2023年12月8日〜12月18日
12月8日
『いい人すぎるよ美術館』という、ただいい人のサンプルを展示するだけのイベントがあったらしい。「友達の家に行ったときみんなの分の靴も揃える人」「調理実習で生ゴミを片付けてくれる人」などが、イラストや写真付きで紹介されていた。
そんなんTwitterのbotにした方が早いだろと思って行ってはないのだが、インターネット上のレポを見ると、その中に「チャットで誰かをメンションするときわざわざ"さん"付けする人」という展示があった。
自分はこれをいい人だとは思わなかった。
なぜなら、僕の会社ではメンション時の"さん"付けが暗黙の了解になっているからだ。つまりそれはやって当たり前なので、殊更にいい人判定にはならない。
このように、誰かがいい人かどうかってとことん相対的なものだと思う。いい人像は悪い人との比較でしか成り立たない。悪い人がいるからいい人がいる。となると、悪い人もいい人の一部なのではないか?
ともかく、この『いい人すぎるよ美術館』で指摘されたことで、いちいちチャットで"さん"付けしてる自分がアホらしくなってきた。最近はメンションするときも呼び捨てにしている。こんなことをしているのはまだ社内で僕ぐらいで、僕は悪い人なのかもしれない。しかし、人のよさが相対評価なのであれば、僕のおかげで僕以外の社員はちょっとだけいい人になったのだから、僕だっていい人だろう。
12月10日
一時期流行っていた映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』に関して、あるセリフ……というか作品内の道徳がかなり印象に残っている。
それは、「いろんな挑戦をして失敗したヤツの方が、可能性のタネをたくさん撒いてるので強い」というものだ。この映画は主人公がさまざまな人生の分岐点からマルチバースを転々とするので、たくさん人生を分岐させたヤツ、つまりたくさん壁にぶつかったヤツのほうが機動力が高いのである。何かに成功してしまったらそこに可能性は収斂してしまうから、通ずるバースの数は少なくなってしまうのだ。
こういった「無駄な経験なんてない論」は一見勇気がもらえる。挫折を経験した全ての人を優しく包み込む。しかしずっと違和感があって、そのせいでこんな旬を過ぎた映画を忘れられないでいる。甘い香りのする慰めは、根底に奴隷根性みたいなものを感じずにはいられないのだ。
己の選択に意味をもたせたい、まさか無駄な努力をしていたなんて思いたくない、数多くのしくじりの原因をたどるとこの弱さにたどり着く。自分は「無駄な経験なんてない」という思いで一歩踏み出すことが多いが、その度に俺はなんて弱いんだろうと思う。意味がないと部屋すら出られないのである。本当は、経験に意味を問うのは死ぬ1秒前とかで充分だと思う。それができずにウジウジしてるだけのやつが、「可能性」とか「意味」とかいう蜜に誘われて搾取されるのだろう。
12月11日
大学の教養科目とかで芸術論の授業をとっているとき、その芸術自体には興味ないが、「芸術についての話」は面白いと思うことが多かった。「偶像崇拝を禁止するプロテスタントに反抗するため、カトリックではド派手な宗教画を作って広告活動するようになった」とか人間味があっていい。でも生でその絵を見に行きたいとかは思わない。
自分の周りではかなり短歌が流行っているのだが、個人的には絵画と同様、「短歌」よりも「短歌についての話」の方が面白いと思う。
きっかけはこの本である。17文字の表現を論じているにしてはかなりボリューミーだったので読んでみた。本来理論化できないセンスの部分を頑張って説明している文章は、脳のレアな部分を刺激されているようで新鮮だった。「芸術についての話」にはこういう、実体のないものに何とかして触れてやろうとする汗臭さを感じるからいいのかもしれない。
短歌とはズレるが、これはいわゆるYouTuberの企画の中で1番好きかもしれない。ポエムだった方が勝ちってなんだ。そして審査員は相当論理的に審査ポイントを説明してくれているが、結局あんまりピンと来ない。もちろん自分の感性の問題もあるだろう。でもこんな漠然とした概念をゲームにできてしまってるのが凄い。
短歌そのものに全く興味がないかと言われればそんなこともないが、やっぱり詩情は全然わからないので日常に即している作品が好きだ。枡野浩一さんの短歌はとても刺さるので歌集まで持っています。
でもこれは「海と暴行」のような、飛距離のある単語を組み合わせたイリュージョンではないのでナイスポエムとは違う気がする。ただ共感できるから面白いと思ってるだけ。お笑いを楽しんでるのと似た感覚だろう。
12月14日
表で言ってもどうせ伝わらないことを言います。
・ガガガSP『卒業』のラストの語り部分はサルゴリラっぽい
・意味怖のカエル避けてると思ってたら轢いてた話、何回聞いても怖いより面白いが勝つ
・人間ちょっとイタくて笑われてるくらいがちょうどいいって、鳥人間コンテストのウィンドノーツ見ると思いますよね
・『走れ正直者』の「リンリンランラン ソーセージ ハイハイ ハムじゃない」って歌詞が意味なさすぎて好きだったのだが、のちにリンリンランランという双生児の歌手をイジってると知ってちょっとガッカリした(にしても説明不足すぎて面白いが)
・『ラ・ブーム』の歌詞の最後の「みんな僕を好き みんな君を好き みんな自分のことも愛してる」って怖い話みたいでゾッとする
・『正解のないクイズ』的な質問をいろんな宗教のトップに聞く番組見てみたいな。無理だろうけど
・カネコアヤノ『光の方へ』のサビってほぼ「バニラの求人見た〜い〜♫」じゃないか?
12月17日
ハライチのラジオでかなり印象に残っているトークがある。
上記書き起こしの岩井さんのトークパートでの発言で、面白いあるあるの「理想の割合はあるある7:たしかに3」「ほっこり感があるとなお良し」というものだ。
ここでいう「あるある」とはベタというかほぼ事実を指している。「あるある10」は「雲は白い」とかだろう。
そして「たしかに」とは新発見を指す言葉だ。つまり「たしかに10」だと「ノルウェーは遺体をラップに巻いて土葬するので、遺体が腐らず墓地の面積がどんどん狭くなっている」みたいな激コア豆知識になってしまう。
僕が興味深かったのは、いくら「鋭い!」とか「着眼点エグ!」とか思うあるあるでも、「たしかに」は3割しか含まれていないということだ。
人は想像以上に「もう知ってるもの」に安心したがる。斬新なものに触れても無理やり既存の枠に当てはめたがる。だから志らく師匠もヨネダ2000に「女版ランジャタイ」とか言ってしまったのだ。どんだけトガリたくても、人に伝えたいなら「たしかに」は3割目安、というのはあらゆるコミュニケーションに共通することかもしれない。
たとえば僕は雑談のレパートリーが極端に乏しい。そして普通の会話の中で「ゆず北川のお母さんって宗教の代表らしいですよ」みたいなネタを突然ぶっ込んでしまう。しかしこれは「たしかに」が強すぎるのだろう。自分としてはめちゃくちゃいい雑学を提供したつもりなのに、いい反応が返ってきた試しがない。嫌われない会話をするためにも7割の「あるある」はキープしておきたい。
そういえば最近のあるあるbotでこれが凄かった。たぶん「こっそりお菓子をカゴに入れる」だけだとまだ「あるある」が強いんだろうな。「バレた方が嬉しい」が「たしかに」を担っているのだろう。そして何よりホッコリする。これが思いつける脳みそがよかった! あとこれが思いつける家庭環境がよかった!
12月18日
この動画めちゃくちゃ見入ってしまった。正直余裕で笑いより不安が勝つけど、そういうのを含めてドキュメンタリーを見てるようだった。トドメの一撃でしっかりキレてることが分かるのもいい。7歳で親に抱っこしてもらってるというギリギリ加減もたまらない。
僕はお笑いライブや映画館が好きではなく、済ませられるものは全部配信で済ませてしまう。それは僕にこういった異分子を受け入れる度量がないからである。ライブ中に喋る人って普通に殺人とかしそうなので怖くて仕方ない。特に東京なんて月イチで電車で無差別殺人が起きてるイメージがあるので、こういうヤバい人を「ヤバい人だねw」と笑える神経がお陀仏になった。
公の場に現れる変な人とかマナーを守れていない人を見ると「レイヤー」のイメージが思い浮かぶ。こちらの世界とは違う論理や道徳を前提としたパラレルワールドが存在して、そこから漏れ出た怪異が現世に出現してしまっているのではないか。黒沢清の『回路』的世界観。あの世からこぼれ落ちてしまった幽霊のようなものだ。外から見れば僕らと彼らは同じ世界に存在できてしまっているが、実はレイヤーが違う。触ろうとしたら透けるんじゃないだろうか。
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