし、ネタの偏差値をひとつも変えずに優勝をかっさらってしまったので、いや、ただでさえ最高の人間だったのに、もっと最高になれることがあるのかと思った。電車にションベンを撒き散らして日本一になり、そのあとしっかりあんなの漫才じゃねーとか言われてるのカッコよすぎる。気づいたら泣いていた。

3回目はきのう『ブラッシュアップライフ』の最終回を見た時だった。

このドラマって(おそらく意図的に)シリアスなシーンが全然なく、良くも悪くも流し見できてしまった。微妙に世代じゃないので懐かしい気分にもならなかった。安藤サクラが才能ない夢追い人に公開説教するシーンが1番毒あってよかったなーとか思っていた。

しかし、なんか最終回のハローアゲインが流れる場面で突然号泣してしまった。意味がわからなかった。

振り返ってみると、主人公の守りたいものが「特にシリアスなことも起きない日常」だと分かった瞬間何かのダムが崩壊したのかもしれない。SPEEDに懐かしさは感じられないけど、概念としてのノスタルジーには無意識に共感していた。カラオケで『女々しくて』を歌っていたこと、シュガーソングとビターステップのバランス崩すところをみんなでマネしたことなど、自分なりのもう戻らない記憶が涙腺に作用したのだろう。



マヂカルラブリーとバカリズムのことを書いていて、そういえばこんなラジオがあったなと思い出した。

野田:そうなんですよね(笑)。芸能界にいて、「この人は過去に生きているな」っていうのが見つけられるようになってきたんですよ。小学校のとき、めっちゃ楽しかったんだろうなって思う人。

川島:ちょっと待って、そこに俺が入ってんの(笑)!?

野田:入っています(笑)。

川島:(笑)!

野田:川島さんとかバカリズムさんとかを見ていてわかるんですよ。僕も小学校のときに、めっちゃ楽しかったのでわかるんです。あのときの思い出を、まだずっと引きずっているんですけど、みんな大人になっちゃって……。

川島:大人というか、体が大きくなっちゃっただけですよね。(今の野田くんを操縦する)コックピットに乗っているのは、小さな小学生(の野田くん)ですよね。


「小学生のとき1番楽しかったんだろうな」という人って、人生の初期段階に死ぬまですがっている人でもある。こういった翳りと、やってる言動のしょうもなさにはかなりギャップ萌えを感じる。東京ダイナマイトのハチミツ二郎がカッコいいゲームのキャラクターを見たとき、「今度ノートに描こう!」ってコメントしてたの痺れたな。僕は中身が小学生のまま大人になった人が大好きで、その小学生性が大きな価値転換を産むとき涙腺が緩むのかもしれない。

逆に、妙に大人ぶったイキり大学生(もしくは自分のそういう部分)が1番嫌いで、それをボコボコに喝破するバカリズム的な毒もまた好きである。


2月1日

あらゆる単語を皮肉で説明する『悪魔の辞典』という本がある。


アマチュア ​( amateur ​ ​ n.) ​
趣味を技量と思い誤り、おのれの野心をおのれの能力と混同している世間の厄介者。

—『新編 悪魔の辞典 (岩波文庫)』ビアス,  西川 正身著
https://a.co/8JL9TQE

ハンカチ ​( handkerchief ​ ​ n.) ​  
ちっぽけで四角い、絹もしくは麻の布切れで、通常、これを使って、顔のあたりでさまざまな不名誉な役目を果させるが、わけても葬式のさい、涙が一向に出てこないのを隠そうとする時に重宝する。

—『新編 悪魔の辞典 (岩波文庫)』ビアス,  西川 正身著
https://a.co/dYao3Cp

正気 ​( sanity ​ ​ n.)
殺人の直前と直後に見られる精神状態。

—『新編 悪魔の辞典 (岩波文庫)』ビアス,  西川 正身著
https://a.co/dYao3Cp


中二病真っ盛りのときしゃぶりつくように読んでいた本なのだが、以下の1項目は特に心に残っている。


平和 ​( peace ​ ​ n.) ​
国際関係について、二つの戦争の期間の間に介在するだまし合いの時期を指して言う。

—『新編 悪魔の辞典 (岩波文庫)』ビアス,  西川 正身著
https://a.co/6IM6rw8


この説明では国際関係に限っているけど、あらゆる関係性における平和って「だまし合いの時期」でしかないんじゃないか。

自分は家族とケンカしたことは一度もないけど、それはケンカするメリットがひとつもないから自分が黙っているだけで、正直文句は死ぬほどある。外から見たら平和な家庭だろうが、「ただ戦ってないだけ」と形容するのが正しいとは思う。

「お互い本音を吐き出したら仲良くなりました」みたいなケースもたくさん見たことがあるが、それも結局、出せる「本音カード」だけ出して妥協点を設定しただけで、腹の底にはまだ残ってないか……? と思う。正直、本当に本音を全部吐き出したら仲が悪くなるエンドしかないのでは……?

自分に100%共感できる人は自分しかいない以上、あらゆるポジティブな関係って、「お前のことは理解できないけど、より理解できない何かに取り込まれないよう君と連携したい」という意識が根底にないだろうか。本音なんかぶつけ合ったところで、今まで目をつぶっていた共感できない部分が剥き出しになるだけじゃないだろうか。

血も涙もないことを言ってしまってるが、これは希望でもある。「だまし合い」さえできれば誰とでも平和な関係を築けるからだ。思ってなくても髪型を褒めよう! 気に入らないジョークで愛想笑いしよう! 友愛は本音を抑えることから始まる。


2月2日


3年くらい前、東京オリンピックの水泳日本代表が病気のため欠場を発表した際、当時五輪相だった桜田義孝が「がっかりしている。盛り上がりが若干、下火にならないか心配している」と発言して死ぬほど炎上していた。

客観的に考えれば、言葉選びは絶対違うし、大会よりまず個人の心配をするべきだ。そんなこともわからない下劣な品性のヤツは政治家をやるべきではない。岩が砕けるほどの正論ハンマーである。ただこのニュースを見たときは正直、そんな叩かれることかよ……と思ってしまった。

ちなみに桜田義孝自体はサイバー担当大臣なのに「パソコンを触ったことがない」とか言ってた人でもあり、その件に関しては完全にバカじゃんと思っている。しかし、「がっかりした」発言に関しては情状酌量の余地があるのではないか。

まず「がっかりした」に関しては、別に言いたいことは理解できる。オリンピックを担当してる人に感情移入するなら、そりゃ盛り上がってほしかっただろう。オリンピックは国粋主義者の祭典なので、そりゃ自国の強い選手に出てほしかっただろう。それが欠席になってしまったのだから、順当に残念だろう。抱いた感情は誰でも想像できるピュアなもので、ただひたすらに言葉選びを全部ミスっただけだと思う。

次に、そのミスり方が、勉強とかでどうにかなるものじゃないのが恐ろしかった。「パソコン触ったことない」に関してはいやパソコンの勉強をしろよと思うし、同時期森喜朗が放った「女性がいる会議は時間が伸びる」もジェンダーの勉強が足りてないですねと思う。でも、「がっかりした」に関しては、それを言わないようにする勉強ってなくないか? 「相手の立場を想像してください」くらい抽象的なことしか言えない。それは社会学でもなんでもなく小学生レベルの道徳なのだが、知識でカバーできない分、ここを身につけるが1番難しいのではないか。どれほど価値観をアップデートしても防げないバグのようなものを感じてしまった。

相手の立場が想像できなくて自己中な発言をしてしまうことって全然あるし、されたことも数えきれないほどある。だって自分の目からしか世界は見えないから。長々と言い訳してきたが、とにかく「これくらいのことなら俺も言いそう」と思ってしまった。3年経った今でも思う。先に謝っておこうかな。すみません。
























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